想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

捕食について: DE PRAEDATIO

信念やら自由意思やらがヒト種族に与えられているのは、我々を捕食する者がいないためである。むろん、全くいないということはない。少なくとも我々の存続を脅かすほど巨大な、多数な捕食者がいないため、都会では誰も、自らが捕食者に喰われて生命を畢えることを憂いたりしない。これは一種の増上慢であり、そのために歪んだ文化規律やモラルが成立して、万民がそれに従わねばならぬような共有が罷り通っている。歪むとは、つまり複雑性が増すことであり、拡げるだけ拡げたこの風呂敷を、誰も率先して畳もうとはしない。拡げた風呂敷を自ら畳むような者は、ある時代には暴君と呼ばれ、またある時代には独裁者と呼ばれた。この捕食者は、同一種族内での捕食をおこなったと、ある視座からは言えるが、しかし種族という枠がどのように適用されるかを決められる者は、矛盾した言い方だが人類のなかにはいない。ある一群を見つけてそれを特定の一種族だとラベルを貼るのはいつだって外部の者であり、かの捕食者には自己と別種のラベルが貼られているものと、対象を見て感じられたかもしれない。

いずれにせよ、自らの実存が脅かされないかぎりは誰も自律せず、そこにはただモラルのとめどない氾濫があるだけである。ここでモラルに従うという、盲目の者は、自己の信念に反して、その氾濫に加担している。モラルこそ真に規範の失われた実相であり、この信奉者が増えれば増えるほど氾濫がつよくなるのは当然のことだ。いかにしてモラルの実行が氾濫になるかといえば、種族ぜんたいが野放しにされているかぎり、精神上で無数の感情やら知覚やらが複雑化され、気随気儘に自己組織が延々とおこなわれれば、そこに自制という秩序があったとして、ただ肥大が進行し、秩序そのものと渾然一体化した、この肥大した自我は、自我をもつかぎり渦のうねりを已まないのだ。

誠実を塗り固めて幾星霜、本来に反して道徳が規範に悖るなど滑稽皮肉のことだ。もし本義を全うしたいと考えるならば、ニヒリズムの本能に従って自害するのが最善だろう。野放図な増長や氾濫を、意志を削ぐことで捕食者は妨げる。それを救いと思うか滅びと思うかはぜんせん別次元の問題で、いずれにせよ生存を脅かされた種族はより飢餓に近づき、凍餒は枯燥と相互に招きあい、乳を繰りあう。飢餓のために、生存に必須なものの他すべてを削がれてしまったとして、そのほうが本能らしい、種族本来らしいと思うのは、何としても自己自身を自身の支配下に置いておかねばならないとする理性の傲慢だろう。その傲慢さえ馭してやろうとする者は、一体何の禁を犯すというのか。