想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

凡論理学について: DE OMNILOGICA

非理性主義者は、己れの信条にのっとり論理学を棄却する。高慢な数理や欠陥だらけの論理を扱っていては遡及は果たされず、種族知を超えたものは何も得られない。ヒト種族からして論理を超脱するものを受容するところから、自然本性への知の遡及は披らかれる。

論理を棄却するに方策はいくつかあるが、反論理のように真っ向から論理的正しさを否定してゆくようなやり方は誤りでありそうだと、直観が働く。これは「偽であるものの逆がいつも正である」という命題を定立するに等しく、我々はむしろ凡論理へ傾いてゆくべきである。部分的にヒト種族が旧来信奉する論理学を認容しつつ、外に開いた秩序の整合性をこれにゆだねるのである。

凡論理によって、ここに種族全体の生存環境が、実体においても論理においても補強されることになる。この秩序が論理によって一般化可能であると、もし我々が望むとしたら。

当然ながら、我々が交わすいっさいの会話はアナロジーとして知解されるべきであり、ここで扱われる語彙のいっさいは隠喩として注意深く検分することが要請される。というのは、固有種族が置かれる環境は明らかに、全体種族がそうされる環境にすっぽり包摂されているため、ヒト種族の論理規範が通用しない領域、この二種で論理積をとってゼロになる領域において、論理学に沿った語り方をするにはふさわしくない。したがって我々非理性主義者が創出するいっさいのテクストは、この両者の不整合の狭間に位置するために、字義通りの、ヒト種族論理に沿った解釈を受けるのは適切でない。

凡論理とは、種族の固有性によらず、種族全体に通底されると考えられる論理のことである。これを "論理" と呼称するかどうかについて紛糾は起こるだろうが、ヒト種族の言語体系上に依拠したテクストを生産するよりない現状では差し止めておくよりない。とはいえ、これがヒト種族の論理学に反したり非不のものであったりするとは、ヒト種族が凡種族の一員であるかぎりはありえないと見てよい。種族生存の全体環境を支配していることから、当然支配圏にヒト種族固有の領土もある。