想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

4. マルチバースの想定による、より強い客観性の獲得可能性

 ある、規則によって真となる論理において、論理的に妥当であるが経験不可能なものについての思考について「思辨」と言うことにする。実在論を含め、古来より哲学がこの領域を扱ってきたが、昨今では、物理学でもこれに関する問題を扱う。マルチバースの問題がそうである。
 1970年代初頭の物理学者たちは、科学定数や、宇宙の発生における初期状態に関して、見かけ上わずかな数値の変位を与えるだけで、我々の存在する宇宙、ユニバースには劇的な効果が及ぼされうることを計算した。これによれば、複雑性や安定性を必須とする生命は簡単に消滅しうるのである。生命の肉体を構成する最小要素と考えられている、アップクォークダウンクォークや電子の類いは、偶然に選ばれたにすれば余りに小さい幅に質量を抑えていなければ、更なる複合をおこなって核子や原子や分子、さらには化学一般の諸反応を起こしえず、同様に、真空エネルギーはプランクスケール(10-34オーダ)より遙かに小さく抑えていなければ、宇宙において何らの構築物も得られなかっただろう。この、偶然にしては出来過ぎている、我々を取り巻く環境には「Fine-Tuning(見事な調律)」という賛辞が与えられ、1974年のカーターの論文(*12)より、人間原理(anthropic principle)の問題と見做されてきた。何らかの観測者による被観測可能な宇宙は、そもそも高度に秩序化されていなければならず、そうでない、秩序の薄い宇宙はそもそも観測されえない、という逆算的な視点によって、我々の存在する、この途方もなく稀有な宇宙について有神論的な設計の想定を退けてきたのである。そしてこのファインチューニングに伴う人間原理の了承から、マルチバースは想定される。
 我々が存在するような、単一の(uni-)ユニバースに対して、これが複数(multi-)同時にあるもの、すなわちユニバースの集合はマルチバースと呼ばれる。現在の標準モデル(standard model)によれば、一様等方のFLRW型の一箇のユニバースは単一のインフレーションによって生起する。このとき、真空エネルギーを含む初期状態のパラメータについてはランダムに決定されると考えられているため、様々な内部状態をもつユニバースが生成可能である。生成可能であるからには、それこそ水中で気泡がぼこぼこ発生するように、マルチバース上で実際に無数にインフレーションが起こり、ユニバースが各所で発生し、生残して膨張をつづけていても何ら不思議ではない。この、複数のユニバースの存在を想定する宇宙論のモデルこそがマルチバースである。しかし、これを実証することはほとんど不可能である。自らの棲まう宇宙の外端ですら観測不可能である我々にとっては、我々のユニバースが他のユニバースと衝突を起こしていた場合にのみCMB(宇宙マイクロ波背景放射)観測によって、当該ユニバースの存在を確証可能であるばかりである(*13)。この反証不可能性の問題により、マルチバース理論を科学理論として扱うことに疑問を呈す意見もある(*14)。あらゆる理論は反証によって棄却される緊張に絶えず曝されているべきであり、ただ信念によってしか棄却されえないものを理論と認めるようでは、穿って言えば、古代ギリシアの四元素論と並べられても致し方ないのである。
 しかしながら、主観者自身の生活の役に立つこと、したがって実用的であることだけが学問に要請されるのではないとすれば、この思辨的な、マルチバースによる一連の視座の転換は、より優れた客観性を獲得しうるという点で注目に価する。たいていの学問は、個人の信念によらない普遍の理論をもつことでドクサと区別されるし、独我論を退けて我々が外部の想定をしようとするときは、なるべく後天的な先入観を払いのけたいのが常である。マルチバースの想定とは、要は学問における二段階目の客観化である。学問者として我々は、第一に個人の主観から離れて人間に普遍的な見地を得たいと願い、そして第二があるとすれば、我々が人間であるからこそ蒙る主観性から離れてさらに普遍的な見地を得たいと願うのである。しかし、我々自身が主体から離れられない以上、そうした人間的な主観性から離れたことを経験することは不可能であり、もっぱら思考可能性を頼りに思辨的に議論を進めるよりない。この前提を了承して、以降に物理学的マルチバース実在論マルチバースを区別して、実在論について更なる客観性を獲得する検証をおこなってみよう。
 実在論におけるユニバースとは、単一の主観者が経験として保有する、存在論空間を間接的に構成した根源とされる、実在論空間の部分集合のことである。主観者がもつ、実在との接触面は、不完全性のために情報量を幾ばくか欠落して相互情報量を得るが、このとき、通信路における欠落分を補ったものと、実在論空間全体とが一致するかは不明である。ここで、それぞれの主観者のもつ接触面および通信路の固有性のために、実在全体と区別される一つの集合として、実在論的ユニバースは見出される。この偏りは主観者の数だけ見受けられるが、ある種類の主観者の集合、例えば人間一般のもつ接触面および通信路に関する実在論的ユニバースを、人間一般の総和として定義すると、実在空間においてそれらが占める領域の境界がより明瞭になることが予想される。これは何も人間一般について集合を形成しなくてはならない理由は何もなく、タンパク質を主として組成される生命一般でも、同一物理学的ユニバース上の存在者としてもよい。このとき、任意に選んだ主観者の集合について「種族(Tribus)」と名辞すれば、あらゆる種族は、固有の接触面と通信路によって、総和としての実在論的ユニバース一つに紐づけられ、特定の存在論空間に棲まう。この実在論的ユニバースの集合は実在論マルチバースとして見出されるが、これはつまり、何らかの種族と紐づいているすべての実在の総和のことである。これが実在全体と一致するかは不明であり、それはつまり、如何なる種族によっても間接的な接触を受けない種類の実在が、実在論空間において実在しうることを示す。
 物理学的マルチバースが置かれている空間、つまり、インフレーション理論において、インフレーションの外部にあって実質的な「無」とされる空間はメタ空間(metaspace)と呼ばれるが、実在論においてこれに対応するのは実在論空間である。ユニバース群の集合と、空間的な包含について区別したければ、この全体空間を特に「オムニバース(omniverse)」と呼んでもよい。文脈によってこの語は無限集合として扱われるが、本論においては思考可能性から、単なる集合として扱う(*15)。オムニバースとは、経験の外部にあるもののうち、主観者自身にとって思考可能な全体集合のことである。
 以上において、単に主観者の外部を実在とする実在論より客観性に優れた実在論が見出される。主観によって存在が確証されることで存在性を獲得するのではなく、ただ実在することで実在性を獲得する、という点で実在とは客観的なものである。それについて更なる細分化を施せば、何らかの主観者に間接的に紐づくこともなく、誰にも知られることなく、真に客観的に実在する実在が想定される。これは如何なる主観者においても経験不可能であるが、思考可能であるという点から、この想定は思辨的である。
 批判的に言って、物理学におけるマルチバース理論とは、我々の存在する宇宙、物理学的ユニバースに関する稀有性についての古典確率論的な解決である。インフレーションの初期状態を決定する要因が見当たらないならば、生起しうるすべての事象について均等に確率を割り振るのが妥当であろう、という提案は、根拠のない不充足理由律(principle of insufficient reason)によっている。ファインチューニングは、この、古典確率論による、列挙可能なすべての事象、存在可能なユニバースの取りうるすべての初期値への均等な確率(尤度)割り振りによって、無用に主観化されているのである。このような均等分配の古典確率論的な議論のすべてが、ただ信念によって値を決定する主観確率を扱っているために、普遍性を失効しうる。マルチバース理論が有効であるのは、「我々の存在するユニバースの他にユニバースが存在しない理由がないとすれば、それらが存在していても何ら不思議ではない」ということを信じているときだけであり、反証によって失効することはないが、しかし「我々の、人間種族のスケール上において、経験的に観測される、物理学的な根拠の見つからない事象については均等に確率(尤度)を割り振ってよい」という信念を抛棄すれば、これを失効させることができる。ポアソン分布や一様分布や正規分布といった、我々に馴染みのある、したがって経験的な確率分布は、我々人間種族の時空間スケールにおいて頻繁に観察されるが、他の種族の指標スケールにおいてもそうであるかは不明であり、また実在論全体についても不明である。これを担保しうる如何なる必然性も見出されえないことから、これを信じることも、信じないことも、どちらも単なる信念に還元されるために対等である。
 経験のみを信じるならば、我々に固有の論理を用いていずれか一つの信念を採択して正当化することは可能である。しかし、この外部を想定するとき、あらゆる言明はすべて主観者自身の信念また信仰によってしか確証されえない。今一度確認しておけば、ヒューム的破れに遭遇するまでは、経験のみを信じていて何も不都合なことはないが、これに遭遇した以降は、その限りではない。真に客観性を獲得することは、学問の目指すべき到達地であるかもしれないが、それによって学問のもちうる君主的な特権を抛棄しなければならなくなることは、如何にもな皮肉である。
 本章について一つ付言しておくとすれば、次のようなことだろう。もしヒューム的破れによって科学定数や自然法則そのものが変化する可能性があるとすれば、なぜ各契機(instant)ごとにそれが変化しないのか、これは明らかに確率論的な外れ値であり、そうであるならば、物理的な外界において、諸科学定数や諸自然法則が不変であることが頷ける、と、申し立てる者があれば、彼が客観的なものとして想定している確率論について、これのもつ主観性、つまり主観確率(尤度)以外の何らの証拠を提示できていないことによって、この者の主張は引き下げられるのである。つまり、我々は如何なる客観的な確証を得ることはできず、それというのは、客観性とはつまり我々に思考可能な実在論空間において全知であることだからである。

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*12)Brandon Carter [1974]: 'Large Number Coincidences and the Anthropic Principle in Cosmology' ()
*13)George F.R. Ellis, Jean-Philippe Uzan Causal Structure in cosmology (2014 arxiv)
*14)Luke A. Barnes The Fine-Tuning of the Universe for Intelligent Life(5. The Multiverse)(2012 arxiv)
*15)如何なる種族も自身の存在論的空間を逸脱することはできないため、概念的な拡張は自身の空間内で必ず収束する。したがって何も無限なものはない。