想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

人間原理について: about anthropic principle

論理学は、ある体系における、体系内部での命題そのものの決定不能性を抱えている。「リンゴは赤い」という命題が真であると決定されるのは、論理学大系上でなく、その外側の、物質的な次元においてのことである。リンゴという一般名詞が意味するもの(リンゴそのもの)は論理によって演繹されるのでなく、日常で目にした実感によるし、そもそも「リンゴ」や「赤い」が何を意味するのかは論理学の道具だけでは演繹不可能だし、その分類は個人の感性にもよるし、時代によっておそらく不変でもない。

物理学は、上の逆転によって審議を克服している。自然現象そのものが上における、大系上で演繹不能な無数のパーツそれぞれであり、自然科学者が数式によって近似することで、リンゴは "リンゴ" という語に紐づけられ、落下は重力に紐づけられる。自然の体系の外に自然科学者は居るのであり、だからこそ自然体系の現象を記述できるのである。

しかし、あくまで自然科学者は自然の外部に居るよう装っているにすぎない。学者とはいえ生身のヒトであるからには、自然体系の一部であり、それは物質的にも精神的にもそうである。

すべての現象は(ヒト種族からの理解可能性はいっさい排除して)素粒子の相互作用へ還元できるため、理学一般のことを吾は "物理学" という語で指すが、20世紀いらい観測域の拡大が著しい物理学のフィールドにおいて、人間原理anthropic principleという制約がそもそも学者には課せられていることが浮き彫りになった。それは、自然科学者もまた自然体系の一部でしかないために、ヒト種族にとって可観測/非可観測の領域の別がはっきりつくようになったのだ。

一般に、相対論によりフィールドはよりマクロに、量子論によりフィールドはよりミクロになる。相対論に特異な単位として光年やパーセクなど天文単位があるが、このレベルでは、(現在の技術をもって)ヒト種族には渡航不可能な領域を扱う。ここでは唯一の渡航可能者である電磁波(光)の分析のみに頼る他ない。一方量子論では、物質を可視化するためには何らかの物質をぶつけてその反射を観測するよりないため、不確定性原理のような問題を抱える。そしてまた直感的に言えば、ブラックホールの内部に学者が立ち入り調査することはできないし、同様に、ヒトのスケールからし素粒子の解像度にも限界がある。陽子や中性子は最小単位でなく、クォークにより組み立てられるが、そのクォークも何物かから組み立てられているかもしれない、という疑念を払拭できないし、仮にそれが済んだとして、次なる素粒子にその疑念の目が向く。

ヒト種族であるからにはヒト種族らしい解剖しか、世界本性natura universiにはおこなえない。これが物理学の限界である。この断崖を攀じ登るか、あるいは落下する行為こそ、非理性主義者/非論理主義者の往くべき道である。

 

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