想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

虛飾主義

何が "実" であり、何が "虛" であるのか。感覚主義者によれば、自ら感覚可能なものだけが実であり、あとはすべて虛である。しかし理性に従えば、両者を空(クウ)が隔てることは決してなく、区別はつかず渾沌としており、虛実のどちらにも脚を入れるものも多い。無知であり、万能よりは不能に近いことを認めることで、理性は渾沌を受容することを決めたのであり、ただ懐疑論者の言うなりになったわけではない。服膺する信念として自ら選んだのだ。

虛実の渾沌、またグラデーションは彼我の境界のみならず、我-我とでも呼称すべき、自己と自己との境界をも模糊とさせる。感覚を鵜呑みにすることを棄却した理性にとって、彼我の境界が朧げになるというのは無論のことだ。皮膚など感覚器を頼りにして世界系を調査することを断念したのだから、自己と世界の境界を膚に委ねることはもはやできない。それが波及して、混濁は我-我の境界をも吞み、ここに調査の主体もまた解体される。主体が主体として一枚岩であるかぎり、これいじょうの調査は不毛である。書物や挿話として一貫性を保っていた科学者らは、新たな調査手法を模索せねばならない。

境界boundary という観念はもはや寓意的にしか機能しない、というのは理解のゆくことだろう。これは次元の数がいくら増えても万全に作動するが、それは数理上のことだ。理性による自然の調査を断念した非理性主義者にとって、数理とはもはや餓鬼の遊戯に過ぎない。したがって、吾が上で述べた我-我の境界という状態について、自我を二つ(亦はそれより多く)に分断してそれぞれの岸に対置させるような愚行を我々はしてはならない。

簡略化/単純化をおこなえば当然のこと情報量が削られる。感覚できる情報ならば、整理のために削減するのはじつに有力な手段であり、それが今日のヒト種族の栄華を果たした。しかしながら滑落の遡及を冀うとき、より完全に近い情報量を自然本性から得ようと欲するとき、科学者の数理への蜜月は見限らなくてはならない。それは渠らに汲める唯一の善意である。

あらゆる(二項)対立の措定は知性の堕落を招く。虛すらも見事に着飾る非理性主義者こそ、欠落を遡及するにふさわしい。

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鴟梟の夢 (spinaltox)

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