想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

否定神学について: DE THELOGIA NEGATIVA

(Nicolai de Cusa DE DOCTA IGNORANTIA 1.26よりアクセル)


ところで、人倫と論理学において崇められるべきところの実証主義的調査は、造化natureについての積極的な肯定に基礎づけられねばならないがゆえに、どんな自然科学学問も、その調査にさいして、どうしても肯定神学theologia affirmativa によって登ってゆかねばならない、完全な客観と見做され、およそ地球上で宗教religion とされるものの一切と対置される、無責任かつ野放図の形而上的な信仰とはほど遠いとされる、観察と実証により日進月歩する、すなわち、人倫の素朴naïveな実感と調査にのみ依拠されるべきところの、覆されようのない恒久不変の自然法則として数多の無神論者を下に敷くところの科学science 、プロメテウスより人倫に授けられた燈火は、じつは、無知ignorantia という闇tenebra のうちにひらめく光lux であることには間違いないが、人倫はこの闇についておよそ何も知らないながらに、これの道具的使用により開かれた視界や、もたらされた両腕の温もりの、恵与にあずかっている。啓示や真理について無責任な肯定をおこなう形而上学や神学を批判しながら、科学もまたこれの一員であることを自覚していないか、あるいは几帳面に包み隠しているということから、科学を一種の神学と呼ぶことを、もはや誰もためらわない。プロメテウスを奉ずるからに科学をそう呼ぶのでなく、古代より一度として人倫に顔を見せたことのない無限の神が、現今まさにもっとも神らしく、単一の人格をほぼ完全に抛棄し、片鱗すら覗かせないままに、自然法則の現前につぐ現前、現象の反復を無限にとりおこなうことで巨大な信仰をあつめる、謂わば君臨せずして君臨せる人類史上最大の絶対者、その後背を仰ぐ、無神論者atheist と自ら称するところの渠らが真理veritas と同一視する虛影を、ただの空虛と見抜くのは知ある無知docta ignorantiaをたずさえた否定神学者quae theologia negativa のみである。この否定は前者への反抗のために為されるものでは決してなく、より種族知について素朴であろうとしたところの信念上の行為が、排除remotio と否定negatio によって知について語る態度こそが、そう呼ばれる類いのものであったというだけであり、俗界において "否定" なる語が背負ういっさいのネガティヴなイメージについて、吾らには関心がなく、もっぱら零度degré zéro にふるまう。

吾らが人倫であるかぎり、人倫に基づいた視座より何事かを言語化するかぎり、すなわちイドラの拘束に甘んずるかぎり、慎重であり誠実であるために否定が真であり肯定が不充分であることが明白である。斉一性原理を克服しない科学は、その出立地から実証主義(ポジティヴィズム)が語るに落ちていることを露見しているにもかかわらず、21世紀現在においても厚顔無恥に人倫の支配者面をしているが、ネガティヴィズムは渠らの権威を失墜させることを目的とはしない。孤絶し口を噤むことこそが知への敬虔な道であることを自覚し、各々自らの心宮に密儀的な内部生命inner-lifeを育むことが、第一の教義となりうるかもしれないし、真っ先に自殺する者、可知であるとされるものの実際それについて何も可知でない自らの生命を抛棄する者こそが第一の敬虔者かもしれない。ネガティヴィストとして、吾はいっさいの断定を避け、ここに閉口する。