想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

固有の閉じた論理空間をもつ3つの学問: 論理学/数学/物理学

論理学/数学/物理学は、それぞれ固有の論理原則をもつ。ここで「論理」というのは論理学上で展開される一連の様式のことではなく、学問上で有効な言明を生成するさいのプロセスを指す。3つの学問はそれぞれ異なる前提と、到達、すなわち論証を打ち止める区切りを固有にもつ。これはそれぞれ固有のオントロジー体系をもつ(つまりは扱う対象がそれぞれに異なるということだが)ためにそうなるが、しかし対象が異なるだけでなく、出立地となる原則もそれぞれ異なっているのである。

論理学上の発見が数学に適用されたり、数学上の発見が物理学へ適用することが屡々あるため、3者がそれぞれ異なる原則を有しているというのは訝しく聞こえるかもしれないし、また歴史的に見て、この切り離しを不自然に感じるかもしれない。しかしながら、私は各々の学問が具えている自己定義能力を見て、非文脈的に述べているのである。仮に一切の成立過程を漂白して一からこれらの学問上の定理を組み立てる必要に遭遇したとき、それぞれの学問を専任する学者は、他の二学問を窃視することなしに自身の学問定理を組み立てることができる。学問定理は権威によって有効性を獲得するのではなく、規則によってそうするためである。各々の学問者は、それぞれ自ら組み立てる論法がその学問体系上で、如何にして肯定され、また如何にして否定されるかを知っており、また、その肯否の規則が覆えらないことを知っているが、それは他でもなく学問者が規則を立てて承認しているためである。こうして、例えば論理学上に新規の定理が発見されたとき、数学/物理学上でもそれと同等なものを使役できる可能性があるが、これは借用によって使役するのではなく、それぞれの論理空間で新規に発見されるためにそうできるのであり、注意して言えば、自己の論理空間上で発見したものでなければ有効に使役することは不可能である。

3つの学問は独立した論理空間をもち、独立に機能している。これが文脈のことではなく、歴史のことでもないというのは、本質を見ればわかることである。3つの学問が共通して有している特徴を挙げてみよう。

  • 学問体系は原則から出発し、これを不変に保持しているかぎり機能する。
  • 何らかの対象があり、それについて、原則に違反しない論理を構成して接近し、言明を生成する。
  • 原則に違反しない論理によって生成された言明は有効であり、学問者は有効な言明を信用する。
  • 有効な言明によって論理空間が確保され、これは原則によって保持される。
  • 原則さえ保持していれば、すべての有効な言明を演繹/構築/再構築することができる。

このとき、それぞれの学問体系が機能するのは論理空間上であることに注意されたい。原則の合意によってこれらの論理空間は保持されるが、それはつまり、現実との整合性を度外視して、有効か有効でないかを学問者、また論理原則は決定しているということである。論理空間は稠密でなく、断裂した飛び飛びの領域であると想像されるが、その離散しがちな領域を総合したそれぞれを「系/システム」と呼ぶことにすれば、論理学/数学/物理学それぞれの有する系は閉じている。この閉鎖性は、他2種の学問からアクセス不能であることもそうだが、現実を開放系と想定したときに対照されてそうなる。それぞれの閉鎖系は学問者すなわち人間によって有効化/正当化されるが、開放系は何者にも有効化/正当化されえない。それぞれの学問は明らかに、開放系/現実から得られる経験を捨象したものであり、この流路が反転することはない。