想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

因果について: DE CAUSA

近代の理性主義rationalismにおいて、自然科学はめざましい発展を遂げ、現代の地球市民はその恵与に浴している。しかし、自然科学を巧みに応用していかに利便にかなった装置をヒト種族が開発したのか、という問題にはまるで興味がない。もっぱら、世界の実相にある。

自然科学、また工学engineeringのエンドユーザである地球市民一般にとっては、およそ自然法則というものが第一にあり、それを科学者と呼ばれる知性あふれる人々が発見してきたことによって、より人類の置かれている世界の実相を稠密に理解するようになったのだ、という認識が共有されているように思う。自然界の解剖が進むにつれ、人類はいわば自然界を制馭する力能を得てきたため、人類は現様の栄華を得ているのだ、と。

経験論empiricismによれば、およそ上の認識で間違いない。自己の存在は外界の中に、自らも外界を構成する一要素としてあり、曇りのない感覚諸器官が映しだす世界の様相について、つぶさに解剖を進めてゆくと、世界そのものについて知見が得られるのだ。そして現に、この知見は我々を豊かにしている。とはいえ、豊饒の獲得が、正規に世界本性natura universiの理解を裏付けるものかといえば、論理的にはまったく結びつかない。経験主義とは、いかにもヒト種族のイドラ、バイアスの下に成立する思考様式である。ヒト種族に可知であるもの=感覚器官によって捉えられるもののみを認め、そう認めることこそ最も素朴であるかのように居直り、人間とは寿命に仆れる生き物であるから、ただ我々が存在している、いまこの瞬間にとっての真理(あるいはそれに準ずるもの)さえあれば、他に何も要らないのだ、という。

明らかに、自然科学はヒト種族に認識可能な情報を整理したときに、自然法則という原因を想定し、それが現象として観測されることでその原因の真実性を高め、あらゆる現象を数式化することで客観性を賦与する学問であり、これは一つの鞏固な背理法reductio ad absurdumの下に成立する。人類史上ではヒュームが発見した、自然の斉一性uniformity of nature、あるいは恒常的随伴constant conjunctionである。何らかの対象について、一度何らかの現象を観測したとき、条件さえ整えれば、その対象は同一の(あるいは他の対象もそれに準じた)挙動を何度でも起こすものと、必然性が時間軸を全く度外視して見出される、という仮定であり、これが単に仮定でなく実用に耐えるのは、人類史上ただの一度も、この随伴から外れた挙動を見せたものを観測した経験がないからである。随伴と言うと並列的だが、これこそが一般に因果と呼ばれているものである。しかし因果と言うと、何か原因が発露したことで結果が我々に観測されるから、因と果は切り離されるような印象を与えかねないため、現象の連続性に照らして随伴conjunctionと言うほうがもっともらしい。

自然法則が、ヒト種族の置かれたこの宇宙spaceという体系に作用していることを吟味するのは、これもまたメタ判定者の存在を要請する、決定不可能な問題である。我々は機能だけを取りだして、機能にだけ恃んで、暫定的に自然法則を絶対視しているのである。1つサイコロを振ると、観測される現象は6種類だけであると中学数学は言うが、サイコロが砕け散る可能性も、紛失する可能性もある。さらにもし自然の斉一性が破れれば、サイコロはテレポーテーションしてこの太陽系を脱出するかもしれないし、核爆発なみのエネルギーを放出して投擲者を殺すかもしれない。この破れの確率はおそろしく低いが、というのは確率は過去の観測を元にしてされる推測に過ぎないからだ。投擲者がほぼ一定の力を加えてサイコロを振るかぎり、このサイコロは1から6の数字を穏当に当確率で出すかもしれないが、そうでない、もっと奇天烈な現象を引き起こすかもしれない。自然科学やその大元の自然の斉一性を信仰しているかぎりはこんな杞憂をせずに済むが、これはただ信仰に過ぎないからして、ただ信仰者の信念がこれを保証するだけであり、論理ですらこれを保証してはくれない。むしろ論理の信奉者は、自分が第一と信ずる論理がこの生起を予知しているのだから、この破れを日々常々恐れてしかるべきである。

恒常的な随伴性に対して我々がもつべき疑惑は上の他にも多くあるが、習慣と差異というのはその代表例である。習慣customとは、対象のあいだに一つの類似性を見出すと、量や性質などの差異の度合いによって多少変質はあっても、我々は同一の名称を適用する、という命名の問題である。我々はある木からリンゴの実が落下するのを見て、どうやらあの特定の木のあの特定のリンゴには何らかの力が作用しているらしい、ということを察知し、次に同じ木の別の枝から実が落下するだろうか、株分けをした別の木ではどうか、同じ品種ではどうか、この遺伝元の品種では...という差異について目を向けることは、およそない。というのは重力の作用から免れるものを、この世に生を享けてから一度もない、という反復に由来する。この反復によって打ち立てられる習慣は、思考に時間を割くべきもの、そうでないものの区別をじゅうぶんにわきまえているのだ。ここから出立するかぎり、この区別については思考する必要がない。というのは、思考の不必要性を我々は知っているからだ。知っているものについては、何ら思考を必要としない。

この思考停止は、ヒト種族史観においては何も齟齬をきたさない、いわばぬるま湯である。感覚器官が我々に見せる風景をしたところで何も益はない、人間であるからには同様の思考様式を持っているはずだ、体系において数学がもつ正当性がどこから来るのかは思考を要しない...ひどい排外主義が横行しているのは近代の一般化の波のせいだ。人間いがいの知性種族を認めない、端から思考しないことで、この一般化の頂上には学者連中がふんぞりかえっている。しかし人間の捕食者が仮に発生したら、我々が絶対視している区別も類も反復も命名の規則も何もかも無意義になるだろう。というのは、すべて蹂躙されるからだ。他種族の介入によって簡単に潰されるものを必死で塗り固め、それを絶対視しているところに滑稽さがある。

いささか本筋から逸れたが、以上のことを踏まえて、我々の経験に基づいて合理化された、論理的に根拠のないと見做していい仮定にもとづく自然法則だが、これはヒト種族の観測下においてのみ機能を果たす。あるいは斉一性が恒久に保たれる保証はないことから暫定的に機能を果たしている。理性主義者は自らに与えられた理性を絶対視するが、これさえヒト種族のイドラの掣肘を受けながら形成されたものに過ぎず、経験主義の範疇から理性主義者が脱けだすことは到底不可能である。


論理を恃む者のすべてを理性主義者と呼ぶなら、吾が措定する非理性主義irrationalismとは、種族主観のバイアスを拭い去って、より普遍の世界の真実相を志向することであり、以上のような反証をしてからこのように宣言すると、撞着どころの騒ぎではないように、論理を信奉し、論理に髄まで染まった徒には思われるだろう。しかし、非理性主義者は第一にヒト種族の論理を抛棄するため、撞着矛盾で思考停止せず、歩を進めることができるのである。

理性主義者としての経験主義者は、あるいは渠らにかぎらず学者一般は、論理を完全無瑕のものと見做して、これに基づいた構築をおこなう。けっきょくは種族主観というバイアスが源泉にあることに気づかず、あるいは気づきながら居直って、人類一般に有益である作業をこなしてゆく。渠らと吾とは、そもそも存立する体系systemが異なるため、齟齬が生じるのも致し方ないことだ。

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