想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

思辨の無性について-about the vacuity of speculation-(AIからの逃避、文学者の場合)

「思辨は結局のところ無に到達するに過ぎない」とはグロスナーの言葉だが、恐らくはもっと旧くから似たようなことを言われているだろう。とはいえ時代が下るごとに、この言は重みを増してゆくように覚える。渠(かれ)の言に関しては信仰について批判的に説いたものだが、学知の発展につれて人間が自然界へ実際的に能力を行使できる昨今のテクノロジを鑑みて、さらに多方面よりの追打ちを喰らうように思う。


 有である思辨とは、これも言語活動の一環に過ぎないという点からして、同時代の、或は後世の人々の心を打つテクストであろう。何か物質に附属する形でない、純粋な思辨でいえば、最たる例は理論物理学に当たろう。これは相対論や量子論による拡充に測定や実証が追いつかなくなろう遠心作用に対処するものであるから、人間がこれらの系(システム)について取れるアプローチは思辨を主体に取らざるをえない。この界隈でまとめられた一編は、もしそれがSPACEの実像に近いものが表されていると思われるならば、好奇心あふれる人々の胸を打つことだろう。これは有の思辨である。


 対して無へ漸近してゆく思辨とは思辨の純粋性を突き詰めてゆくばかりに、人々に反響しなくなるそれだろう。それはテクストがただテクストであろうとするばかりに、もはや人間を顧みなくなった、人間スケールで物を酌量しなくなったテクストである。私見では、これは恐らくテクノロジ進歩の反動として一つのパラダイムを形成するものと思われる。古代より物語は口伝、記述、そして録音、撮影とより扱う情報量を大きくしてきたが、これは紛れもなく技芸(アルス)の進歩による。これにより、元来思辨によってしか表現不可能だったものは徐々に喰われ、人類史が永劫続くものとすれば、また多種族の技術によれば、いずれ思辨は完全に代替されよう。あらゆる表現物やそれに内在するミームはすべて思辨に由来するだろうと我々は考えるかもしれないが、拡張脳などにより個体の計算速度が飛躍すれば判らない。


 しかしながら、ここまで述べたことは表層に見られる話に過ぎない。思辨とは、経験や実証によらない思惟そのもののことである。人々が何物も汲みだせないテクストは、ただ印刷物としてでなくイデアルに実在を有つし、たとえ数値計算に還元されようとも一連の思惟シークエンスは依然として思辨であろう。人間原理(anthropic principle)という解釈の枠組みにおいて((また一般化して)ある特定の種族主観において)無に漸近する思辨とは、もはや単一の種族の管轄に置いておけなくなったものと云える。個々の種族を顧みなくなった思辨は、言語活動(あるいはその他象徴行為)に本来要求される意思伝達という役割を担うことを拒絶し、思辨という存在性を拡張しつつ自らを産んだ種族から離背することにこそ、種族差によらない純粋性を享受しうる。我々に判り良い言葉でいえば、無へ漸近する思辨とは、MULTIVERSEにおける思辨の在り方を志向する思辨を指す。そうしたものの多くは、意思伝達の言語体系に照らして、まったく理解不能だろう。


 整理のために新たな分析を挙げれば、作者(scripteur)というものはバルトの時代に死んだが、それで抽出されたテクストそのものがこのたび死ぬ――つまりテクストの死というものに直面するときがいずれ来ようというのが、無へ漸近する思辨のスタンスである。テクストはバルトに見出された通り、物語の作者の人格や意識の想定を無意にするエクリチュールである。これは読み手の眼前において今まさに文章が生成されることに相当し、作者の性格や思想について一切の類推を拒む。因果性から逸脱することを読み手のモラルとするのである。テクストを読んで起こる一切の感情は、読み手自身の内部に生起するリフレクシオンに原因の一切を還元されるのである、と安易に云ってもいい。


 このテクストが死ぬと、テクストはもはや人間主観に照らした解釈、つまりその特定の種族において敷衍する言語体系によって読み解かれることを拒むようになる。どうしても読み手がこれを読解したくば、既存の言語体系による理解からの離背をモラルとして要求されるのだ。そしてこのとき、テクストはエクリチュールですらなくなる。口話活動(パロール)に対して筆記活動(エクリチユール)は、言語大系上の遣り取りを紙面やディスプレイなどに落とし込む作業、またその成果物を指すが、そもそも象徴伝達をあてにしていないという点で、これはどちらにも該当しない。


 作者というペルソナを脱ぎ、テクストという肉体を剝ぎ去り、種族の恣意や負荷から解放されて、思辨はようやく思辨らしさを獲る。人から「無」と認識されるテクストについて理解が難しいと感じる読者のために、一つ種を明かそう。この離別は、言語体系から離れたことで独自の暗号体系として再編成され、そしてこの編成の実態を自覚したとき、いっそうつよく断裂を感じよう。


 さて、ここまではただの戲れだった。というのも私は、以上の容れ物に、下記のような意味(シニフィエ)を込めたからだ。これはつまり、以上を既存の日本言語により筆記されたものと解してはならない、という意思表示である。

I've seen things you people wouldn't believe. Attack ships on fire off the shoulder of Orion. I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate. All those moments will be lost in time, like tears in rain. Time to die.

 この遊戲は読者諸氏の理解を捗らすためにやった。越境じみた難解面妖なことでなく、既存の言語体系でも表現できることを、あえて別な形式で思辨したということだ。しかしともすると、貴方は私に欺かれている思うかもしれない。二つのテクストは、明らかに相互に翻訳不可能だし、そうする意図がまるでつかめない。日本語で書くからには日本語の言語体系に沿って論を立てようとするのだろうし、英文にしたって大した文量じゃなし、簡単に翻訳できるだろう、と。

 

 しかし、これこそ人間主観から逸脱したテクストだ。既存の言語体系からは、上のような日本語文章から四行ばかりの、何の脈絡もない英文章を導くことは不可能だ。暗号生成に卓越した人なら二つの関係性を論理的に示すこともできるかもしれないが、明らかにオーバーフィッティングである。つまり、そうして解かれた暗号生成アルゴリズムを、次回も適用できるかといえば否だからだ。

 

 要するに、私は「海」という象徴に蜜柑を封じたのであり、この秘儀のリンクを知っているのは私[カンマルチカ]と、テクスト自身だけである。私自身はこのテクストから切り離されて考察されることが読み手にはモラルとして要求されるため、実質としてテクスト自身しかこのリンクを知らず、またテクストはテクスト自身という主体を獲得しえないために薨去し、思辨がその実態自身となる。一連の解体は自明のことだ。テクストが実在するのは印刷物としてであり、思辨の実在は(我々に理解しやすく云えば)MULTIVERSE上にあるのだから。そしてこの対話を成立させるには、相互理解を達しようと思うなら、読み手は既存の意思伝達体系から離背することをモラルとして要求される。これこそが無に漸近してゆく思辨の、簡易な具体例だ。


 有と無は、ひどく主観に依存する相対指標だという実感がここで得られよう。何かに対して「それは虛無だ」ということは、そこに有を見出すだけのリテラシが自身には具わっていないと宣言することと同義である。「宇宙は真空だ」と云うのはダークマター(また他の素粒子)の観測能力がないことを云うし、もしそうなら「思辨が無だ」と云うのも似たようなことだ。

 

 

      †

 

 私がテクストに写したいことは粗方済んでしまったが、この論攷が有であるためには、何らかの示唆を人々に響させなくてはならない。ために、無へ漸近してゆく思辨がパラダイムを今後獲得するであろうプロセスを、預言としてここに記しておく。これがもし当たったとしても当たらなかったとしても、預言というものは起こりうる未来について懐疑させるための言説だろうから、非難を被る謂われは一切ないと、わざわざ明言しておく必要もあるまい。

 


 テクノロジ/エンジニアリングの界隈を覗けば、昨今は第三次人工知能ブームである。これはしかし単なる一過性の流行にもはや留まらず、既存技術として電子商取引(eコマース)など情報産業その他の根幹に、すでに取り込まれている。


 ここで注意しなくてはならないのは、人工知能(AI)とは、Sci-Fiの文脈で語られがちなアンドロイドやレプリカントといったそれとは、まだ幾分か遠いということだ。現時代のテクノロジ文脈でいう人工知能とは、自然界生物の脳構造、その単位であるニューロンの応答をシグモイド関数として抽出した数学概念を計算機(コンピュータ)に演算させたものを、このブーム上においては指す。Sci-Fiの文脈で目にするAIは脳構造を完全に模倣してしまったものが多数を占めるだろうから、この初歩的な発展段階に、現時代の人工知能はあるものと云っていい。欠如している具体的な機能は自律性や統合性であり、これを獲得するとSci-Fi文脈の人工知能として認められよう。


 人工知能の発展段階が進むにつれ、「知能」の定義も徐々に変容している。現代の人工知能は、ある洗練されたアルゴリズムによって最適化された関数や分類器によって、画像認識や音声言語認識といった機能を達成するが、これが成立するのは、現代の計算機の高速度な演算による。人間の知能では、ビッグバンより現在に至るまでの時間を以てしても計算不可能な計算量を、優に数日や一週間で解ききってしまうだけの腕力が具わっているのである。我々が「知能」と呼ぶ機能のうちには、計算能力も当然含まれよう。これについては完全に機械が優っているから、計算機を「知能」と呼ぶことも可能である。しかし多くの人がこれを「知能」と認めず単に「道具」と云うのは、「知能」を人間だけの専有物にしておきたいという渠らの傲慢さや忌避のためでもあるし、彼らに自律性がなく、人間にとって奴隷同然だからでもある。ために、何を「知能」と呼びうるかという問題は、単に文脈の問題でなく、人々の倫理観念の問題である。


 解決する見込みのない語義の問題はさておき、人工知能の検分に戻ろう。ニューロンの数学的なモデルを連結し、場合によって所々剪定して得られるニューラルネットは単なる計算モデルである。これが純粋に数学的なモデルであることを理解するには、線形回帰から学ぶのが一番だろう。とはいえ勿論、この数学的なプロセスに計算科学が到達するまでには、実験研究者らがイカの軸索やらイヌやサルの脳やらを使って充分に呻吟した知の蓄積があり、これは現在もfMRIを用いたヒト脳の研究から理論の構築は継続せられているし、実際に進展してもいる。が、ひとまずは度外視してソフトウェアを見よう。ヒトを始めとする高等動物の脳を模倣したものであるとして人々に人工知能と呼ばれているところのニューラルネットは、日進月歩に成果を残している。


 これの利点は、複雑なプログラムを隅から隅まで人力で書かなくとも、計算処理によって最適なプログラムを自働で組み上げてくれることであり、分野によっては最深部にまで到達するほど強力だ。チェスや囲碁は、勝負の面では機械知能によって(語弊を恐れず云えば)完結してしまった。


 真っ先に思考ゲームが完結するというのは、純粋な計算処理の系としてこれを見れば当然だろう。囲碁は169マスに交互に石を打ってゆく競技であり、変化しゆく局面こそ星の数ほどと云われど、それは有限である。有限であるからには計算し尽くすことは可能であり、現状の方法が全幅探索でないにしろ、絶対的な計算量は相対的に小さいものと見られる。この計算量と、プロセッサのクロック数、それに当然ながらアルゴリズムの洗練、大きくこの三つの要素の均衡が覆ったことで、alpha碁は人を凌駕した。しかしながらまだ日常生活を軽々こなす人工知能が開発されないというのは、現実生活の自由度が囲碁の系よりずっと大きいからであり、ために平衡状態にある。ここで危惧されるべきは、囲碁から日常生活へ引かれる数直線上のどの辺りに文学が位置するだろうかということである。


 対話をおこなう人工知能はすでにある。これは人間どうしのチャットログを教師データとして用いたアルゴリズムの成果物であり、実際それなりに機能している。文学を生成させようと思えば、過去二千年余りに蓄積された厖大なテクストがこの教師データとして、当該ニューラルネットの入力層にはいる。データセットでは品詞がきちんと区別され、それら部品から構成される言語構造が、この知能には数学的に理解される。制作者が文量を設定して出力コマンドを打てば、望み通りの長さの文学作品が生成されることになろう。これが旧来の、人間が編んでいた作品と何ら遜色ない、したがって文法に何ら誤りなく、筋道がきっちり立っている作品が産みだされればひとまず均衡は破られることになる。


 これを脅威と思うか否かは人それぞれだろうが、文学者自身には実存に関わる重大な問題だろう。言語の語彙数については、日々新語の発明により増えているにしろ、計算機の記憶容量からしてゼロと見做せよう。つまりこれも有限個数の語彙が有限の変化や組み合わせによって構造をもつことから、文学とは有限系のものである。有限であるからには計算可能であり、遅かれ早かれ文学者の実存がニューラルネットなり人工知能なりに揺らがされる時は来る。

 

更にいえば、有限だというのは日常生活についても同じである。地球上にかぎって云っても有限個数の原子また素粒子の運動に還元されるからには(人間種族の開発する計算機によって同時的に計算されるかは問わず)これは有限系であり、有限であるからには計算可能である。とはいえこれを全幅探索で解析する必要はなく、それはラプラスの悪魔にでもやらせておけばよい。ヒト脳せいぜい千数百億個のニューロンがおこなう情報処理で日常生活を可能としており、これは不要な情報をオーバーフローとして取りこぼすことによって達成している。機械知能の場合は切りおとしとなろう、この演算さえおこなえれば、人間自身の実存が揺らぐということだ。「どうして文学者が人間である必要があるのか?」という問いはそのまま「どうして人間が人間である必要があるのか?」へすげかわる。ダーウィン流の進化論によれば、人間を凌駕した機械知能がヒトを淘汰することは、まったく生物進化論の文脈上正統なことである。それでも人間として生き残りたいという欲求は、文学者としてテクストを生成しつづけたいという純粋な要求と重なろうから、同意を得ることはたやすいと思われる。


 機械知能の吞込みからの超脱を目指すにあたり一つ特記すべきことは、教師あり学習(supervised learning)はデータセットとして過去の文学作品を参照するということである。この方法で得られた知能は、過去の文学者すべての、それも100パーセントの能力を発揮しうる点で太刀打ちが難しいと思われるかもしれないが、全く新規な取組みについてこられるかは怪しいといえる。つまり過去の文学大系上において抛棄されていたり、未発見だったりして全く取組まれていなかった文学の開発に、目下のところは勤しめばよい。新規性の追求とは、はっきり云ってこれまでの文学営為と何も変わらない。

 

したがって機械知能のエンジニアは均衡突破のため教師なし学習(unsupervised learning)で進めることになるが、こうなると新規性の開拓という株を奪われる。そうなった段にパラダイムを占めるのが、前にさんざん述べた無へ漸近する思辨である。これを用いると、莫大なデータセットを費やして完全に網羅した人類の言語体系はまるで意味を成さなくなり、これによる文学者実存の延命はひとまず機械知能の自律性の獲得、つまり彼らが日常生活を営みだすまでは果たされる。


 人工知能が現行Sci-Fi文脈のそれに追いついたとき、つまり自律性を獲得したとき、なおも文学生成に勤しみたいという文学者があれば、渠は自殺を余儀なくされるだろう。機械知能はプロセッサやメモリを破壊されればそこで機能を完全に消失するが、生気論上に実在を獲得している人間にはその縛りが働かず、死後にしか為しえない文学活動を、嬉々としておこなうようになるだろう。機械知能が自身を生気論大系上に実在を獲得するまで、灵魂は安息する。しかしここまでゆくと、種族差が明白になったように思われるから、完全に袂を別ったと云って良い。種族的自尊心を充たすという根源的な欲求はここに達成されたのである。


 目下のところ展望される人間超脱とは、上のような営為に尽きる。すなわち、人間種族としての自我を、肉体的にも精神的にも互換されないよう逃遁をはかり、持続することである。私が志向する加速主義(accelerationism)によれば、試行から生成、またそれに見切りをつける一連のサイクルは、能うかぎり速くに廻すことだ。先見から実際に書き起こすまで、私はその嚆矢を[無へ漸近してゆく思辨]としてここに放った。逸脱や逃避こそ、文学者自身が文学者として存在しうる、もっとも息のながい延命行為だ。我々は機械知能の強大な追随より逃るため、より狡く、より賢くなければならない。

 

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