想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

Ethics/Estetics about spaculation ver.2 (思辨における倫理 本組み第1章)

1. 論理学/数学/物理学という経験の捨象である3つの論理体系、それぞれの対等性
 物理学は史上いつの、宇宙空間上どの地点においても自然法則が適用されることを知っているが、論理学的な視点からすればこれは帰納法によって担保されているにすぎない。帰納法とは、ある限られた範囲で真となることが確かめられた命題が、抽象化によってより広い範囲で真となることを示唆する法であるが、これが正当化される状況は限られている。正しい抽象化をおこなわなければ反証がいずれ発見され、当該命題が棄却されてしまうからである。とはいえ裏を返せば、帰納法により得られた命題を棄却するには反証を見つけ出さなければならず、反証が得られないかぎり対象の命題は真として扱われるか、あるいは偽とする手立てがないばかりに、論理学の原則の一つである排中律に従って真とされる。
 帰納法による自然法則の正当化の流れは次のようなものである。何らかの自然法則があり、これは発見当時に確かめられ、現在もなお対象とする物理系について有効な近似を与える。人類が観測を始めて以来、一度として自然法則が変更されたことはなく、それはつまりこの宇宙は不変の規則による秩序をもっているためである。これにより、自然法則は当該宇宙において時空間に亘って有効に機能することが期待される。
 ここに、帰納法による正当化の材料として自然の斉一性原理(principle of the uniformity of nature)(*1)が用いられている。この原理はつまり「未来は過去に類似する」あるいは「未来は現在に、過去も現在に類似する」というものである。原理と呼ばれるのは演繹が不可能なことによるが、それというのは過去に経験した世界と異なる世界をかつて人類が生きたことがなく、また人為的にそうした世界を経験することは人類に不可能なことによる。しかし、少し注意すればこの斉一性原理も帰納法により正当化されていることがわかり、また、帰納法の構造自体も斉一性原理に由来していることが見て取れ、ここに有名な循環論法が見出される。すなわち、自然法則は斉一性原理を用いて帰納法により正当化されるが、この斉一性原理は帰納法的に正当化されたものであり、帰納法もまた斉一性原理によって正当化されているのである。循環論法とは、論理学的には無為のもの、すなわち何事についても語っていない空虛な論証と見做される。ここに、自然法則は論理学的に何物にも担保されず、これを基礎として展開する物理学的論証は空疎のものとなってしまうという問題が浮かび上がる。これは歴史上「ヒュームの問題」として扱われ、永劫解決されないだろう問題として認知されている。これについてグッドマンはそもそも帰納法が非合理であるとして存在論的な問題を撤退させ(*2)、ポパーは良く検証/テストされたものが「妥当」であるに過ぎないとして真偽についての議論を控えた(*3)。真偽の判別のつかないものは慎重に扱うべきである、という態度が大勢である。
 では、物理学自身は自然法則についてどういった正当化をおこなっているのか、物理学において何か人類に新しい自然法則がなされる場合について見てみよう。ある特有の実験環境において生起した現象について、実験者はそれまで知られている定式化によってその現象が現様に生起することができないために、ここに未知の自然法則が働いていることを察知する。彼は測定データについて吟味し、当該実験系にて変動する諸物理量のうち、対象とする現象の生起に関わっている要素を抽出し、その対象物理量についての測定点を増やして実験をおこない、その動向についてより詳細なデータを得る。そして現象というのもまた諸物理量の変動であるから、起因となる物理量の変動量がどのていど結果となる物理量の変動量に寄与するかについて数式を用いて定式化し、これを自然法則の一員に加える。この新規な自然法則は、実際の物理系に対して適用が利くのか、同一の対象物理量を扱う実験者たちによって、完了することのないテスト/験証を永劫に亘って受けつづけ、当該自然法則の示す近似の例外となる現象が観測されるまで有効と、あるいは例外となる現象が観測された以降は実験系の複雑性に応じて部分的に有効とされる。
 ここについて言えることは、物理学において論理学的な正当化をおこなう必要は全くないということである。物理学上有効である論証はテストに耐えうるために有効であり、この「有効である」「妥当である」というのは論理学において「真である」と言うのと全く同等である。よって私はここに、論理学ならびに物理学両者の体系を、真偽決定の観点から区別することの必要性を提示する。ヒュームの問題について見直せば、これは問題設定が誤っているために問題を解決できない。つまりこれの解答不能性は、物理学的な論証は論理学的に妥当でなければならない、という誤認により問題が提起されたことに由来するのである。本章では以降の論述により、論理学の従う論理と、物理学の従う論理が別様であることを詳らかにする。
 真っ先に言えることは、論理学は物理学と同様に経験を捨象して構造された体系であるということである。物理学上の自然法則が神によって授けられた普遍の法則でないように、論理学上の各種規律(law)、排中律矛盾律同一律といった規約もまた人間が発見したものであり、実際の世界は秩序ある構造をもち、この構造は論理学上の規律を骨格としている、と普遍に言うことはできない。ある人が同一の人格を保てるのも、万物が因果律に従っていることも、ただ経験からしてそうだというだけであり、森羅万象がある特定の論理学規則に貫かれているように思われるものの、実際にその規則が機能している如何なる証拠を発見することも人間にはできない。
 人間はただ、自ら定めた規則上で、規則に従うことを取り決めた対象が、論理空間においてどのように運動するか、を記号ないし論証をもって記述するだけである。論理学の論理空間において真である言明の大半が実際の世界においてもその通りに観察されることは、論理学が経験の捨象として上手く機能していることを示し、穿って言えば、まさに観察されることによって実際の世界ではその対象、その現象様式が真とされることも論理規則による。実際の世界において現象しないものは、論理学的に見て真ではなく、真でないからには偽とされるが、ふつうは偽であると判断するには材料が足りないために真偽決定は留保される。実際の世界から概念を引用してきて、それを論理学の論理空間上で扱うさいには、扱い者自身の知識によって真偽が判断されるものの、一度判断してそれを覆さなければ、論理空間上では規律に従って、命題の連なりとしての論証に組み上げられ、正しく規律にのっとって組み上げられた論証もまた論理学的に真となる。
 しかしながら、論理学の論理空間上で真となる一切の命題および論証が実際の様式と合致するのは、規則によりそうなるのではなく、不断の合致の発見を通して規則が予想されるだけである。ヒューム流に言えば、すべての合致は全くの偶然であり、人間に証拠を発見することが不可能なことから、何物にも担保されない。論理学の規則は人間が定めたものであるから、人間が「これを機能させる」と言えば、まさにその宣言によって一切の真偽性は担保され、論理空間は規律通りに運営されるという意味で清潔に保たれる。しかし実際の世界を運営するのは人間ではなく、また運営者の有無は不明であり人間に確かめることはできない。仮に「検証が済んだ」として、更なる外部の非在を証明することはできず、無限後退に陥るためである。
 以上より、論理学は経験の捨象であり、不断の捨象作用により実際の世界における一貫した規律が機能していることを予想できたとして、それが実際に機能していることを論理学的に確証することは人間に不可能である、ということが言える。これは、視点を変えればつまり「自然法則が論理学的に空疎である」という非難の不当性の本質に当たる。これを述べたい者は自然法則の検証の不徹底性、また実際の世界との埋めようのない距たりをあげつらいたいのだろうが、論理学自身に目を移してみれば、論理学的に真である論証といえど実際の世界について何も定めて言うことはできず、繰り返して言えば物理学自身も論理学的に妥当な論証を必要としていない。自然の斉一性原理は、また自然法則も、根本的には経験の捨象である。このことから、規律(law)/原理(principle)という出発点が異なるために、その論証形態は別様であるが、論理学と物理学は互いに経験の捨象であり、互いに互いが、自身の規則に従っていないばかりに一方的に却下することができないことから、両者は対等であるらしいことがわかる。この対等性こそ、論理学の従う論理と、物理学の従う論理が別様であることの証左である。実際のところ、論理とは論理学の専有物ではなく、それぞれの体系が固有にもつものである。一連の論述を踏まえて言えば、論理とは、論理原則として定めた規則が機能することを宣言し、それが維持される空間(記述ないし思考)において論証を組み立てる過程、また空間を維持する構造のことを指す。論理学における論理や、物理学における論理は、これの一例にすぎないのである。(付言すれば、「law」という一語の使われ方を見ればわかるとおり、語用に関する意味論的にも両者の断裂は明らかである。物理学では目的として、論理学では出発地として、それぞれ使用されている)
 論述は省くが、これは数学についても同様である。数理もまた経験の捨象であることから、実際の世界について、ヒュームの偶然性から逃れて、定まったことを言えず、数学に固有の論理原則の適用を宣言した論理空間において論証が真に機能するのみである。そしてまた数学的な論証が一方的に論理学また物理学の論証を却下できないことから、三者はそれぞれ対等にある。
 三者の対等性、またそれに伴う独立性については、歴史的な成立過程を全く度外視してのことである。ここでは、固有の論理をもつ体系は、固有の論理原則を定めれば、自律的に自生し、自らの論理空間を論証により拡張することができる、ことを了承する。論理空間の拡張とは、それぞれの体系により様式が異なる。定理や法則のリストを編むことが主であり、論理学であればまた場当たり的に議論することもこれに当たる。言い換えれば、歴史的な成立過程の度外視とはつまり、固有の論理原則さえ与えれば、現様の論理学/数学/物理学それぞれの論理体系を自生させることができる、ということの了承である。歴史を顧みれば、数学において新規において発見された定理がそのまま物理学へ流用された例など枚挙に暇がないが、これは物理学の論理原則上に矛盾しないためにそうできたのであるから、物理学の論理空間において独自に発見し、それを自身に適用することは全く可能なのである。これは、仮に他力によりその定理を発見したとして、それが物理学の論理空間上で正しく適用できるのは、数学の権威によるのではなく、物理学の論理原則上何も問題が発生しない、ということでもある。
 本章を要約しよう。

  • 論理とは、論理原則として定めた規則が機能することを宣言し、それが維持される空間(記述ないし思考)において論証を組み立てる過程、また空間を維持する構造のことを指す。
  • 論理学や数学や物理学といった体系は固有の論理原則から自律的に自生可能であり、固有の論理をもつ。
  • 経験を捨象して構造されたそれぞれの体系は、実際の世界を貫く法則を想定するのみであり、それを確証することはできないために対等で、何れも他方より優位に立つことはない。
  • ヒュームの問題は、対等性を犯して、つまり論理学が物理学に対して優性のものであるという誤った前提から提起されている。


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*1)デイヴィッド・ヒューム 人間本性論 知性について(2011 法政大学出版局曾良能訳)
*2)ネルソン・グッドマン 事実・虚構・予言(1987 勁草書房 雨宮民雄訳), クァンタン・メイヤスー 潜勢力と潜在性(2014 現代思想 黒木萬代訳)
*3)カール・ポパー 客観的知識(1974 木鐸社 森博訳)