想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

5. 思辨における倫理、学問であることの妥当性

 前章において想定したように、学問は、まさに人類に一般的な知識を扱うことによって客観性を保っているが、これは経験を知識の全体としたときの客観性である。我々の外部に実在があり、これについて全体を俯瞰しえないことを了承すると、学問の主観性が顕在化する。これは人間種族の主観性であり、これを克服して、つまり実在論空間全体の知識を得て、客観性を得ることは我々に不可能である。これにより、我々の種族主観から少しでも離れて、客観性に近づいてゆこうとする探究心を燃やす者には、自らの主観性が、どのようにして主観性を得ているかについて検討することは有益である。
 種族主観の想定より、例えば偶然性の実態は次のように説明される。
 「偶然的である」とは、ある主観者に観測可能な範囲において、主観者に既知である知識が、対象とする事象の生起確率(尤度)に偏りを与えない場合に、この試行が、主観者に既知の素朴な確率分布に従うことである。
 人間種族にとって、観測可能な範囲とは、我々に調査可能な時空間スケールのことであり、また、素朴な確率分布とは、一様分布なりポアソン分布なりボルツマン分布なりの、何らかの意図や作用が働いていないと考えられるランダム性をもつ分布のことである。物理学的メカニズムを知っている物理系において、同条件で生起するそれぞれの事象、つまり、素粒子スピンの反転確率やダイスロールの出目などについて、無条件にこの確率分布を適用できると考えることは、主観者の経験による。ヒューム的破れに遭遇するまで、この適用に不具合は起こらないことから、何らか未知なこと、また経験不可能なことについて思考するとき、この偶然性を汎化させてしまうが、この主観確率(尤度)の適用が妥当であると無条件に言うことはできず、また、この種族主観による偶然性の賦与、均等確率の賦与こそが確率論的な思考であると考えることは誤りである。我々に既知である確率分布のいずれかの類型に当て嵌めることに必然性はない。
 今やあらゆる学問者は、種族主観下の知識また経験が、未来や、世界のどこか別の場所で生起する、観測可能なあらゆる現象についての予測に役立つことを、それが何の必然性ももっていないことを知っていながら、意図的にこれを視野の外に追いやって、知識や観察について学問的な一般化作業をおこなうことが要請される。我々の時空間スケールにおいて未だかつてヒューム的破れに遭遇したことはなく、この経験の外部の想定をまったく度外視した実用学問体系によって現在の繁栄があり、この栄華は以降人類が存続するかぎり有効であると考えられるためである。
 しかしながら、もし奇特の人があって、経験不可能であるが思考可能であるものについての思辨体系を一箇の学問として編みたいと申したとき、我々は次のような示唆を彼に施してやるのが親切だろう。
 経験不可能であるが思考可能である、思辨による議論は収束しない。そのため、思辨に関する第一哲学は倫理学である。このとき、経験の捨象として種族主観に固有である「論理(logic)」と対照して言えば、これは伝統的な哲学における倫理学(Ethics)と区別して「倫理(ethic)」と呼べる。それぞれの論理(logic)は固有の倫理(ethic)をもつが、それは際限なく続きかねない論証において、どこまでが有効であるかを定める指標をもたないことには、学問としての客観性、すなわち万人に実用的に益しうる知見として成立しないだろうからである。規約としての論理ならびに収束可能性を賦与する良心としての倫理を把持して、そうして初めて、「思辨」の接頭辞を冠する学問、「思辨○○学」は学問の一派として認められるようになるだろう。
 経験の外部の想定から、規約や論理によって真となる言明と、ただ信念によって真となる言明とは、全く対等になる。これは、採択すべき言明を検討するさいに、信念自身が主観的におこなう重みづけ=尤度を除いて、実際的に有効な指標が何もないことを示す。この還元性は、つまり、規約によって論理的に真であることが、実際に真であることを保証しないという、近代化に伴う理性の否定と同様のものである。
 メイヤスーが主著(*16)において洞察したところによれば、旧くは特定の宗教によってなされていた、神学的な統制を受けた独断論が風化してみると、ここには本質的な信仰主義(fidéiste)が生じる。形而上学的な絶対者または外部について言及するあらゆる言明は、それが外部について何ら定めて言うことができないために、少なからず独断論的な性質を帯びている。独断論的な言明は、それを信用する理性を共有する者たちの間で信じられる。ここで、神学的な統制、つまりある理性を共有した人々のもつ、その理性の源泉が崩れてみると、理性の共有単位は、それまでの学派やセクトから、それより小さな集団、果ては個人へと細分される。ある特定の宗教によらない理性をもつ人々は、まさにそのために理性を宗教化(enreligement)されている。つまり、それまで宗教単位でおこなっていた独断論的作業を個人や小さな集団の理性自身によっておこなっているのであり、この点で「宗教」とは独断論的作業を合理化(rationalisation)する作用のことである。
 ここから踏み込んで言えば、合理化の主体としての理性は、恣意化された経験に他ならない。いずれの学問も経験の捨象であり、自身に経験される事柄について、普遍的であると思われる知識を信じる。しかし外部について何も確定して述べることはできないため、学問的知識のみを信用することも、一種の信仰に他ならない。ここで共有されている信念、前時代的な用語で言うところの理性は「経験されうる事柄のみを信用する」というものであり、そうでないものをただ「経験されない」という理由で棄却すること、両極のいずれも独断論的な性質を具えている。経験を信じ、その捨象によって得られた知識が自身の生活を豊かにするとして、それが経験を信仰しなければならないことにはならない。この独断論的な言説に服従することを選択している時点で、学問者も一人の信仰者であり、学問とは現代において支配的な神学である、と言うことも充分可能である。宗教が独断論的な知識の合理化作用であるとすれば、その合理化によって産みだされた箴言を編んだ体系こそが神学だからである。
 我々は独断論を乗り越える一つの道具をもっている。それは尤度といって、ある思考過程について、そのもっともらしさを知識や信念において評価し、それを確信することなく、単なる可能性として、矛盾しうるものであったとしても何ら不誠実なことなく、複数種保持することができる。このとき、「可能性」とは、単にそれが知識また論理上、主観者の経験上に生起することを妨げる如何なる根拠もないことを指し、必ずしも数値化されることはない。我々が実在論的に客観性をもたないために、あらゆる確率分布にも従う必然性がないためである。

 

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*16)カンタン・メイヤスー 『有限性の後で 偶然性の必然性についての試論』(2016 人文書院 千葉雅也、大橋完太郎、星野太=訳)