想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

感覚器について: DE ORGANUM SENSUS

もし、あらゆる種族がそれぞれ閉じた自己系(ヒト種族にとっては物理学的な非平衡開放系)をもつならば、各種族の個体はそれぞれ外界(自己系の外)との接片より情報を得て、その解釈のもとに自己系を保存、存続させるよう行動することでこれの保存を達成し、個体として、種族としての自我egoを保つだろう。この一連の働きの主体と見做しうるものを知性intellectusと呼べば、我々の言語感覚からして接片は知覚と呼べる。わけても知覚perceptioが物質的に表出しているものは、我々のそれのように感覚器organum sensusと呼びうるだろう。

知覚や感覚器の処理は、情報学的に簡明である。情報量entropyが完全、すなわち1である世界本性natura universiからイドラidolaによりいくらか削ぎ落とされて、小数単位で情報を接片より知性が受け取る。このとき、イドラというのは知覚や感覚器の感度や、そもそも受信できる信号の種類それ自体であると言える。そしてこの知覚や感覚は、知性自身の工学的な開発によって拡張extensioすることができる。ヒト種族にしてみれば、放射線感知や磁場検知なんかが好例となる。進化論の途上において、有機的にホモ・サピエンス放射線を知覚する感覚器を獲得する機会は現状なかったが、工学的な開発、すなわち外界についての調査から応用により放射線を感知するセンサデバイスを発明するに至り、これを装備することで知覚が拡張される。すなわち、外界から得られる情報量が、拡張された知覚のぶん上乗せされるということだ。

 

拡張知覚に関して図解すると、以下のようになる。

f:id:kammultica:20171216095242p:plain

 

イドラのフィルタを潜りぬけて、一部を抽出された世界の真実相=世界本性は知性にとっての主観下の外界となる。実際に接片と接している外界と、知性主観により捉えられた外界は一致しない。これが一致するのは全知者omnisciusそれだけである。

とはいえ、他種族について何ら知識をもたない我々にとって、この一般化は手ぬるいものかもしれない、という危惧はある。行動じたいが完全な受動なこともあれば、知性として主体を統合する必要のない種族もあろうし、そもそも自己系をもたなかったり、自我の継承をおこなわない種族は、一般的なヒト種族の生物学大系において、種としてのクラスを賦与されないだろう。だからこそ、科学大系の外でやることに意義がある。(意義があるから作業するわけではないが)

Kindle Unlimited にて小説/散文詩諸々公開中↓

 

不条理の玩具 (spinaltox)

不条理の玩具 (spinaltox)