想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

Ethics/Estetics about spaculation ver.2 (思辨における倫理 本組み第4章)

4. 妥当性について -学問的であることの倫理性-
 前章において適用した客観化作用は、外部についての考察を無限後退に陥らない形でおこなうための論証様式であり、その形体は背理的な演繹法であった。経験の捨象である既知の学問知識から出発し、学問的に反証不可能な言明により演繹をおこなう法である。これは一般的な物理学のもつ自明性、すなわち理論云々は抜きにして現象が突きつけられたとき、その現象は必ず物理学的に定式化できるのだ、という無根拠な期待を抱くことが、まさに前提となるべき現象が手元にあらわれないため、これに欠いている。
 物理学に限らず学問における客観性とは、誰にとってもその知識を有意に扱えること、つまり人間種族において実用的であり、妥当であることにある。実用的であるとは、その知識を用いなければ不可能また困難であった事柄をあまり労せず為せるようになりうることであり、妥当であるとは、理性的である多くの人がその論証によって納得しうることである。
 この知識は、他種族において有効である必要はまるでなく、ただ人間に読解可能な言語で、ただ人間が生活するときに有用であればよい。このとき、一つの種族として閉じたコミュニティの外部、種族一般について有効な知識についての検討は、人間種族自身の内輪で議論して到達することは難しい。それぞれの種族が自前の学問的知識をもちより、その積集合をとることが最も簡易であるし、それが、互いに接触可能な種族における知識という偏ったカテゴリのものであったとしても、前者よりは信用がおけるものと考えられる。
 ある種族において正しい、つまり妥当とされる学問的知識は、優先選択によって採択された要素から成る。理性的な人々の間で自明でないとされる言明を基礎において演繹作業をおこなう独断論的な論証はなるべく斥けるべきであり、そうすると必然的に、万人が具えている感覚器官の情報、および意識に浮上しうる経験のすべてを信用し、これを基礎とする論証がもっとも受け容れやすく、また自明であると信じられる。
 メイヤスーが主著(*7)において洞察したところによれば、旧くは特定の宗教によってなされていた、神学的な統制を受けた独断論が風化してみると、ここには本質的な信仰主義(fidéiste)が生じる。形而上学的な絶対者または外部について言及するあらゆる言明は、それが外部について何ら定めて言うことができないために、少なからず独断論的な性質を帯びている。独断論的な言明は、それを信用する理性を共有する者たちの間で信じられる。ここで、神学的な統制、つまりある理性を共有した人々のもつ、その理性の源泉が崩れてみると、理性の共有単位は、それまでの学派やセクトから、それより小さな集団、果ては個人へと細分される。ある特定の宗教によらない理性をもつ人々は、まさにそのために理性を宗教化(enreligement)されている。つまり、それまで宗教単位でおこなっていた独断論的作業を個人や小さな集団の理性自身によっておこなっているのであり、この点で「宗教」とは独断論的作業を合理化(rationalisation)する作用のことである。
 ここから踏み込んで言えば、合理化の主体としての理性は、恣意化された経験に他ならない。論理学/数学/物理学いずれの学問も経験の捨象であり、自身に経験される事柄について、普遍的であると思われる知識を信じる。しかし外部について何も確定して述べることはできないため、学問的知識のみを信用することも、一種の信仰に他ならない。ここで共有されている理性は「経験されうる事柄のみを信用する」というものであり、そうでないものをただ「経験されない」という理由で棄却すること、両極のいずれも独断論的な性質を具えている。経験を信じ、その捨象によって得られた知識が自身の生活を豊かにするとして、それが経験を信仰しなければならないことにはならない。この独断論的な言説に服従することを選択している時点で、学問者も一人の信仰者であり、学問とは現代において支配的な神学である、と言うことも充分可能である。宗教が独断論的な知識の合理化作用であるとすれば、その合理化によって産みだされた箴言を編んだ体系こそが神学だからである。
 ある個人が属する種族とは、人間一般あるいはホモ・サピエンス一般を必ずしも指さない。共通した感覚器と情報処理系を有するものどうしが種族として集約されるが、理性、つまり特定類の言説への信仰心は、情報処理系の一部として機能しうる。これにより生物学的な分類からさらに分断されて種族は成立しうるかもしれない。また、これは逆も然りである。個々人の理性による差異など、種族の内輪で肥大のものと映るだけで、他の実在論的に断裂した種族を鑑みれば微々たるものであるとすれば、イルカや火星人など、同一の物理学的ユニバースに属する者は皆一つの種族として還元可能かもしれない。同一の物理組成をもてば、実在論的な接触面はほとんど同一だろうと考えられ、我々の種族が触れうる実在の集合が、実在の全体集合と較べてずっと小さかった場合、断裂はむしろ実在論的空間において起こっているものと見做せるためである。種族とは主観的に分類するものではなく、いくつかの種族を見出して、それを分類するものである。しかし実在論的な視座に個々の種族が立つことはできないため、正しく分類されることはないのである。
 ここで、本論ではいくつかの不可能性について扱ってきたが、思考不可能であることについて、それがただ思考不可能であるという理由で議論を閉じることは簡単である。しかし、もし、その議論が如何にして思考不可能であるのか、どのような視座にあればその思考不可能性は解消されうるのか、という議論に価値を与えうるのならば、それが論理的な構造をもちうるかどうかというのは、充分に学究の対象となりうるものと考える。外部について言及する一切の思考が、理性の作用なしに真とされえないとすれば、ここに、ある思考について、それがどのような根拠をもち、どのような動機をもって真とされうるのか、またそれの優先選択をおこなう辨別機構は理性においてどのように形成されうるのか、ということについて議論をおこなう倫理の想定がなされる。
 これはちょうど、第一章において論理学と論理とを区別したような仕方で見出されるのであり、人間が形成する倫理一般について議論をおこなう倫理学とは区別される。論理学/数学/物理学といった経験の捨象であるあらゆる論理は、あらかじめ定められた論理原則にのっとって論証をおこなうことを誓った理性らにより、自身に固有の論理空間をもつ。これらの論理はさらに、扱う対象についての取り決めについて同意することで、複数の人間において論理空間を共有されるようになる。しかし、何も外部について定めて言うことはできないため、何らか特定の動機を得ないことには、確定した言明をおこなうことはできない。ここで、論理原則に従っているすべての言明を合理化する傾向こそが倫理であり、各々の論理はそれぞれに固有の倫理を保有する。保有の形式は様々であり、どちらかが他方に従属する形も、監査機関として他方を設置する形も、一体として融合する形もありうる。第一章において、あらゆる論理体系は同一の論理原則をもつことで、再現性をもって自律的に自生しうると述べたが、倫理の共有がおこなわれなければ、それぞれは偏った体系として再現されうることを、ここに注意しておきたい。
 ある種族、またある理性が、自身の経験的な知識また存在論的な想像に基づいておこなう一連の記述、また記述様式について、単に思考を辨別するという意味で「思辨」と呼ぶことにする。思辨はそれ自身で真となったり正当化されることはなく、必ず何らかの主観者によってそうされる。倫理によって選別また抽出された経験についての捨象から仮説としての思辨がいくつも形成され、それを論理原則の下に成否を判断することにより、あらゆる学問的知識は醸成されている。ここで学問的知識とは、特定の論理による選別を受け採択された思辨の群に他ならない。主観者の感情によって表出し、倫理と論理による二段階の審査をパスした思辨が、ある種族、ある理性において知識として堆積するのである。
 ある思辨について真偽性また正当性を賦与するものが、それ自身では不確定である特定の理性によるものだとすれば、もはや制約は何もない。とすれば、経験されるもの以外を認めないとする学問側の態度も、自由に改変される余地がある。しかしながら、迂闊な改変は無用な体系の断裂を招きうるため、体系自身については触れずに、独自の体系を新たに産みだしてゆくことが要請される。本流の学問体系との区別のため、「思辨-」という接頭辞を諸学問名前につけることとすれば、分派した「思辨○○学」は、「基となる学問上の知識から出発し、思辨的な演繹過程を経て、当該学問の論理原則また定理によって棄却されない結論を導く」という性質を帯びる。思辨的な演繹過程とは、経験による証拠の提出を一切必要としない、ただ思辨の記述によるものである。前提と結論さえ、基となる学問において妥当である言明であれば、その倫理様式また論理様式は、基となる学問の名に接頭辞をつけて名乗ってよいとする。
 思辨-を冠する、分派によって誕生する一切の学問は、客観性への挑戦を動機とする。実用性、妥当性は、特定の種族また理性によって構成されるものであり、思辨による学問はこの外部を想定し、経験と不可能性の狭間で論理構築を試みるのである。前章にておこなったユニバース/マルチバースについての検討により、すでに思辨物理学は実践されている。マルチバースとは、物理学上のインフレーション理論を基礎とし、反証不可能である思辨的な考察を経て、マルチバースという物理学的な構造をもつ宇宙の一形式を提示しているからである。

 

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

*7)カンタン・メイヤスー 有限性の後で 偶然性の必然性についての試論(2016 人文書院 千葉雅也、大橋完太郎、星野太=訳)