想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

極致について: DE CULMEN

極致において、もはや何も改められることはない。理想として描こうが、現実として降りかかろうが、極致に達してしまったいじょうは、後退もそれ以上の前進も赦されない。極致者にはただ静止が命じられ、極致者自身はそれを静止と知ってか知らずか体現する。彫刻の裸像を視るごとく、観照者は慨歎に暮れるかもしれず、また余りの光貴に両手を組んだまま絶句するかもしれない。それは美に関する極致にかぎったことではなく、極致というだけで何物もそのオルガスムスの観照の対象になりうる。イデアルに焦がれる夢想者は皆そうする。

恒久にアップデートが止まるとき、それは極致にある。"究極の善" なるものをイデアルに想定する人は、リアルと対置してそれを描くよりない。リアルは常に動的に変成を遂げているが、瞬間瞬間に夢想される像は、朦朧としつつも夢想者の願望を投影され、あるかぎられた属性を具えて脳裏に呼び醒まされる。多くの人にとって善とは、永遠平和であり、一切の受容であり、万人の幸福であり、万人の息災であり、究極の善は万人の願望すべてを許容し、そしてこれを叶えられる。善の極致において万人は安らかであり、息絶えることを赦されず/息絶えることも幸福と認め、一切の衝突を赦されず/衝突すら認め互いに相和し、たぶん鏖殺や殄熄とは縁が切れる。これは静止に他ならない。それは、善というイデアが極致に達してしまったと仮定するいじょう、二度とアップデートされることがない、というのもそうである。

進歩を棄てたとき、それは極致に達するのだろうか? リアリストにとってはそうだろう、というのは進歩を棄却されたそのものの、そのあと進化を経て到達するはずだった形姿は決して具現化しない。イデアリストにとってはそうでない、というのは外界でそれが静止しても、心内の運動器官がそのものに熱を与えて運動をイデアルに継続させるためである。では、リアリストでもイデアリストでもない者にとってはどうだろうか? 進歩の棄却は極致の到達の必要条件か、あるいは極致へ到達する一形式が進歩の棄却なのか? 何か対立する二項から離れた位置で、客観でなく主観によって二項が観想する対象を同じように観想するものは、対立から超脱している。リアリストでなくイデアリストでもないこの超脱者は、静止しない極致の体現者でなければならない。

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Incarnatio (spinaltox)

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