想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

eXtity に関する加速論的プロトタイプ vol.0:メモランダム

keyword: 加速論(acceleration theory),圏論(category theory),存在論(ontology),文脈(context)

 

  • なぜ圏論を用いるのか? - 存在と作用の区別をやめる.これにより,旧来の存在論から脱却し,存在論において加速を図る.
  • どんな利点があるのか? - 既存の存在論形式で扱いえない対象,複雑な文脈や因果を記述可能にする.
  • 最終的にどこへ向かう? - 人間を超えた視座を得る.旧来の存在論は,生活/生存に最適化されている.これについて游離を図り,純粋で強力な存在論モデルを得る.

 

《装備: 圏論的所作》

目下のところ,圏論の記法は初等的なもので事足りる.

   対象      作用      対象

      A          →          B

(ドメイン)              (コドメイン)

このとき,作用: →対象Aから対象Bへの射(morphism)と呼ぶ.対象(object)とは,当該スケイルにおいて「単一」と見做せるものである.

複数の対象について,あるスケイルにおいてまとめて扱う場合はこれを圏(category)とし,作用について函手(functor)と呼んで区別することもある。

     圏        作用       圏

      A          →          B

(ドメイン)              (コドメイン)

  •  対象や圏とは,存在論上での存在(existence)のことである.存在は記述者によって必ず名辞されるが,これは記述者において認識可能なものに限られている.一般的な存在論においては,存在を主的に,これらの相互作用を副次的なものと見る.
  • 圏論においては,函手や射を集めたものは定義から圏となる.これにより,存在と作用とを区別することのない存在論を編むことができるようになる.このために圏論を導入する.
  • 本論はマルチスケイル性の獲得を1つの本懐としているため,対象と圏,射と函手を意識的に混同することがある.単性と複性はスケイル上の差異でしかない.eXtityは無数のスケイルに跨がって存在し,本存在論はこれを扱う.

 

 

《定義:eXtity》
<en- 可能な>実体としての "entity" (語源はラテン語 ens のため言語的な解釈としては不適)
<ex- 外部の>複数の文脈上の実体すべての統合体、交差としての "eXtity"

 

我々は無秩序を生き抜く最初の世代となる.
君達は無秩序を生き抜く最初の世代となる.

 秩序とは、あらゆる形成の規範である。

人格の形成に関する規範(倫理・道徳・信念)を権威的に確定させる諸因子(国家・宗教・地域的コミュニティ)の瓦解は、人々を無秩序へ抛りだす。現代に精神的成長期を経る我々は、この無秩序を生き抜く最初の世代となる。

 

 

20世紀: 複数の宗教の解体,およそ半世紀で科学への鞍替えが完了.
21世紀: 国家の解体の時代.統制は自治の前に解消される.

我々は今世紀中に以下を経験する。

  • 民族というアイデンティティはもはや誰にも重要視されない。(世界市民化)
  • 経済基盤を、国家に頼らずに個人において確立する。(税制の破綻)
  • 国境往来に関する牆壁の実効性が仮想レイヤによって衰える。(電波遮断を除く無境界)
  • 仮想レイヤにおいて"犯罪"は消滅し、すべてをリスク要因として処理される。(司法の自治)

 

 《時代区分》

"近代" "現代"という区分は依然として有効であり、その先を見据える "加速" が区分の一つとして追加される。

近代 ← 現代 → 加速
                             → 加速
                             → 加速
              (多分岐性)

時代感覚は相対論的になる。"現代"的ではないが、しかし現代の状態について実効的に深く関与しており、文脈上で隔絶しているとは言いがたい一群について"近代"的と呼ぶ。後パラダイム(post-paradigm)へ現代として移行するさいに前パラダイム(pre-paradigm)が近代となるため、流動は図式の向きになる。現代(status quo)とは、リアルタイム上の状態を形容する一群である。これに対し、パラダイム上で支配的ではないものの、現代の技術水準・文脈水準からして進歩的であるもの、次代的である一群について"加速(status accelerationi)"と呼ぶ。


人文学者は"確定した"現代に留まりたがるが、加速論者はその確定性が虛構と知っている。

 

已むことのないハードウェアの驚異的な進歩と、世の中の動勢が爆発的に多極化により、安易に"Accelerated-"の接頭辞をつけられるようになる。

 

 """ ---------------------------------------------------------------------------------------------------------------

加速実在論(Accelerated Realism):
仮装レイヤ(拡張現実ARや仮想現実VR)の時空間解像度が上がると、物理レイヤとの区別が感覚的に困難になる。これは本来的な外界=リアリティについて、感覚による経験の抽出から映し出される、人間が"心"や"意識"に投影していた、ナイーヴな世界観に関するイドラ的な編集・改竄と同様の変換射である、とする。

リアリティ(実在) → 五感的な世界 → 仮想と物理の混合した世界
(このとき,→:抽象射(abstractional morphism))

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------- """

 

加速:あらゆる分野において文明が今後直面するカタストロフについて、これを引き起こす機構としての資本主義=速度を操縦可能(navigational)とする実験的発見過程(experimental process of discovery)のこと。可能性によって支持される空間における作用であり、マルクスやランドを前駆とする。ランドによれば、資本主義の速度のみがシンギュラリティ(技術的特異点)へ至るグローバルな移行を生成しうる。

原型:

#ACCELERATE MANIFESTO for an Accelerationist Politics (A. Williams & N. Srnicek, 2013) #ACCELERATE MANIFESTO for an Accelerationist Politics

Teleoplexy: Notes on Acceleration (N. Land, 2014) https://track5.mixtape.moe/zphjim.pdf

 

《加速における2つの側面》

テロス的加速……目的論的アプローチにより、より進んだ想像可能性を生む。

[惰性]   A   →   ;;靄

[加速]    A    →   B

■加速とは、プロトタイピングの一種である。(不可避性)

「この先に必ず起こりうる」現代を描く。この描画・回覧の効果により、当該プロトタイプに見出される現代に到達することはなくなるかもしれない。が、それはつまり悲劇的な災厄を「回避」したことに等しい。

■加速とは、破滅の予見としての危機管理である。(反動性)

速度とは現在に与えられているものであり、加速とは数歩先の現在に所与である速度を変性させるものである。際限なき速度の増強は、飽和的破滅から解体的破滅へと性質を変化させる。両者の違いは再建性の有無である。このとき "再建性" とは、進化論的に優位の個体を、既存の残骸から構築することに他ならない。

 

ポテンシャル的加速……自己革新的アプローチにより、潜在能力の増強を図る。

[惰性]   A   →   B

[加速]   A       B

                    ↘ →    C

■加速とは、鳥瞰的な視座構築の一種である。(演繹性)

現在見えていないものが、加速によって発見されうるようになる。これは一般的な視座変換とは異なり、単に姿勢を変えたり、新たな指標を導入することによって得られない。全く新たに視座を構築するのである。刷新されるのは視座ばかりでなく、観察の対象領域にも起こりうる。

■加速とは、徹底した悲観主義である。(進歩性)

絶え間ない自己変革によってしか、理想とする自己像には到達しえない。また、自己変革を已めた途端に、その者は破滅を覚悟しなければならない。これを強迫とも悲観とも感じない者だけが、真に加速しうる。

 

☆結局のところ、《人間の知能に扱いうる限界を定めること=種族的惰性》によってこれまで放置していたパラメータのすべて、あるいはその幾つかを可捉とすることでしか、加速は成立しえない。この知覚的底上げに関する加速サイクルは、以下のものが典型である。

①知覚的底上げ → ②対象および周縁の解析 → ③同解釈 → ④新奇パラメータの発見 → ①...... 

惰性とは、しかし不確定性や深淵性や神秘性といった浮游の生成でもある。これを減速性、すなわち負方向の加速として組み込むことを、加速論は「操縦」という語に含ませている。(しかし、加速と減速を交互に繰り返すような迂闊な操縦は素人のすることである。)

 

eXtityの加速論的導入》

一般に、文脈(context)は、非拡張の人間に理解可能であるように簡単化/制限された流動である。これは静的な構造をもつ。一般形は以下のようなentityモデルである。

entityentityentity

                 |

       entity             :平面

(ここで,─:作用、関係、相関etc.)

 「単一の」文脈で事象/現象が完結して進行することはありえない。上のような文脈モデルでは、複数の文脈の交差点を設けることで、この複雑性を記述する。

しかしながら、実際の対象(object)は複層的であり、必ずしも時間軸に沿った関連をもたず、吸着/脱離などあらゆる境界が曖昧である。したがって、加速によりこれらのパラメータを可捉とすると、我々にはentityを抛棄することを求められる。もはやeXtityは超曲面上にあるため、以下のモデルは正確でない。

eXtityeXtityeXtity

                 ↑

    eXtity              :超曲面

(ここで,→:関係射(relational morphism)

 entity存在論的に単一の対象(明確な境界をもち、まさに境界をもつことによって存在論的に存在するもの)を示したのに対して、eXtityとは流動そのものである。これは、観測するスケイルによって、entityと等しいときもあれば、entityどうしの関係=(極小の)文脈そのものであったりする。こうしたeXtity系の相対論性/マルチスケイル性は、対象(object)と作用(action)を区別しないこと、対象=作用=圏(category)として包摂することで記述可能となる。

一般に、①知覚的底上げ②解析③解釈④新奇パラメータ発見の一連のサイクルを回し続ける加速函手(accelerational functor)により、圏: entityは圏: eXtityへと複雑化/高度化される。

entityeXtity

(ドメイン)         (コドメイン)

(ここで,→:加速函手(accelerational functor))

 ここで、圏:entity中の対象:一意性は、加速射(accelerational morphism)により次のように変性する。entityモデルは静的な構造をもつ。したがってentity: Aの自己同一性(A=A)や複数のentity: A, Bにおける関係(A─B)は、明示的な何らかの変形作用がないかぎり一意である。そして、投射されたeXtityモデルは動的な構造をもつ。eXtityとは流動であり、かつ、あらゆる対象は、確定的に定義されることがなく、複数の扱い者間で意味論的な断裂を内包する。このため、普遍な一意性はありえず、ある瞬間を微視的に切り出すときにのみ一意である。(ここで、加速によって、この一体のeXtityについて「連続的な一意性をもつ」と見做すことは充分に可能である)

entity存在論的に単一の対象(テクスト、語、概念etc.)を指したのに対して、eXtityはこれに加え、対象どうしの関係を対象にとりうるのであり、これはつまり、もはや一義的な=唯一の存在論を想定を已めることである。複数の存在論が交錯する領域において、対象(テクスト、語、概念etc.)の境界は確定しない。この非確定性のため、もはや我々は対象を圏として扱うよりない。それぞれの対象は、固有の存在論において固有のエネルギー値をとり、単一の存在論の適用(観測=疎通)によって状態は確定される。この簡単化、つまり複数の存在論から単一の存在論への収束こそ、(加速函手の)逆函手(inverse)である。これを減速函手(decelerational functor)と呼ぶこともできる。

(さらに、存在論どうしの境界の非確定性に言及すると.......)

 

存在論の超構造化(megastructurizing)》>> megastructure: derived from nivin's "BLAME!"

entityモデルでは、存在とはすなわち名辞されうるものである。あらゆる事象は存在どうしの相互干渉として記述される。生物/無生物の区分なく、存在は主体として振る舞い、これの運動にのみ注視していれば、すべての事象について理解できる。なぜなら、記述者に認識できるものしか、存在論上では扱えないためである。知覚可能または思考可能であるものについて、記述者は扱いうる。通常の存在論=entityモデルでは、記述者に「実体がある」もののみが扱われる。この点で、全体について有限であり、場合によって可知である(閉鎖系)。

しかしながらentityモデルは、

  • 例えば量子論的な記述において、光子(存在)の運動を主として、電磁気的相互作用(作用)を副次のものと見做すと、しばしば解釈に失敗する。
  • 例えば "無" について記述することが不可能である。まず主体を設定し、それに関して何らかの性質が欠如していることを記述するのみである。
  • 存在に賦与される性質は、記述者の知覚スケイルや思考スケイルに強く依存する。対象は、名辞によって標識されるだけに留まらず、記述者に認識可能な側面のみを本質としてもつことになる。この存在論的な本質が、実在論的な本質と一致することはない。

などを、本来的な制限として有する。entityからeXtityへ加速を図るとき、

①それぞれの文脈にて可捉である総てのパラメータを扱うこと

②思考スケイルを計算機の補助により引き上げること

を徹底することは勿論だが、その目的が、対象とする全体系の解釈に加えて、独自の文脈の構造=構築的創造をも射程に入れていることに留意する。より加速した受動性=客観性の獲得を目指す圏として前者をとくに "(ラン)" と呼び、より加速した能動性=主観性の獲得を目指す圏として後者をとくに "(イン)" と呼んで区別する。人間種族に関して、については肉体的な知覚(五感)に加えて拡張的な知覚(工学センサ)を知覚のデフォルトと見做して可捉領域の一般化をおこなって認識論を加速し、については知覚を抛棄することで出立して言語記述の多能性を加速する。

本論の目的の1つに、eXtityの導入による囙および覽の実装がある。しかし、先に確認しておく事項がある。記述者の制限性である。

 

《種族(tribus)》>> tribus: derived from Bacon's "NOVUM ORGANUM"

近代および現代科学では積極的な生気論の解体がおこなわれ、経験そのものが思考の枠組みから単離された。これは、知覚され、検証される情報は他の如何なる情報よりも正しくかつ確定的であり、反して知覚・検証されない情報を信じることは妥当ではない、というドグマによるものである。これはポパーに言われる「認識主体なき認識」の志向であり、科学者・経験主義者は観測者自身の存在しない、究極的な客観性を賦与された、ありのままの世界を描くことを目指してきたように思われる。ここで科学とは、現代にて支配的な宗教である。生気論的な言説に対する経験の優位性は、ただ科学のもつ教義によって確保されるためである。

記述者の制限性は、もっぱら知覚および思考の有限性による。過渡的なパラダイムに左右されないように言えば、これは種族性として以下のように定義される。

種族:固有の知覚をもち、固有の存在論を編む対象または圏

知覚(perception)とは、外界より記述者へ情報を流入する接触面および伝達形態を指す。わざわざ断っておくことでもないが、種族とは人間のみを指す語でも、特定の人間を指す語でもない。ある種族Aの営為(人間で言えば思考や行為など)について、当該種族が他でもないAであるために本来的に被る制限性は知覚に由来する。このとき伝達形態とは、営為の生成系のすべてを指し、人間で言えばこれは脳および運動器官を含む。運動器官は能動的に動作するが、外界から得られた何らかの情報の真偽について検証するさいの試行も存在論を構造するときに関与するためである。存在論(ontology)とは、種族=記述者が存在する系についての宣言的/非宣言的知識であり、知覚より流入した情報や営為の抽象によって得られる存在=構成素(entity,eXtity)の圏を指す。種族はまた、対象(単体)であることも圏(複体)であることも可能であるが、これはスケイルに依存するためである。対象Oと対象P間に差異が見られるとき、この差異を切り捨てて圏Cに両者を含むことも可能であり、圏Dへ排他的に片方を含めてもよい。卑近な例で言えば、ヒトをO、イルカをPとしたとき、動物の圏Cに両者を内包することができる。

このとき、知覚を「経験」と、存在論を「認識」と、それぞれ組み合わせを自由に置き換えても大意は変わらないが、パラダイムに応じて後の二語が限定的な意味をもつために、ここでは避けた。経験(experience)とは、現代においては、感覚知覚された情報の総和、またこれの捨象であるコモンセンスや諸学問知のことである。ここで、記述者は単体=対象であることが許されない。単体であれば、妄想体験と「正常な」知覚体験とが区別されないためである。「正常な」知覚体験とは、記述者の圏において支配的に報告されるそれである。認識(Erkenntnistheorie)とは、この平滑化された経験についての処遇を定める行為を指す。記述者=種族にとっては、素朴(naïve)な解釈も、認識論を持ち出す(多段に)メタ的な解釈も、どちらも自然*である。

*ここで「自然(natural)」とは、圏論の文脈に沿う。当該の性質について本来的に具えていることを指す。

 もし記述者が自身の保有する情報について不確定性に制限されているとすれば、それはすべて種族性に由来する。この状態を不自由に感じれば、これを粉砕するか、あるいは影響を限りなく小さく抑えればよい。そこで、加速である。進歩的な加速論者は、種族性の解体へ2つの手段をもつ。それが囙および覽である。

 

《單眼と散裂》

       not implemented...

 

Idola tribus sunt fundata in ipsa natura humana, atque in ipsa tribu seu gente hominum. Falso enim asseritur, sensum humanum esse mensuram rerum; quin contra, omnes perceptiones, tam sensus quam mentis, sunt ex analogia hominus, non ex analogia universi. Estque intellectus humanus instar speculi inaequalis ad radios rerum, qui suam naturam naturae rerum immiscet, eamque distorquet et inficit.  --NOVUM ORGANUM 1.41