想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

習慣=宗教という宗教観

あらゆる習慣customは宗教行為である。と言うと反発を喰らうのかもしれないが、宗教というものは何かと素朴に考えてみると、何か自らの信念beriefに従って何か行為したり、思ったりすることで成立するものであるから、ひとえに宗教は習慣に還元される。あるいは、宗教の上位概念として習慣を措定できる。習慣とは、自らの意志云々にかかわらず日常的/機会的に何か特定の行為をすることだとして。

この二つを対等なものとして水平に並べてみると、そこには自らの信念/意志が基にあるか否かという異差のみがある。これは自由意志free willの問題で、自らの意識がどれだけ行動決定に重みをもっているかという裁量がじっさいにどれほど自我や信念や意識を固定しているのか、という問いに尽きる。すなわち、理性主義的に自らが自らの行動や意識について完全な裁量権を握っていると思う者は題の「習慣=宗教」をつよく退けたいと思い、自由意志について懐疑の者はこの等式にそれほど反発を抱かないことだろう。

自由意志なんてものは無いか、あるいはごく小さなものだと考えて題の等式を見直すと、習慣というものがいかに宗教じみているかがわかる。ヒト種族にとっては、ほんらい自らの活動時間などどうとでも決定できる問題だ。「日が昇ると起床するのが生物本能だ」などという阿呆な言説を鵜呑みにする時点でここにひとつの信念が形成されるし、そうでなく仕事や労働のため周りの人間と合わせて生活を組み立てる者も同様に自らそうしようと信念を固めている。これについて全く考えなしに、惰性でそのような生活サイクルを廻す者は――渠はじつに(naïveに)習慣的な人間だと言えるが――とくに信念も理由もなく生きているという点で真の宗教人らしい。敬虔な宗教人は自らの信仰行為を何の抵抗もなくおこない、そうすることが不自然であるという認識をもつことがほとんどない。原始的な宗教は、何を信念として抱くか、言い換えれば、その宗教を信奉しない他人と如何に差別化された信念を抱くかについて全く思考を要しない。そうすることが自分にとって自然だからそうするのであり、いくら自ら「無宗教だ」と宣言したところで、万民が選ぶ一通りの生き方はないため、個々人が異差のグラデーションのうちに生活スタイルを選択することになる。そこには、もはや当たり前すぎて思考を要さない一連の行動、ジンクス、習慣がある。これは何も「家を出るときは必ず左脚から」などと意識上に昇りそうなことに限らない。本来からして歯磨きをしなければならないという一切の強制は我々に働いていないが、ほぼすべての人が歯磨きをする。起きて活動するときに目を開けていなければいけないという一切の強制は我々に働いていないが、盲でなければほぼすべての人が目を開けて活動する。呼吸をしなければならないという一切の強制は我々に働いていないが、ほぼすべての人が呼吸をする……。「そうしなければ死んでしまうではないか」と言う人もあろうが、そもそも我々は生きることを強制されていない。これは、議会が自死権(自ら死ぬ権利)を認めていないということは全く問題ではない。誰かに拘束され強制的に脳ミソへ血液循環させられているような事態を除いて、我々には常日頃呼吸を已めて自死することができるし、苦しければ飛び降りたっていい。そうしないのは、「私は生きねばならない」という信条creedを自らに課しているからである。これは意識上で明言しても暗黙裡にそう行動していてもかまわないし、まさか「無意識下の生物本能が私を生かしているのだから私は生を強制されているのだ」などとのたまうような者があれば、吾は容赦なく斬りすてる。

習慣とは宗教である。それはヒューム的な素朴な反復repetitionによって醸成された習慣がそうである。

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