想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

善トハ生存デアル 〈一般道徳からの解放〉

 淘汰論からして善とは一切の生存であり、生存にまつわる一切の行為を是とするものが道徳である。過去数千年単位の人類史的堆積としての道徳はそのように固められてきたし、善なり道徳なりに生命を想定してみたとき、これが生残するのは生存者にこの観念が敷衍してこそである。
 しかしながら、死は悪でなく、また悪は死でない。個人の死は悪でなく、全体の死、すなわち殺戮こそが悪だからである。悪となるのは生存の阻碍であり、道徳の生残は多数の生者によってなされる。道徳とは本質からし全体主義である。個者生存を是とする個人主義道徳は、他者へ布教せずにいるうちは道徳ではなく、矜恃にすぎない。
 時代にも民族にもよらない普遍的な道徳を想定するのは、謬りではないが無為である。それはたしかにあるが、淘汰論的な形態をしている。全体の生存、また道徳観念の生残を望み、その礎とならんことを欲するものだけが服膺すればよい。

 上記の淘汰論的な"道徳"を一般道徳あるいは公衆道徳として隔離し、その外側で我々は展開しよう。
 善性とは自らに誠実であることだろうか? 我が身を省みて真に欲することを為し、外的および内的な負荷にさらされていない者が善人であろうか。
 善性とは他者を傷つけぬことだろうか? 他者を、自らをも傷つけぬことで自我を保っている者が善人であろうか。
 否、善性とはあらゆる強迫感をもたぬことである。善のために為しうることは何もなく、また悪のために為しうることも何もない。自ら抱える何らかの志向性について善性/悪性と名付けることは安易であるが、これは不変でも普遍でもない。

 淘汰論は学問的に発見されたが、それを規範化して自ら従う者は滑稽である。新たな時代の倫理道徳や、科学技術の発展にともなう生活環境/身体構造の変遷により、これは常に改訂される。否、これは改訂ではない。淘汰論の本質は不変であり、それから人々が想起する一切の錯覚/不純物が取り払われてゆくだけである。