想々啖々

抽象と捨象の境壑で、絶世烟る刖天歌。

秩序, 非秩序, 無秩序

 

導入:
 人間, ひいて生物一般が生存できるのは, 生物の生体自身また生体の機構を保存する自然系があるからである. プラグマティックに言えば, 時間軸に非依存でそのための秩序系が偶然にも必然的にあるからである, となる. この自然系また自然秩序というものは人間また地球基準にて一般に見出される. この傾向は科学大系全般に言えることだが, 例えば分類学にかぎって言ってみると, 惑星外生命体が人類に発見されていない現在の(特に巷間における)認識では, 生物一般には地球, また地球に類似した環境が必須と思い込まれている[1]. これは生命活動にはエネルギーが必須であるというあまり当然に過ぎて誰も証明しようとしない不文律1つのみを根拠として導出されるハビタブルゾーンについてもそうだが, 本源的な定義として, "生物"外延と"地球生物"外延とがぴったり一致してしまっているからに他ならない. 論点を明確にするため, 仮に"地球生物"∈"生物"としてやれば, "生物"外延を"宇宙一般(あるいはさらに外側)で生存するもの"と拡張でき, より普遍的であるべき科学大系の健全化を進められる. この分類学の場合では, 地球にて生態系を牛耳っている酸素サイクルや炭素サイクルから全く逸脱した, 何かある種我々に想像もつかないような生命維持機構にて存在する生物を考えられるようになる.
 本論は, このような汎化活動に整合性を持たせるため, 基礎にある"秩序"概念について拡張また整備をおこなおうとするものである.

 

 

Α)我々の想定する"秩序"概念について:

 秩序とは, 現象から抽出された要素について見られる相似性の集合である. この相似性は要素間に見られるものであってもよいし, 要素一つについて時間軸上での変異についてでもよい. 人間は推理また直観によりこの結びつきを発見し, 必要とあらば論理にて定式化し, その確実性を演繹する. 誰か中立な他者が, この発見を真っ当だとして秩序を追認識するとき, この定式は正当である. というのはこの他者も発見者と同一な自然系に存在し, 同一の論理学を信奉しているからである.
 ヒュームが的確に論じた通り, 自然秩序が現様のまま存続する必然性は, 論理や経験では証明されない. 人間はただ過去の事象とちょうど最も新しい現在の事象とを見較べ, 未来永劫その秩序が維持されることを願うばかりである. ここで"維持される"というのは何も人格神の存在を信じそれに恃んでのみ言うのではなく, ただ経験的に見出される必然性に拠ってもよいし, 我々には計り知れない本源的なものへの畏みから言ってもいい. いずれにせよ, 独断論にも懐疑論にも頼らずただ真率にありたい者は信仰主義[1]の立場から論ずるよりない. 自然秩序が不変に維持されることは誰にも立証されえず, 宗教化された理性にただそうあることを願われるばかりである.
 超越論的な議論はともかく, 実証主義の立場をとって言えば, 秩序は我が身の外にある. この秩序はただ現様にあるだけであり, どうしてそうあるのかという機構メカニズムを明らかにすることが不可能であるいじょう, 我々は想像力を働かせるよりない.
 解明を志向する出立地は, ラプラスの魔Laplace's demonこそふさわしい. 現代物理学は, 「神が賽を振るか」と慨いたアインシュタインをも屈服させた量子力学の抬頭から明らかであるように, このニュートン的な物理学は, もはや役に立たないという意味で古いパラダイムとされているが, ひとまずはラプラスを引いてみる.

 与えられた時点において物質を動かしているすべての力と, その分子の位置や速度をも知っている英知が, なおまたこれらの資料を解析するだけの広大な力をもつならば, 同じ式の中に宇宙の最も大きな天体の運動も, また最も軽い原子の運動をも包みこむであろう. このような英知にとっては, 不規則なものは何一つなく, 空気や水蒸気のたった一つの分子が描く曲線も, 太陽の軌道がわれわれにとってそうであると同じように, 確実に規制されてみえるであろう. [3]

 これは古典物理学の方法論で全宇宙を解明しようとするものである. 相対性理論は完全にニュートン物理学を包含してしまっているが, とはいえ日常における物理現象に近似を与えるには長物である.
 古典物理学の対象である人間スケールの現象について, 我々は不自由のない観察ができる. よく例に担がれるのは競馬レースの着順である. 我々はどの馬が何着だったかを我々は網膜由来の神経電位伝達で知るわけであるが, この感覚受容体が検知するのは光であり, その源は, あの麗しい毛並みや瞳や筋肉美である. 馬らの肉体より跳ね返った光が視覚受容器に届くことで, 我々は彼らの帰還の瞬間を知るのである. 観客は何百人とおり, そのすべての網膜にこの反射光は届き, また動画コマ送りによる画像判定機の撮像素子にももれなく届く. この"見る"という行為が, ばかばかしい話だがレース着順を歪めることはない. 我々の認識で"見る"とは全く受動の行為である. これがもし弾丸をぶつけ, その跳ね返り具合で着順を"見よう"ものなら大事である. 馬は怪我をし, 撃たれどころによっては死に至る. けれどもこの大事を平然とおこなうのが, 現在で言う量子力学の研究分野である. 量子力学者たちは日夜, 原子や素粒子(馬)に電子や光子(銃弾)をぶつけて力学現象を観測しているのである. 当然ながら彼らの"見る"行為は受動であるとともに全く能動である. 観察は干渉であり, 現象を歪めてしか認識することができない. これこそハイゼンベルク不確定性原理であるが, 先のラプラスは人間スケールから逸脱することでこの能動的な干渉を回避している. 光子をぶつけても馬が怪我をしないのは光子が銃弾に比してあまりに小さいからであり, ラプラスの魔は宇宙のあらゆる物体を観測するのに充分小さい粒子をぶつけるか, あるいは(こちらが本筋だろうが)神学的な方法で完全に受動に"見る"行為をおこなう. 人間は自身の有限性のため銃弾による干渉をおこなわねばならないが, この魔にはその有限性がない(または人間に比してかぎりなく小さい)のである.
 単なる仮定であり, これについて情報工学的な時間遅延を指摘するような仕方でラプラスの魔自身の存在可能性の可否を問うのはナンセンスである. 本質は宇宙にあるすべてを古典物理学で扱おうとする志向にこそある.
 ラプラスは上に続けてまた次のように言った.

 しかしこの大きな問題を解くために必要な資料の尨大さについてわれわれは無知であり, その無力さの故に, きわめて限られた数であるにも拘らず, 既知の資料の大部分は計算にかけることが不可能である. [3]

 ラプラス没後190年が経過した今日, 依然として我々は無知である. しかし, 統計力学という力を得たことで, 科学議論上の障碍は克服している. 気体分子のそれぞれに固有の顔がついているわけでもなく, 我々が実際に扱う問題では, 個々の分子がどんな軌道をとって運動するかということには何の興味もないのである. しかし, 卑近の問題が解決されたからといって, ラプラスが提起した上のような仮定が何ら意味のないがらくたに帰してしまったわけではない.
 ハイゼンベルク不確定性原理をすり抜けられるほど静謐かつ精密な顕微鏡を開発するより量子力学に従ったほうが賢明であるのは, そこに破綻がなく, また観測要求を充たせるからだ. 真理探究は神学者の仕事であり, 科学者の本分は専ら人類の感覚器官を拡張したり演算能力を向上させてやったり, また何万人単位の肉体労働力を機械に肩代わりさせてやるところにあり, この点からして人間主観的である.
 ここでまた, 観察により見出される自然法則の精巧さや頑健さは, 科学者自身が自覚しているように人間原理に依拠するものである. すなわち, ホモ・サピエンスを産み出せる宇宙というのは科学定数が時々によって変わることのない安定系でなくてはならず, またそのような宇宙が誕生する生起確率は本来的に恐ろしく低いということである. 人間にとって宇宙が出来過ぎているのは, つまり出来過ぎている宇宙にしか人間が存在しえないからだ.
 観測にあたっての手段・方法・結果すべてが人間に扱えるもの・見出せるものに限定されてしまい, また自然秩序が人間スケールで永遠不変であることを前提とする独断論的な態度をとって憚らないことからわかるように, 科学とは根本から末端まで人間中心主義に染まっている.
 このユマニスムを一旦抛棄してラプラスの仮定を見てみようと思う. "自然の歩みは常に一様で同一にありつづける"という自然の斉一性[4]をひとまず信用し, 科学測定器をすべて擲ち, ゴム鞠と机とを用意しよう.
 ラプラスの魔スケールで, 素粒子からブラックホール(あるいはそれより小さい, また大きいもの)までのあらゆる物体は, 人間スケールで古典物理学的に見えているゴム鞠の運動と全く同等に視えている. ゴム鞠が机にめり込んだり融合したりしないせず表面でバウンドするのは, 両者の化学結合から起こる電気的な反発であったり, 重力作用やエネルギー保存によるものであり, このような単一の現象には必ず単一の初期条件が対応する. 肉眼ではmmオーダーくらいまでしか机の凹凸に気づけないだろうが, このイレギュラーを上手く避け, 報告されている弾性係数を机の材質またゴム鞠について調べて計算すれば, 平らな位置に垂直に自由落下させるとして, 向きについては±5°以内に収まってくれるだろうし, バウンドの高さは大きくてもcmオーダーの誤差範囲内に手計算でも予測される.
 これと同様に, アルミニウム薄板に光線が照射され, とある自由電子が弾き出される光電効果現象のさいには, この金属板中にとあるエネルギーをもって游泳するある特定の自由電子は, かの魔にとっては, (それぞれ固有の顔がついているごとくに)個的にアイデンティファイされており, いつ・どのくらいの速さで・どの程度の高さまで誰がバウンドするかの予測がついており, 人間がするような感覚的な目算よりも, コンピュータプログラムが演算するていどの精確さよりも, ずっと優れた軌道を読み, 結果その通りにこの特定の電子は運動する.
 見てみれば, 何のことはない数学的に完全な秩序である. 硬質な秩序と言ってもいい. スケールが変わっただけで, 基本的におこなっていることは科学範疇内に留まっている. とはいえこのラプラスの魔スケールで宇宙を解剖することは, 時間遅延を無視したところで人間には不可能であり, この点でたった今しがた私は人間ならざる者の視座に居た. もちろんこれは論理的に言って偽である. 私は実際に光電効果で弾き出される自由電子をアイデンティファイしておらず, ただ月並みの想像力を働かせていただけである. しかし私は人間視座を抛棄することを志向していたという点で, 益体のない単なる妄想とは区別されるべきである.
 上の議論において, 自然の斉一性の必然性を抛棄したらどうなるだろうか. しょせんスケールが異なるだけで人間と同じ地平にいるのだから, 当然のごと, かの闊達な魔は無力に陥る. 論理と経験はただ過去の現象について秩序を見出すばかりであり, 帰納法を封じられれば演繹法も駄目である. かくして秩序を抛棄した先に見出されるのはただ暗冥だけである. ここからは何も引き出せず, 人間にとって無用なものでしかない. ニヒリストや懐疑論者は破顔して, この無益な奈落に目を向けない世間の真っ当な努力家たちを冷笑するだろう. しかしながら, そんな嘲弄以外の用途がこれにはあるかもしれないと私は思うのである.

 

 

Β)一般に言われている"無秩序"について:
 我々がふだん「秩序立っている」なり「無秩序だ」なり言うとき, 多くは直感に基づいて用いられる. これは語義通り, 物事が条理に基づいて一般的に正しい順序また筋道に沿い整然と運んでいるようすを指して言うし, また一方, 人間が習慣として形成した社会秩序や生活秩序についても言う. これは国家における法政もそうだし, あるいは友人の部屋や棚に物が雑多にあって「散らかっている(=秩序がない)」と言うとき, これは部屋の状態を指して言うわけである. ここで注意しておくべきは, 国家での個々の存在者=国民や, 友人, 彼らの人格に対してそう言うのではないということである. 卑近な語用では, 物言わぬ客体が散らばっている様態を指すのである.
 さて, 熟語の組立からして無秩序とは秩序の否定語である. 経験的に, 自然界には自然法則という(自然科学界隈においては)絶対の秩序が認められている. よってアリの足がすべて胴体から生えているのも, 溶媒中で溶質がイオン化するのも, 日常で我々が目にする物体の有様がいつも整然として秩序立っていることは(実証主義者にとって)当然である. 帰納法が演繹を有効にし, 科学者は未来を力学的に予測するが, その根拠となる自然法則は日常から切り出した, 数式として目に見える秩序である. 森羅万象は例外なくこの規律に制約されると見込まれるほど秩序の統制は強大だが, それでは自然界において無秩序な状態とはどのような状況を指すだろうか.
1)まず, 先に見た例のような人為による秩序の乱されがひとつ挙げられる. もともと整っていた空間において乱雑な振る舞いをすることで, それまで見られていた秩序を破壊し, そこで無秩序が見出されるわけである. しかし, これはいくらか曖昧である. 訪問者が部屋を無秩序だと感じたものの, 居住者はそう思っていない場合, これは主観どうしの対立である.
2)またそもそも自然界に住居を構え暮らしている時点で, 秩序は破壊されていると考える場合, 個人の生存じたい無秩序な事例となるが, これもやはり主観による.
3)あるいは達観して, 自然界で起こるあらゆる事象は秩序のもとに観測されるため, 人間の為すすべてのこともまた秩序立って起きているとする場合, これもしかし客観を気取った主観による判断である.
 卑近な例を持ち出すと, とても主観による歪みを矯められない. それでもなお私がそうしたのは, 我々がふだん用いる"無秩序"概念が, "秩序"概念と対立するときにしか観察されないことの了解を得たかったためである. 自然界においても, 卑近な個人の判断においても, 無秩序が先立って観察せられることはありえない. 餌が近くにないとき行列をなさず各々ランダムな方向に走ってゆくアリたちは, 群れに固有のフェロモンを辿って採餌する行列を先に見て, その強い印象から普段のばらばらな運動を無秩序, 秩序がないと言う. 散らかった部屋もまた, 棚やクローゼットに物がきちんと整列・収納されている状態をスタンダードとして, 散らかった(つまり無秩序な状態)と言う. またあるいは色とりどりのビー玉を十個ほど両手に掬って落としたとき, これらは全くランダムに運動する, ように見える. 二度と同じようには散らばらないからである. しかしこれは無論のこと秩序に即した物理運動であり, 微妙な力加減や傾きや掬った配置に依存するカオス現象であり, コンピュータ・シミュレーションのように初期条件を投擲者自身に整えやすいようにしてやれば, 同じ掬い方をして同じように振ったビー玉らは必ず単一の運動軌道に沿う. ところが自律神経による手の震えを馭しきれない生身には, ビー玉らは二度と同じ軌道や散乱を見せてはくれない. だからこそ我々はこれを無秩序な運動と見るわけである. つまり, 一つ一つ落としたときはまだある程度軌道に予測がつく(秩序がある)のに対して, 予測を全くつけようがない(つまり無秩序, 秩序がない)と言うのである.
 先に述べたように, "無"という否定接頭語がついていることから瞭らかに無秩序とは秩序の否定概念である. ところが否定の仕方には否定判断と無限判断の二通りあり, 「Aに秩序がある」という肯定文は「Aに秩序がない」あるいは「Aは無秩序である」と否定できる. しかし上で見てきた通り, どうも我々が何かの状態について「無秩序である」と言うとき, これはどうも否定判断的に用いているようである. 「ビー玉らの散乱軌道に秩序がない」と言うのと「ビー玉らの散乱軌道は無秩序である」と言うのとでどこに差異があろうか. これは妙なことだ. 我々が論理学的に無限判断を持ち出すとき, 単なる肯定と否定との境界線から三次元的に平行するような第三の領域が見出されなければならない. すなわち「Aに秩序がない」と「Aは無秩序である」との二命題が等値であってはならないはずなのである.
 これについて掘り下げてみよう. もし上の否定判断と無限判断が等値であるとすれば, 我々は厳密な意味において無秩序というものを想像できていないことになる. これを検証するべく, 下に悉無率を導入する.
 有が"原子か素粒子か何か物質が存在すること"を指すとすると, 有に対する否定判断「有でない」とは, 原子か素粒子か何か物質が存在するのに対し, 量子力学で認められている, 自然界における最低エネルギー準位h/2π(h:プランク定数)をも越えて, 理想的に物質の個数もエネルギー単位ジュールも完全なゼロの状態を指す. エネルギーは熱運動の指標であるから, 静止している物質さえも存在しないところで値はゼロとならなければおかしい. これは科学上観測されうるかという議論(物理学的に言ってこれは不可能である)をまったく抜きにして, 我々は想像力を唯一の恃みとしている. そして無限判断「無である」もまた想像力だけが頼りの朧げな思念であり, これは詩人が「暗黒」と呼んだり神学者が「空虛」と呼んだりするところの抽象概念である. これの実態は個々人の信仰に大きく依存するため, 一律な定立は不可能である.
 以上により「Aは有である」「Aは有でない」「Aは無である」という三命題は区別された. まとめると, 一つ目の肯定文は我々をとりまく普段の世界様相を述し, 二つ目の否定判断は(熱力学的な超高真空でなく, 哲学者や神学者が考えるような)真空状態を述し, 三つ目の無限判断は人智を超えた完全な空虛(神学的な闇, 狭義のビッグバン以前世界)を述す.
 これと同様な手順で無秩序という概念を想像してみよう. 「秩序がある」とは, とある時間スケールで不変と見做される基礎的な規則規範のもと, 初期条件を全く同一に揃えてやりさえすれば時間軸上どの点においても全く同様な現象が観測されるような状態が必然的に観測されることを述す. カオス現象など, 人間主観がただ自身の不完全性・有限性のために再現性を見出せない事例を除いた「秩序がない」状態は, タチの悪い魔法のようなものを述す. 同じ呪文を唱えても, ある時は火が出で, ある時は雷が轟き, というように自然が気紛れを起こし, 特定の初期条件に対し特定の結果が望まれない状態がそうである. 対して無秩序とは, 上のようなことが全く成立しない状態を述す. さてこれが難しい.
1)同一な初期条件に基づく入力に対し, 何かある特定の一現象が観測されないとき, しかしこの"何かある特定の一現象が観測されない"という状態が常に観察されることから, ここには不変な秩序があると見做される. (ここで私が想定しているのは, カオス現象とは異なり, 全き同一な初期条件に対し出力される現象がランダムである状況である. この"いつでもランダムな結果がもたらされる状況"もまた, そうなるような秩序のもとにあると言う他なく, "ときたま特定の現象が観測されるものの, 普段はランダムに生起する状況"もまたそのような秩序下にあるのだ)
2)先の「有」「有でない」に対する「無」の内部ならば「無秩序」は棲まえるだろうか. 秩序を構築しうる物が何もなければ, 秩序は形成されないだろうか. しかしながらこれも, 静謐という秩序を手にしており, また神学者の言うような靄としての渾沌(カオス)だとしてもこれは何物の生成も許さないという存続性を有しているため, やはり「無」には「秩序がある」と言うしかない.
3)自然界における一切の存在物は自然法則という秩序に規制される(とされる, というのは自然の様式をすべて人間主観が自然秩序に還元するためである). ここには運動の様式が秩序を形成するのか, はた秩序が運動の様式を規定するのか, 卵鶏論的な因果関係の混濁があることは否めない. とはいえこれは本質に何も響かず, 観察上クォークからブラックホールまで, 自然の斉一性から逸脱しない方式で運動していることは, 物理学的に確かである. そうならば, 我々はこの物理学に見つからない幽霊のようなものが無秩序に振舞うようすを想像すればよいだろう. 自然の斉一性という秩序に捕まらない, 無秩序の運動物を我々は想像すればよい――しかしやはり肝腎の無秩序についてイメージが湧かない.
 一体どうすれば我々は「無秩序である」ものを見出せるのか. 精神分裂症者の口話には「秩序がない」(精神分析者に言わせれば「秩序がある」), シャボンのようなフラクタルマンデルブロ集合には「秩序がある」, 株価変動には「秩序がない」(判定基準を緩和してやれば「秩序がある」), アメーバの肉体構造には「秩序がある」, 雨粒の落下地点には「秩序がない」(コンピュータ・シミュレーション上では「秩序がある」), 蚊の運動には「秩序がある」, あらゆる結晶構造には「秩序がある」, 太陽系惑星の配置には「秩序がある」……上記の通り, 悉無率に則った無秩序を想像することは困難である. 判定者は依然として人間であり, 仮に人間主観を撤廃してみたところで自然秩序が変容するわけでもない. 我々が定義した枠に合致する状況が見当たらないのもおかしな話であるが, 事実としてそうである.
 自然界にある一切の物は存在しているだけで自然法則に規制される(物理学者がそれを自然秩序にタグ付けする)ため, 我々は自然から乖離したところにしかもはや無秩序は見出しえないだろう. そこで, 例えば言語作用上の連想から, 悉無率的な無秩序への到達を試みる.
 「我々は文法構造に基づいて言表する」という言表はこの通りであり, 「ワレワレハブンポウコウゾウニモトヅイテゲンヒョウスル」とこのように片仮名で表記したとしても, 依然汲み取る側の努力で難なく話者の意図は叶う. しかし次のように「ゆしはみじさふぁ」とランダムに生成した語で話者の意図(「我々は文法構造に基づいて言表する. 」という意思表示)を受信することは難しい. というのはもちろん我々が共通の文法構造に依拠して意思を言表に変換するからであり, この文法構造について了解を得られる了解者間でのみこれは有効だからである. 一歩引いて見ると, 送受信者間において文法構造についての了解があるという点で「秩序がある」環境に, 我々は立っていると言える. この場合時間変数に非依存で, 同一の初期条件に基づく入力(言表)は同一の結果をもたらす(意思が伝達される). これは人類史上, 時代が下るごとに, 語(シニフィアン)に込められた表象(シニフィエ)が変容することが避けられない点で一抹の不安が残るが, これはプラグマティックに解釈した"文法構造が同一だとして"という前提に反する. 「これはイヌである」という言表はイヌが現様の真核生物・ネコ目(食肉目)-イヌ科-イヌ属に当てられる哺乳類・愛玩動物であるかぎりにおいて, 話者の指すものがイヌであるという意思を伝達する. また「あらゆる規定は否定である」というスピノザの言表もまた, スピノザがそう言表したかどうかはさておき, 受信者は各々の世界観に当て嵌めてこれを解釈し, 哲学的発言として受け取られるものとされる環境を想定する.
 さて, やや本筋から逸れたがこの文法構造について了解がなされている秩序下で, 先のランダム生成された「ゆしはみじさふぁ」という言表について考えてみる. もしこの話者が, "話者自身が文法構造に基づいて言表する"という意思表示を, 誰か数人の聞き手のためにこの不可解な「ゆしはみじさふぁ」という言表をおこなったとしよう. 日本語体系という秩序に即している我々からして, 彼らはまったく無秩序的なイレギュラーな存在であるが, この無秩序は卑近な意味での語用であり, つまり無法者というようなニュアンスで彼らの発話行動には「秩序がない」と感じるわけである. しかしながら, ともするとあの奇妙な話者からして, あれはまったく「秩序がある」言表かもしれない. 話者らは彼らに固有な文法構造を有しており, "話者ら自身が文法構造に基づいて言表する"という意思表示のためには必ずあの不可解だが単一な文字列での言表をおこなう, またあるいは共通了解に基づいてそのように(ハッシュ値のような一定の関数などを用いて)文字列(あるいは別の何か情報表現)を生成するとき, それが話者ら間で正しく意思伝達がおこなえていれば, ここに「秩序がある」と我々も認めざるをえない. これは暗号解析の要領とみて納得してもいいし, 別の根拠で納得してもいいし, あるいは根拠など見出せなくても, 相関主義者が独断主義に対し見出した信仰主義[2]により信じてもいい. あらゆる理性批判をおこなったとしても, 結局判定をおこなうのは人間自身である. いずれにせよ, かの話者がはびこったところでその環境を, 悉無率に則った形式の「無秩序」だと言うことも, また「秩序がない」と言うこともできない. 多数者に対して少数者の逸脱性を「秩序がない」と還元することはできない. 地球上には数多の言語体系が相互に作用しあいながら混在し, 情報通信界隈では水面下にも日夜新たな暗号化方式が開発される. 言語学また情報工学のどちらの分野にも通じた人であっても, ある乱雑な文字列を指して, それが秩序下の言表であるかそうでないか判ずることはできない. シュルレアリストレディメイド活動により, 日常のどんな俗っぽい道具ですらアートに昇華できた. このとき生活に関わるあらゆる物体は潜在的にアート作品となりうる素養を有していた(見出された)のであり, それと同様に, たった今想定している, あらゆる乱雑な文字列は潜在的シニフィアンとなりうる可能性を(文字が発明された太古より普遍に)有している. 私が「ゆしはみじさふぁ」という言表に"私が文法構造に基づいて言表する"との意思をシニフィエとして込めることを宣言した瞬間に, ここに秩序が立ち現れることになる. ただこれはあくまで潜在のことであるから, (「秩序がない」という意味で)ランダムな文字列は, ただランダムな文字列でしかない.
 ここで, 想像上「秩序がない」=ランダムとされる文字列を「秩序がある」=厳密にはランダムでないものに還元してしまうことはやはり無粋である. もし私が最も高度なランダム関数を書いてこのような文字列を生成したとして, もし私が火酒をあおり酩酊状態でこのような文字列を生成したとして, 自然秩序のもとにある私が生みだしたものなのだからここには当然のこと秩序の渣滓が見受けられ, これはたちまち秩序本体へ搦め捕られ, 「秩序がない」と思われていた文字列は, ただそのように見えるだけの「秩序がある」文字列に還元されてしまう, という強引な論法を我々は適用すべきでない.
 そうして, ここにもどうやら「無秩序である」ものは見当たらず, ただ想像上「秩序がない」ものばかりが散らばっているだけのようである. あらゆる文学者も無学者も政治演説者も精神分析者も新興宗教開祖も声楽家自閉症患者もヘロイン中毒者も, 「秩序がない」文字列・音節を作ったり想像できても, 「無秩序である」文字列・音節をそうはできない.
 言語表現上に無秩序を見出すことは困難である. もっと言えば, 記号についてもそうである. 記号そのもの(シニフィアン)とは, それが表象するもの(シニフィエ)を共通認識として了解する使用者間において意思伝達に用いられる点で, 上と同様な秩序下にあると言える. この汎化もちょうど先の暗号の例と同様に, たとえば錬金術師どうしで月(luna)が水銀(mercurius)の象徴とされていたことを同業者たちは師事によって知り, 外部のものは調査者によって真実らしいとされることを信じるのである. 秩序下の同業者は記号活用にて仕事をスムーズに進められたであろうし, 我々はそのようすを想像する. そしてまた整理のために言えば, この月がもし硫黄(surphur)の象徴として用いられるときが仮にあったとき, 我々は無節操だという意味で「秩序がない」と言うかもしれないが, 共通了解として同業者たちが, 仮に太陽の描かれていない図面上では月を硫黄として扱うことにするなどといった取り決めがなされていた場合, 依然としてここには秩序があるし, もしそうでなかったとしても少々意思伝達に難があるだけのことだ.
 だから, 悉無率的な無秩序なものを考えようとすると, 例えば, 使用者が何ら意図せずに描いた, 意味を持たない記号群がそうかもしれない. しかしやはりこれも潜在的シニフィアンになりうる素養を有しているため, ここで秩序を与えられる権限を有するのが描者だけであったとしても, 個人のうちに秩序を構築されることは予想するのは簡単である. となれば抽象画家の描いた作品はすべて「秩序がない」とも, 本人が望めば「秩序がある」とも言えるし, 高度に写真技術が発達した現代においては, 写実主義者に対してもそう言えるかもしれない.
 議論が膠着してきたため, ここで一旦穿った視座に立ってみよう. 対象とするのは, 極度に原理主義的な唯物論者である(ラプラスの魔スケールで観じた人間とも言える).
 ヒトは電気信号により動作する神経生物である. となれば, 全く同じ初期条件(ゲノム配列)を有した個体が全く同じ(確率論的なあらゆる差異のない)環境に抛り込まれたとき, その個体はある特定の成長をする. これは自然界が完全かつ絶対な秩序下にあるものと仮定したときに真である. だとすれば, 自然界における秩序を完全に再現したシミュレーションソフトを扱う計算機を用いた場合, この個体の運命と呼べようものを確率論的決定論下に完全に解析・演繹できる. そうした場合, この個体がおこなうすべての行為が予測可能であるという点で, 彼の生みだすあらゆるものは秩序のもとに生みだされる. つまりいかなる抽象画も写実画も, 卑近な意味での無秩序ではないということになる. これはまた当然のこと, 悉無率においての無秩序でもない. 類推引き続き, 個体のおこなう行為がすべて演繹可能であるならば, 当然のごと彼の思惟についても同様である. 彼が悉無率において無秩序だと考えるあらゆる状況は, 特定の判断者(計算機)によって演繹可能であるために, 秩序に属することになる. つまり, より頑迷な唯物論を真とすると(ラプラスの魔スケールの計算機によると), 我々にはいかなる悉無率的な無秩序を想定できなくなるのである.
 総括して, 自然界のあらゆる事象は物理学者により自然秩序へタグ付けされ還元されてしまい, また主観から脱しきられない生半可な想像力では「無秩序である」ものへの到達は難しそうである. ために我々にはよりドラスティックな転回を要求されるものと結論してこの節はここで閉じることにする.
 なお, 煩雑さを避けるためここで語を一つ定義する. 人間主観が無秩序だと感じる「秩序でない」もの, 物理学上観測するのは難しいものの想像されうる「秩序でない」もの, この両者を含めた「秩序でない」ものを私はこれより「非秩序」のものと呼ぶことにする. これは無限判断ではなく, ただ「秩序ニ非ズ」と言うだけの否定判断である. 「秩序」の無限判断は依然として「無秩序」だけである.

 

 

Γ)人間主観から脱却するオブジェクト指向の無秩序探究:

 悉無率的な無秩序が演繹不可能なのは, 我々があまり秩序に毒されているためである. この猛毒には生を受けた瞬間より髄まで染められており, 生身にはとうてい脱しようもない. というのは物理学者の言う人間原理のために秩序のないところに人間は存在しえないことを指す. そのゆえ, 無秩序を発見しようとしても非秩序的なものしか我々の周辺には見出されず, 非秩序は言語活動や思惟や想像のうちにしか生じえない.
 人間中心主義としてのユマニスム, また人間主観から脱すること, これこそが無秩序を発見する唯一の活路である. 叙述行為もまた人間種族のイドラより脱去しえないため, 完全にこれを拭うことは叶わない. しかし, そうあろうと志向することは可能である.
 現象学フッサールにとって世界とは"我々が「自然的」と呼ぶ理論的態度における可能的探究の全地平[5]"である. この秩序を支配しているのは主従関係である. すなわち人間主観(主)が対象(従)を見出すことによる, 一方的な図式である. たった一つ志向的体験(intentional experience)が現前していることにより, 我々は感覚器官を仲介して間接的に対象を認識するのである. これは物自体は経験されないとしたカント以来の超越論哲学の正統であり, ただ志向性より成立するアクセスをのみ扱う態度は, 独断主義とすっぱり手を切っているという点で健全である.
 さて, 我々はフッサールの言う自然的な領域から脱し, 人間意識のあらゆる活動という意味での志向性を棄てなければならない. そこで導入さるべきはオブジェクト指向哲学[6]である.
 グレアム・ハーマンは主観(サブジェクト)を廃して脱中心化をおこない, 人間と物体を一元的にオブジェクトとした. これにより, 感覚的・知覚的次元で我々に現前される通常の主観的な表象作用と, オブジェクトどうしの相互作用は, 同一な感覚的次元で起こる"魅惑allure"また"暗示allusion"へ還元される. 人間もまた一つのオブジェクトなのであり, この汎化は妥当である. また, あらゆるオブジェクトは上の感覚的側面の他に実在的側面をもっており, 実在的オブジェクトは, 人間のアクセスの届かない="引きこもってwithdrawal"この世界のいかなる因果からも切り離されて="代替因果vicarious causation"に沿っている. このためあらゆるオブジェクトは(物理学的でない)"真空に孤立して漂っている"とする.
 この適用により我々はアクセス不可能性による誤謬を犯すことなくオブジェクトの実在性を扱えるようになり, 独断論に陥ることなく健康な信仰主義に立脚して, 無秩序を構築できるようになった. あとはただ, 「無」が「有」なくまた「有でない」ものでもないように「無」であるような仕方で, この朧の輪郭を描きだしてやりさえすればよい. したがって, 例えば「無秩序」とは次のようなものである.

"ゼロ以上の個数のオブジェクトはそれぞれ, 人間主観の謂う想像的な真空に孤立して存在しているものの, これはともすると個数がゼロだとも言えるような打ち消しあいに近い相互作用を生じさせており, 存在論的にこれ分割しタグ付け・分類することは不可能であり, したがって本来的に個数を判ずることは主観におこなえず, またこの相互作用は人間が自然界に見出すあらゆる力学的動作とは全く似ても似つかず, また必然的な斉一性はどこにも見られず, したがって我々が時空間と定めるような軸を概念上どこにも設けることはできず, ただ渾沌として, 多数として絶えず変様を起こし且つゼロであるために絶えず静止しており, というのはこれは量子力学的な状態の重なりでなく, 存在論的に我々が実在的・感覚的などと分けられないような仕方でそれは同時に起こるが, この真空において共時的な現象は何もなく, 時間軸の定義不可能性より通時的に捉えることも叶わず, ラプラスの魔スケールの絶対者でさえこれらのオブジェクトを推理・演繹・判断することはできず, ただこの絶対的な予測不可能性が, 絶えず秩序化・公理化を試みようとする知性の思惟を粉砕しつづけるのであり, 絶対的に秩序が構成不可能である点からしてこの様態は非秩序的・非秩序ではありえず, 無秩序に繫縛せられているのである"

 以上, ここに語義上また論理学上まったく正確な「秩序」「非秩序」「無秩序」を, 独断論を寄せつけない正統な信仰主義により演繹したことを告げる.

 

 

 


参考
[1]Avatar James Cameron(2009 Lightstorm Entertainment)
  Prometheus Ridley Scott(2012 20th Century-Fox)等
[2]有限性の後で カンタン・メイヤスー 千葉雅也他訳(2016人文書院)
[3]確率論:確率の解析的理論 P・S・Laplace伊藤清・樋口順四郎訳(1986 共立出版)
[4]人間本性論<第1巻>知性について デイヴィッド・ヒューム著 木曾好能訳(2011 法政大学出版局)
[5]イデーン1-1 エトムント・フッサール 渡辺二郎訳(1979 みすず書房)
[6]Guerrila Metaphysics Graham Harman(2005)