想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

カノンから秩序へ?: AD ORDINEM A CANONE?

秩序を秩序たらしめているものは何か。人間社会の場合それは権威であり、権勢であり、何より率先して従属する市民である。この主従の図式が継続するかぎりそこに秩序はあり、たびたび逸脱や叛逆こそあれど、頻度や人口の比率によって秩序の鞏固さが計量される。

自然秩序もまた同様で、自然naturaに率先して盲目に従属するからこそ、我々は秩序のなかにあるのである。避雷針や防波堤など、自然科学の熟知からくる工学技術を具現して天災という権勢を退けてなお、この秩序に権威を感じるのは、さてどういうわけか。

権勢とは、しかし天災にかぎらない。呼吸法や運動器官の操縦など、我々は自己の肉体を完全に征服しているように感じるかもしれないが、これには大きな制約が、自然よりかかっている。自然が定めた(と我々が感じる)仕方で我々は器械的に運動するよりない。精神を取りだして電子回路に移譲するなど、これの克服は多少とも夢想されはするが、テクノロジは未だ達成しない。念願叶ったところで、本当に秩序から逸脱しえるかというのもまた疑問だ。自然を超克する工学は、もはや工学でない。

我々を支配している、とされる自然の律法は、しかし鞏固なものではない。我々の誰も(おそらく)、我々を統治する全権の神に拝顔叶ったことはなく、この自然系から脱け出る法を知る者もない。抗しえない暴力に晒されているわけではない、ともし精神がそう思考すれば、自然からの逸脱や叛逆をおこなうのは、そう艱難でもない。

根拠がなくては何も信じない我々にとって、自然に権威を感じる根拠は、日常的な被支配の反復である。生来から現今に至るまで、1分1秒の切れ間なく自然律法は我々を支配してきたが、次の1秒に際しても我々を縛るだろうという見立てに根拠は何もない。生まれながらしてこのカノンcanonに浴してきた我々にとって、これはもはや何の違和も不整合も覚えないものかもしれない。

背理法とは愚者の知恵で、賢者はよりよい客観を得るべきである。その客観とは、つまり複数種族が共有するものとされる種族客観に他ならない。種族客観はこのカノンがただカノンに過ぎず、絶対者が敷く秩序ordoとは似ても似つかないことを知っている。カノンを秩序へ飛躍させるのは、我々自身に内在する畏怖に他ならない。

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