想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

連続性について: DE CONTINUITAS

ヒト種族が自らの道具として使役するべく開発した計算機computerは電気信号により制馭されている。この信号は誤りを許されないため、環境要因によって脈絡なく生起する雑音noiseと辨別すべく、ONとOFFの二値binary valueにはあるていどの電位差が当てられる。これは人為により構想されたゆえに、我々ヒト種族にとって明らかに離散的discreteである。デジタルdigitalの語源であるディギットdigitは、親指を除いた四指の幅という可算の単位を表す。可算の単位の和差を取ることは、我々にとって何でもない。

デジタルに対してアナログanalogは、一般に連続したものcontinuousとして扱われる。連続したものとは、機械的でないもの、デジタル信号による制馭を受けないもののことであるから、我々の意識や感覚、また肉体自身/精神自身を指す。目を開けているとき外界の映像が途切れないように、それにはまず自然界のありようが連続的である、ということが大前提major premiseとしてある。語源ana-は相似を意味することから、この語は単にデジタルの対応として用いられているに過ぎない。

しかしながら、「自然は連続である」との大前提から始まる一連の三段論法συλλογισμόςは誤謬である、ということを我々は知っている。「ヒトもまた自然の一部である」という単称命題は認めるものの、大前提がそもそも判定不能であることから、論理学的にもこれらを潰すことができる。

何をもって「連続である」と定めるのか。ヒト種族がしているのは、「自分の目に連続に映るものはすべて連続である」という暴論の一般化に他ならない。ヒト種族以外に科学的な視座をもつ者がいないために成立するこのこじつけは、まさに種族客観による棄却を必要とする。ヒトの神経は発火firingすることで0から1へ切り替わり、これが無数に並列することで強度のグラデーションを産み、また "連続性continuity" を獲ている。ヒト種族の主観的スケールでは紛れもなく連続だが、しかし他種族のスケールで思考するなら、遅延が生じていると見做される可能性はじゅうぶんにある。

ヒト種族主観により明らかに離散である機械群に対して、我々は連続である、とのみ言え、このスケールで判定するよりないために、真に自然が連続であるかを判定することは不可能であり、この不能は種族一般に共通するものと考えられる。誰も自己種族の主観でしか物を捉えられないからである。

「連続であること」の対義は「離散であること」であるが、とはいえこの二つを対立させることはあまり意味がない。本来からしてすべては離散なのであり、比較にはどれほどサンプリング間隔が空くか、という密度のグラデーションがそこにあるだけだ。もし真に連続である者があれば、真に連続であると判定をおこなえる者があれば、その者はおよそ我々の想定する種族tribusの範疇を脱けでている。

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