想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

記述の枯渇としてのニヒリズム:ニーチェ的虚無,実証主義的虚無

実在論について。
まずい嵌まり方をしている自覚がある。

 

人間に蓄えられる知識は有限であり、それは学知として体系されている。端的に、経験可能である情報について最適化された(ている) 理論が科学である。 経験から最も真理らしい外界の構造を見出している。 これは経験を唯一の証拠とし、これによって論理を定め、 定められた論理によって判断し、有効な知識を蓄えている。

 

この知識、 科学知が有効であるのはヒューム的破れに遭遇するまでである。 すなわち、これまで表面化していなかった、 人間に可測である因果的構造の外部構造による作用の現前に遭遇す るまでのことである。しかしこの暫定性に、 ベイズ理論的な方法で生起確率を主観のものとして破棄して 真っ向から向き合うと、現れるのは虚無である。

 

すべての科学的な実証は、破れへの遭遇から無意となる。 人間に不可測である外部構造が作用することが明らかになれば、 すべての論理が妥当性を喪うためである。無意であるとすれば、 あらゆる記述は、そこに何も記述されないことと同値となる。 これが虚無、ニヒルである。

 

ヒルと言って真っ先に浮上するのはニーチェだろう。 彼にとってのニヒルは、 形而上学的な対象への記述の無意化によって起こり、 そして彼は転化によってこれを乗り越えた。言い換えれば、 このニヒル性を乗り越えることなく回避し、 これを滅ぼしてしまった。

形而上学的なテーマへのニヒルを前世紀においてニーチェは感じ、 今世紀の我々は実証主義的なテーマへのニヒルを感じるのである。 私にはこれを乗り越えることも、回避して滅ぼすことも、 何もアイデアが湧かない。ゆえに嵌まっている。

 

虚無/ニヒルという態度は、すなわち記述の枯渇を指す。これは自身の気力の萎化によるものではなく、記述する対象=前提と、記述する方法=論理とが噛みあわなくなることで起こる停止のこと。これを乗り越えるには、前提または論理のいずれかに改変を加える必要がある。これを拒むとしたら回避するよりないが、果たしてその方法があるのかどうか。

かねてより、実証主義(positivism)のアンチテーゼらしき否証主義(negativism)の進路を模索している。すべての論理は経験の捨象であり、これが扱う対象もまた経験である。これから逸脱することは、人間種族の経験から外れることに他ならない。論理/経験の主観性について攻撃して両者の対等性を認めさせるか、あるいは主観性によるバイアスを取り払ってゼロから種族客観の論理を構築するか、だろう。

破砕か離背か、いずれにせよ種族の客観性というのも全体と比較すればささいなものだ。あらゆる前提を立てないで、作用についてのみ記述する方がネガティヴィズムにとっては妥当かもしれない。

 

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今世紀の学術界隈で「新実在論」として扱われているのは、 形而上学的な対象を「独断論的なもの」として棄却したうえで、 経験の外部について記述する類いのものである。 題材はSFや現象論がもっぱらであるが、 既にこのテのニヒリズムを扱っているペーパーがあるかもしれない 。ディグろうと思う。