想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

Ethics/Estetics about spaculation ver.2 (思辨における倫理 本組み第3章)

3. 真に客観性を獲得することについての想定、物理学的マルチバース実在論マルチバース
 物理学者は屡々「理想的に」という枕詞を用いる。これは変数が多いために煩雑きわまりない外部の、現実の物理系に対して、熱力学的考察であれば熱力学に、電磁気学的考察であれば電磁気学に、それぞれ関わるパラメータのみを抽き出し、また計算を簡単にするために、スケールに合わせて小数点特定桁以下を切り捨てる作業をも場合によりおこなう。この近似が成り立つのであれば、言い換えれば、このような近似を用いた論証が扱い者にとって有意であるかぎり、この「理想的な」議論は実用的であり、また妥当である。実用的であり、妥当である多くの議論は測定データに基づく。特定の物理系について得られた測定データが強く示唆するところを汲みとり、実際の現象の構造を理解することで、構造についての説明を反証するデータが得られないかぎり、この議論は有効なものと見做される。
 宇宙という自然環境において、自己を知り外部の構造を推測しうる知性とは稀有の存在である。ドレイクの方程式によれば、太陽系を含むこの銀河系に存在し人類とコンタクトする可能性のある地球外文明の数は十種であり、これは2000億から4000億と推定されている恒星数と比較して、破格に少ない。そしてまた現代天文学の標準理論(FLRWモデル)に含まれるインフレーション理論によれば、生命が存在しうる宇宙が生成されうるのは確率による(*5)。インフレーションの生起様式に従って科学定数値が決定される。とくに真空エネルギー値Λや重力定数値Gは星形成の有無に関わり、この具合により、塵より大きな集合物が生成されうるかが定まる。他にも、分子結合が維持される温度状態や電磁気状態など、複雑性の獲得は多数の状態に依存する。これら科学定数諸値の微妙な調整によるため、インフレーションによって発生する宇宙には必ずしも生命が発生しえない可能性があるのである。こうしたインフレーション様式の選別を免れ、また恒星から絶妙な距離に置かれた地球環境様式、この両者の下に発生した知性、人間は、その存在じたい極めて恵まれており、これを産んだ環境は、まさに設計者によって構成されたと考えたくなるほど精緻であることから、見事な調律、Fine-Tuningと称される。
 「なぜ無ではなく何かがあるのか?」という問いに答えた宗教は史上いくつもあり、多くは「造物主が設計したためである」と提示する。物理学的な知識を得て唯物主義に改宗した者は、世界の様式について理由を知りたがることは愚かであり、ただどのようにして世界があるのか、という疑問を解消しつづけることが正しい帰依の作法だと信じるが、それでもこの見事な調律を目の当たりにすれば「なぜ世界はここまで絶妙に保たれているのか?」という疑問を呈さずにはいられない。一歩誤れば選民意識に転じかねないこの興奮を冷ます回答に、人間原理(anthropic principle)という思考様式がある。これによれば「そのような世界しか観測可能ではないからだ」というひと言で片が付く。知性の発生確率のおそろしく低い環境にありながら我々があり、他の無数の、知性の発生不可能な環境に我々がないのは、そうした環境は知性が発生しえないために、知性には観測不可能だからである。物理学とは、理想的に、認識主体なき客観により自然の姿そのものを捉える論証をおこなう体系であるが、観察対象に取りうる諸物が、そもそも全体から偏って選ばれていれば、学問者が均等に対象を選択しているつもりでも、出来上がる体系は偏ったものとなるのである。
 こうした人間原理による謙虛より、逆説的な仮説が生じうる。それはつまり、知性が発生しうる宇宙がそもそも少数だとすれば、多数派である宇宙が同時に存在しても何らおかしいことはなく、仮に世界が、単一のインフレーションによって生起したこの宇宙より広いとすれば、同時に複数の宇宙が存在することはじゅうぶん可能である、というものである。これはマルチバース理論と呼ばれ、単一の(uni-)ユニバースに対して、これが複数(multi-)あることを仮定する。これまで「宇宙」と呼んできたのは、単一のインフレーションによって生起したユニバースであり、この集合としてマルチバースがあり、このマルチバースこそが真の物理学的な世界像であるとする立場である。
 認識主体なき客観による自然の描画を目標に掲げる物理学としては、より主体の偏った視座から離れ、普遍に漸近するという意味で、この理論は望ましいものであるが、ある重大な問題がある。それは、マルチバース理論には反証可能性(unfalsifiability)が無いことである。
 ある固有のユニバースに棲まう者は、他のユニバースの存在の可否について、また内部状態について何も知ることはない。ユニバースの内部空間に対して、複数のユニバースが置かれる、インフレーション理論上は全くの無であると考えられる空間をメタ空間(metaspace)と呼ぶが、ここで泡状に無数に生起していると考えられるユニバース群のうち、泡どうしが衝突を起こしていれば、その両者の内部における観測者はマイクロ波背景放射(CMB)から衝突を検知し、他のユニバースの存在を確証できる(*6)ものの、それは衝突している幾つかのユニバースの存在を検知するのみであり、もし一つとして衝突を起こしていなければ、それは自然において単一のユニバースしか存在しない状態と、観測上は変わらない。つまり、他のユニバースが存在することは検証可能であっても、存在しないことは検証不可能なのである。これは、物理学史上、他に類を見ない性質の仮説であり、それはむしろ古代ギリシアにおけるデモクリトスの原子論やアリストテレス宇宙論のように多分に思辨的、つまり検証を必要としない議論なのであることから、科学理論として認めがたいという向きがあるのである。
 しかしながら、観測者の生活に役に立つ、したがって実用的で妥当であることだけが学問に要請されることではないとすれば、マルチバースによる一連の視座の転換は、よりすぐれた客観性を獲得しうるという点で耳目をひく。単なる仮説であり、しかもその妥当性が永劫示されないのだとしても、そもそも主観者自身が全知となることは、主観者自身に可知であるところのものが実在のすべてである、という信念の下以外にはありえない。したがって、外部のすべてを確証することはできない、実在論的空間の外延を確定することはできない、とする謙虛な実在論者は、このマルチバース的な視座の転回を実在論上でおこなうことで、より主観者の偏見を抑えた認識の視座に立ちうる。以降の論述において、物理学的なマルチバース実在論的なマルチバースを区別する。
 実在論におけるユニバースとは、すなわち単一の主観者が保有する存在論的空間の根源とされる、実在論的空間のことである。これはつまり、主観者の情報処理系が自身を経由して主観者に経験を与える経験作用において、まさに感覚器と接触する情報源としての実在の集合である。主観者は固有の感覚器ならびに固有の情報処理系をもつため、外部にあるすべての実在と接触することは難しい。この接触可能な実在群のすべてを外部そのものだとする仮定は偏っているのであり、まさにこの偏りによって実在論的なユニバースが一つの集合を形成するのである。
 転回を果たすべく、ここで主観性による偏りを自覚し、他のユニバースの実在を仮定する。いまや主観者は人間に限られず複数あり、それぞれ固有の感覚器と固有の情報処理系をもつために、実在論的ユニバースとの固有の接触面をもち、主体において固有の存在論的空間を構成する。物理学的マルチバースにおけるメタ空間に対応する、単一の主観者における外部、実在論的な外界は、いくつかの泡によって区画が見られるようになる。この泡の一つ一つが、特定の主観者における実在論的ユニバースである。これらは、例えば同一の物理学的ユニバースに存在するとされる主観者、人間からして火星人やイルカのようなものは、部分的に同一の実在と接触面をもつために、人間のもつ実在論的ユニバースと、それらのもつ実在論的ユニバースは衝突しているものと考えられる。翻って、同一の物理学的ユニバースに存在していないような主観者や、そもそも如何なる手段をもってしても交信不可能な主観者については、実在も存在も確証することはできないが、実在論的ユニバースの衝突が生じている可能性はある。
 ここで、同一の感覚器および情報処理系を保有する一群の主観者を種族Tribusと呼ぶことにすれば、同一の種族に属する主観者は存在論的空間を共有し、同等の接触平面をもつ。前章に述べたことを汎化させれば、存在論的空間とは、ある種族が認識し、まさにこの認識によって相対的な存在を獲得する諸物の集合である。ある種族において経験するヒューム的破れは、その種族のもつ実在論的ユニバースの変質ならびに拡張に他ならない。種族の主体に昇る情報は、感覚器と実在論的ユニバースとの接触面から吸いあげられるが、この接触面の様相が変化するのであり、アナロジー的に言えば、接触角度や浸透圧の変位、内伏していた実在の接触平面への浮上、感覚器または接触平面の硬質化や軟質化、実在論的平面の沸騰、等々が生じたために、吸いあげられる情報が変成するのである。しかしながら、それは必ずしも実在論的空間の変成を意味しない。ある種族の接触する実在対象は実在論的空間のうちの限られた個数のものだけであり、それは他のある種族が接触しているものかもしれなければ、そうでない可能性もある。主観的に、したがって天動説的には、実在が流動するのに諸感覚器は翻弄され、ヒューム破れは種族にとって厄災としか見られない。しかしこの主観性を排して、実在論的空間において種族自身が航海しているように考えると、変質するのが実在論的接触面ではないことが頷ける。後者は経験にはまるで合致しないが、経験は所詮主観によるものであるから、実在論的空間について何も確証することはない。実在論的空間の実際の様式と必ずしも一致しないし、それどころか懸け離れていることも否定できない。
 ここで、諸種族の固有にもつ個々のユニバースすべてを要素にとる集合、つまり実在論マルチバースは、実在論的空間、すなわちすべての実在を要素にもつ集合の部分集合であることに注意する。すべての種族のすべてのユニバースの総和をとったところで、それが実在論的空間の全体と外延を一致するとは限らないということである。
 これを物理学へ逆輸入すれば、諸自然法則が支配しえない空間は存在しない、という物理学の立場を崩すことも可能である。見出されている自然法則は、つまり人間に見出すことのできる自然法則の総和は、自然の全体において機能している諸自然法則の総和と、必ずしも一致しない。これにより、人間に知りうる自然法則に支配されうる(メタ)空間の全体としての物理学的マルチバースは、更に半径を拡げた外部、自然法則による支配を補完する全体(omni-)の空間として物理学的オムニバースが見出される。これは文脈により無限集合として扱われるが、本論では単なる集合である。ある種族において概念化可能な集合に無限延長という属性を与えたところで、それを部分集合にとる集合について言及することにはならない。いかなる種族も自身の存在論的空間を逸脱することはできないため、概念的な拡張は自身の空間内で必ず収束するためである。また、ここで実在論的オムニバースとは実在論的空間全体のことである。実在論的空間とはすべての実在を要素とする集合だからである。
 本章でおこなった一連の客観化作用によって見出されるマルチバース、またオムニバースは、単一種族による外部認識の偏見を浮き彫りにする。史上「イドラ」と呼称されてきた、種族に固有な偏見は、完全に排することは叶わずとも、その権勢を弱めることは充分可能であると信じる。本章の考察のすべては、論理学/数学/物理学いずれの文脈からしても妥当とは言いがたいものであるが、しかし反証不可能性からして、いずれによっても棄却されることはない。
 経験の捨象であるそれらの知識が妥当とするものと、外部の真の様相とがどれだけ合致しているかについて、単一の種族には判断しえない。我々のなすべきことは、どこまでが人間固有の論理で、どこからが、この固有の論理から逸脱や抽象を図ったものかの峻別をおこなうことである。人間種族にとって妥当な議論を取りあげてそうでないものを棄却すべき場ではその通りに為し、自由に発想することが許される場においては、人間固有の論理から逸脱するからという理由で、まさにこの理由のみによって、むやみに言表を排斥しないようにすることが肝腎である。とすれば、外部についての思考する際の倫理について、他ならぬ学問自身の手によって論理を構築することも、まんざら無為とも言いがたい。

 

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*5)Luke A. Barnes The Fine-Tuning of the Universe for Intelligent Life(5. The Multiverse)(2012 arxiv)
*6)George F.R. Ellis, Jean-Philippe Uzan Causal Structure in cosmology (2014 arxiv)