想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

外部≠全体:Distinguere Externum et Omne.

例えば帰納法を正当化justificateできると考えるときは主観性についての思考が欠け落ちている。似たような語に妥当化validateがあるが、これは全く別の概念である。個別の主観者は経験として所与であるデータに応じて、自己のスケールで妥当化を為し、また正当化を為すが、これをおこなう場について差異がある。

 

場というのは、可扱性に関して、主に2種類ある。「外部」と「全体」であり、前者の場を「ローカル」、後者の場を「グローバル」と区別する。

ここで妥当化とは固有の経験スケールにおいての正当化である。固有の経験スケールをもつ主観者を「(固有の)種族」とすれば、経験の捨象であるところの何らかの論理について種族はローカルに正当化することが可能であるが、グローバルに正当化することはできない。

 

ここで、以下のように区別する。

  • グローバル正当化=確証determinate
  • ローカル正当化=妥当化=実証positive

すると、固有の観測スケールにおいて仮説を現象と一致されるという点で、論理(定理・自然法則etc.)とは固有の種族におけるローカル解であることがわかる。種族とはまた経験の固有性のことである。

 

 

主観性を考慮に入れるとは、経験が観察者自身or種族に固有であることを認めることである。この点で、全体が可捉である超越者を想定することでこれを「真の」客観性とし、観察者自身の有限性=全体についての非可捉性から主観性を見出すこととは異なる。これはつまり、主観性→全体、全体→主観性の二通りの演繹方法があるということである。主観性の前提をもって思考する全体と、前提なしで思考する全体は合致しない。

 

主観性を前提して=種族自身の経験の固有性を想定して思考する全体は、大きく離散と連続のそれで2種類ある。離散的な全体とは、すなわち種族にとって存在論的に捉えられるものである。個々の存在物は明確な境界をもち、それが無数に列挙されて構成する、全集合がこれに当たる。一方、連続的な全体は種族自身の内破を想定する。すなわち、観測者としての自己の有限性を許容するのである。

主観性を考慮に入れない全体については、ドクサの跋扈を許している哲学大系を見れば明らかである。論理学をグローバル正当化可能な道具として見做し、独断的・専横的に振舞う。本来的に論理学も経験に依拠するのは明らかであるが、これを飛躍させて普遍性を与えていることが誤りである。

 

ここでの齟齬は、伝統的に外部と全体とを同一視していることによる。種族における外部は全体の部分集合に過ぎず、これはラプラスの悪魔のような思考実験による理想化によっても拭えない有限性=経験における解像度また知覚の減算性を孕む。したがって外部において普遍に観察されること≠グローバル正当化・確証してよいことである。外部のローカル性によって経験がローカルになることは明らかである。したがって外部の観察はローカル正当化=実証に留まるよりない。

ここで次のように言うこともできる。

  • 外部とはローカル全体である。
  • 全体とはグローバル全体である。