想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

Ethics/Estetics about spaculation ver.2 (思辨における倫理 本組み第2章)

2. 主観者は経験を通して外部を(再)統合/(再)構築する
 前章において、論理学/数学/物理学は、どれも経験の捨象であるために互いに対等であることを記述した。しかしながら、捨象の対象については「実際の世界」と言うのみで多分に不明瞭であった。本章はこれについて検討する。
 実在論によれば、論理学/数学/物理学それぞれの論理空間を構築する主体者またその意識から独立に諸物(objects)は存在し、この諸物の集合、またこの集合がもつ空間的な拡がりは外界と呼ばれる。実在論的な外界、あるいはそれと同一視されがちな実際の世界、現実について、人間は経験の捨象からここに普遍の規則が作用していることを期待するものの、その実態について確定して知ることはできない。人間の棲まう宇宙は、余剰次元を除いて、空間の3次元と時間の1次元の4次元時空間とされるが、「次元」という観念は人間が作りだしたものであり、論理学/数学/物理学それぞれにおいて定義するこの観念にしたがって外界が構造されていたとしても、確証されることはない。また、この確証不可能性は構造についてだけではなく、実在じたいについてもそうである。実在とは、仮に諸物が存在するとして、何らかの主体に認識されることで存在するのではなく、それ自身で存在すること、その存在様式を指す。実在とは絶対的に諸物が存在することであり、相対的に存在する場合は単に「存在が認識される」「存在論的に存在する」と言う。認識されることで諸物は相対的に存在し、認識されることなく実在は絶対的に存在するのである。独我論を退けて言えば、諸物はそれ自身で、つまり絶対的に存在し、人間は経験を通して相対的にそれらの存在を知るだけであり、絶対的に諸物が実在することを確証することはできない。
 ここで経験とは、人間にとっては感覚知覚された情報の堆積、またこれを抽象的に解釈した諸学問知のことである。まさに現在感じられる感覚刺戟と、経験とを足し合わせて、人間は外界の状態を想像するが、このとき情報の(再)統合/(再)構築(*4)がおこなわれている。(再)統合/(再)構築により想像される外界は、実在論的な外界と必ずしも一致しない。そのため、主観としての人間自身の内部において擬似の外界の見出されるという意味で、これを内界と呼ぶ。人間はこの内界を現実として認識しており、一般的には実在論的な外界と同一視している。一般的な信念によれば内界と外界は一致している、あるいは部分的に一致していると考えられているのである。しかし外界の実在様式について何ら確証できないため、内界における相対的な存在の集合は、感覚器官が虛偽を働かないものと信用すれば、明らかに、外界における実在の集合の部分集合である。外界における諸物の実在について確証しうるのは想像上の造物主だけであるが、しかしそうであるならば、内界における諸物の存在について人間は確証しうる。感覚する情報が自身において(再)統合/(再)構築された総和が内界であり、このなかで連続性をもって存在する諸物は、存在論的に明らかに存在する。断っておくことには、ここで、諸物の集合から諸要素を取りだすことはしない。諸物について、それがどこから単体として数え上げられるのか、名辞か、原子レベルの構成要素か、というのは個人の主観により全く異なる。この点から、人間にとって一般的な内界というのは、まさに知覚された情報の総和であり、何となれば全人類、全時代にわたって総和をとることも厭わない。単位について分けて見ることはせず、ただ諸物の集合と述べるに留まり、まさにそうすることによって内界の一般性を保つ。
 さて、内界、つまり感覚情報を(再)統合/(再)構築して想像される外界においては、自然法則や因果律が明らかに成立する。これは主観的にそう見えるもので、主観とはつまり感覚刺戟の堆積により構成された記憶ならびに経験、またそれに伴って発現する意識のことである。実在論的な外界についてはいざ知らず、内界では、人間が観測可能な範囲ではひとまず、諸法則は時空間にわたって普遍的に機能している。なぜこれが機能しているかについては、外界の創世者のみが知るところであり、主観者としての人間はただ、現象の規則性や類似性について察知して定式化し、生活に役立てるのみである。論理学/数学/物理学といった経験を捨象した知識は外界について何も確定して言うことはできないが、その言説の妥当性を主観者に提示する。これらの知識に基づいて内界の次の状態を予想することが有効であり、この予想に基づいて行動したり何か物を作ったりすることができる。そのために主観者の信用を受け、信用を受けられない言説は棄却される。学問知が真理と等しいとされるのは内界と外界とがぴったり符合する場合のみであり、仮に、外界と比較して内界が小さければ、主観者について特殊に有効な知識、という地位に学問知は留まる。
 内界が外界の部分集合である、という事実は、経験しうるかぎりが世界そのものである、という主観的な比重の強い信念からは無視される。これが顕在化するのは、ただヒューム的な破れに人間が遭遇した場合のみである。
 ヒューム的な破れとは、つまり斉一性原理の破綻である。検証する手段がないばかりに無条件に信用しているこの原理は、本来、いつ例外に遭遇しても不思議ではない。これが破綻しないかぎり有効に機能する、という註釈を論理学/数学/物理学いずれの論理空間においても付けておくべきなのであるが、史上一度として破綻が生じていないために、学問者はこれを怠りがちである。
 この破綻は曖昧な想定であり、文脈によって解釈される強度にはばらつきがある。これが実際的にどのような作用を指すか、強弱について二つほど例示する。
 一つには、諸法則の時空間依存性が挙げられる。自然法則や因果律は時空間に普遍のものとして扱われているが、局所的な時間あるいは空間において例外が発見されることで破れが顕在化するのである。これについては、論理原則を変更せずに対処できる、つまりそのような例外を含めて定式化をおこない、この破れを補修することができるために、弱い破れである。物理学においては時空間依存項を科学定数や自然法則に付加してやるか、アドホックに局所時空間における定式化をおこなえばよく、論理学と数学についてもおおよそ同等の対処でよい。
 強い破れについてはおよそ二種類ある。一つは、論理原則を変更しなければ破れを補修できない場合である。破れが顕在化する以前と以後、両方を記述しうる普遍式を構築したくば、それまで組み上げたすべての論理について、根本原則の変更により生じた矛盾や乖離について註釈を加えなければならない。例えば、あらゆる現象の生起様式が確率的に決定されるような(局所)時空間の存在は、ことにこの確率が、ポアソン分布やガウス分布といった、定まった平均値を示すようなものでなかったとき、論理体系を危殆に晒すことになる。場当たり的に現象が生起することになる、つまり現象の予想が不可能になったとき、もはや現状の論理体系は有効ではなく、まさに有効性のみによって存続している論理体系はここに不要となるからである。こうした場合、論理体系を存続させたい者は速やかに原則を改訂し、現象の予測としてではなく、歴史学的な堆積として論理学/数学/物理学を位置づけることを要求することをもって対処したものとする。
 もう一つの強い破れでは、もはや主観者に破れを修復することはできない。それは、この破れによって主観者自身が存続しえなくなるためである。諸法則として内界に秩序が見出されるのは、他ならず(再)統合/(再)構築をおこなう主体が存在することによる。破れによってこの主体が淘汰された後の内界はいかなる論理によっても体系化されえない。
 結局のところ、ヒューム的な破れとは、観察主体と実在論的な外界との接触面での作用のことであり、主観的な考察にすぎない。主観者が気づかなかっただけで外界はもともとそうだったのである、という発見は、外界の確証不可能性に由来し、その顕在化のことである。論理学/数学/物理学という経験の捨象を破綻させるのは、経験をおいて他ならない。すべての論理空間は主観によって形成される。外部に何か対象がある、というのは、内界、意識主体の内部に(再)統合/(再)構築された外部に何か対象がある、ということと等しい。この(再)統合/(再)構築された空間こそ存在論的空間であり、まさに主観者が認識することによって存在する一切の存在物の集合がこれを形成する。この存在物は感覚刺戟によってのみ認識されるものではなく、主観者が想像可能なものはすべて存在可能である。ただ経験のみによって(再)統合/(再)構築された内界と並列に、想像により認識されたイデアルな存在物は存在する。また穿って言えば、経験によって(再)統合/(再)構築された存在物と、そうでない存在物とを区別することは困難である。科学的に実証しえないものが存在しないことを確かめることはできず、内界の一般性が総和によって成り立つ以上、個人の信条によって特定の論理体系に認められないものを排斥することは許されない。
 ここに、実在論的に絶対的に実在する諸物に対して、存在論的に存在する諸物を区別する。存在論的空間は主観者が認識し、まさにこの認識によって相対的な存在を獲得する諸物の集合である。主観者にとっての外界、存在論的空間は、それが完全に経験に由来し、絶対的な実在と相対的な存在とを中継する感覚器官においていかなる虛偽を経験が付加されないときにのみ、実在論的な外界の部分集合である。外部に実在しないものを主観者が認識することは可能である。これを存在論的空間の要素として数え上げると、実在論的空間との差分が現れる。実際には、実在論的空間と存在論的空間とを比較することはできず、主観者は後者しか知りえない。そしてまた、前者は別様にも定義可能である。次章において客観性を検討し、これにより主観性を浮き彫りにすることを試みる。

 

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*4) '再'に括弧がつくのは、諸物が実在して、それ由来の情報を人間が知覚しているのであればそれは「再統合/再構築」に違いないが、それが確証されない以上は、単に情報だけがあり、それを自身で「統合/構築」しているに過ぎないからである。