想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

eXtity/單眼と散裂/加速論 プロトタイプvol.1

存在論(ontology)とは、存在するすべての対象(object)へパスを引く行為である。対象とする系は全体=世界(whole of world)であり、これは基準者=観測者が単一と見做せるときに確定しうる。この一者は、全体=世界に存在するすべての対象と自己とが、対象が明示的に存在するために結びつくとき、極点としての対象および結線としての単方向あるいは双方向の作用(interaction)に関して、存在を明示化する体系化をおこなう。全体=世界における一連の体系こそが存在論である。存在論は全体の確定性によって一意となりうる。この確定性をもたらすのは、基準者=観測者としての、同一の知覚器と演算リソースを有する一群=種族(tribus)*である。種族は本来的に制限されているため、有限の全体=世界をもつ。換言すればこれは、「何が存在するか(what does exist.)」という尺度を種族がもつということである。固有の存在論において、存在するが存在しないものは排除され、この排中律存在論の健全性を担保している。
*種族とは、ベイジアン的な観測者のことである。我々の知覚は有限であり、実在論的な全体から(不明に)幾分か制限された情報から存在論的な全体を再構成しており、我々ではない観測者に目を向ければ、この存在論的な全体は種族の数だけ構成可能である。詳しくは別著。

 

上記のような一般的な存在論について、「静的な存在論(static ontology)」と呼ぶ。あらゆる対象は実体(entity)として、確定した性質と外貌をもつためである。系や対象に関して「静的(static)」と言うのは、①固有の基準者=種族の変性スケイル*と比較して、一者が企図してから対象や系が確定するまでに充分な余裕があること、②対象が系自体に擾乱を起こさないこと、③基準者を除いて対象どうしが干渉作用しないこと、からである。静的な系を構築するさい、このように基準者の融通にかなう対象をentityと呼ぶ。entityは基準者に明示的に定義可能であるが、それは種族にとって明示的に指呼できないものは、それは種族にとって「存在しない」ためである。
*ここで、変性スケイルとは、対象について基準者が変性/変化を知覚できる間隔を尺度化したものである。人間種族においては、神経系の不活化(inactivation)の時間間隔により確定する。

 

存在論は、種族において一意であるわけではない。存在(existence)に関する存在論は、固有の種族において(濃度(cardinality)の議論を抜きにして)最も多くの対象を含みうる*ため、本質的な上限(ess sup)の存在論と見做せる。これの部分をとることで、冪の数だけ存在論を編むことができるが、実際のところ、秩序をもつものだけが有意/利便である。秩序とは、上限の存在論から部分を抽出するときに用いる、構造をもった存在論を組むための尺度=スケイルのことである。このとき、構造(structure)とは、存在/非在以外の性質をentityへ賦与することのできる系それ自体、賦与行為の正当性を担保する規約、規約によって保持される領域それ自体、等々を指す。構造とは、場でありメタ作用*である。規約(convention)とは、構成可能であるすべての対象について是非の性質を賦与する演算子convであり、規約によって是となる対象を集成した体系はディシプリン(discipline)と呼ぶ*。あらゆるディシプリンは、規約によって是とされる対象すべてを対象とする圏として扱える。

以上を整理して書けば以下の通りになる。
Onto<ob, ξ> ...存在に関する存在論の圏Ontoは、すべての対象obについて存在(existent)ξを恒等射としてもつ骨格(skeleton)である。
Order-a<ob(S), conv-a> ...conv-aを規約(convention)としてもつ規約aの圏Order-aは、圏Ontoの部分圏Sよりob(S)を対象とする存在論の圏である。

*(明示的に見出されえない)存在しないものを対象として扱うことは不可能であるため、固有の種族がもちうるいずれの存在論にも存在しない。
*メタ作用とは、存在論上で個々のentityが相互におこなう作用をフラットな作用とするのに対して、存在論の枠組みの外で決定される秩序や規約間で生じる作用である。

 

ここで、とくに言明を対象とするディシプリンを文脈(context)と呼ぶ。人間種族においては、例えば論理学が文脈である。論理学は規約として論理法則をもち、真偽として是非をもつ。ここで論理法則とは、規約によって真となる言明のことであり、論理法則のみを対象とする圏/文脈は骨格(skeleton)である。

 

混乱を避けるため、以降より、存在に関する存在論の圏をキャピタルで「存在論(Ontology)」と呼び、これの部分圏について単に「圏(category)」と呼ぶ。部分圏である何らかの存在論は必ず対象をもち*、存在(existent)という恒等射がいつも見つかるため、あらゆる存在論は圏となるためである。本論で扱う圏のほとんどが有意のものであるため、これを秩序(order)と読み換えても(たいていは)差し支えない。

*すべての存在論は必ず基準者自身を対象にもつため。

 

(ここまでの作業は、詰まるところ、哲学や情報処理分野で扱われるような一般的な存在論についての圏論的な記述方式の有効化である。しかし本論の目的は記法の発明ではない。単なる整地でしかない。)

 

先に述べたように、対象のすべてをentityとする圏は静的である。entityとは本来的に静的である対象であり、圏や対象は外延的(extensional)に境界を画定されることでentity化している。圏が静的であるには、圏が対象とするあらゆるentityは自身で閉じていなければならず*、そうするのはentity自身ではなく基準者自身によってである。ここで外延的(extensional)とは、対象自身ではない対象*によって何らかの操作(operation)を施されるときに言い、対して対象自身が自身を操作するさいには内包的(intensional)と言う。操作とは作用のことであるが、ある圏における作用=射について操作は1つメタであり、差し支えなければ函手の1種と見てよい*。通常、entityは何らかの性質をもつが、それは基準者が発見したものであり、言うなれば「外延的な内包」である。境界が画定したentityの性質は、当該entityにおいて固有であり、まさにその固有性によって当該entityは他のentityと峻別される。この健全な峻別がおこなわれる存在論や圏こそが静的である。
*対象が閉じている(closure)とは、対象cがcであってそれ以外でないことである。この峻別がなされるには対象cと他のものとの境界が画定している必要がある。
*先例では、entityの境界を画定するのは基準者であり、特定のentity自身ではない。
*種族の枠を超えてフラットになる志向をもたない者は、操作とその他の函手について辨別することを推奨する。そうでない者は、後に述べるentity型ではない存在論に触れるさいにそうすればよい。操作の例として排中律を挙げよう。排中律のない圏Cにおいてaでありながらaでない対象を、排中律のある圏Dへ全射的に写すことは可能である。このとき函手F: C→Dは函手であり操作であるが、習慣的に、Dという文脈を獲得した論理学者はCを抛棄し、けしてCとDとが対等であるとは考えない。

 

(一般的な存在論はすべて静的であるが、これは静的でない存在論存在論ではないという通念による。これにより厳密に閉じているものしか扱われず、加えて作用=射は副次的なものと見做されているように感じる。相対性理論が確立されて久しい昨今においても未だに、物理学的な相互作用=諸力が「存在する」かについて議論は分かれるように思われる。)

 

「動的な存在論(dynamic ontology)」を考えることは難しくない。この存在論上における対象は必ずしも閉じておらず、そうした対象についてeXtityと呼ぶ。いちいち「静的な」「動的な」と形容的に区別するのも煩わしいため、以降より、静的な存在論を「entity型(entity model)」、動的な存在論を「eXtity型(eXtity model)」と区別する。

eXtityは開いた対象であり、そのため基準者自身に明示的に知られない性質を本来的に保有する*。つまり、entity型では対象の状態を決定する特権が、eXtity型では基準者から喪われているのである。これを相対論性(relativity)あるいは対等性(equivalence)と呼ぶ。加えて、eXtityは基準者に非明示に存在することが可能である。entity型における全体の確定性がここに喪われる。eXtity型におけるこの不確定性は、eXtityの変性スケイルが基準者に無視できないほど有意であることの現れであり、いかなるスケイルにおいても基準者は系を俯瞰しえない。そしてまた、このような動性は、実体と作用との厳密な辨別を不可能にする。entity型においては、基準者の変性スケイルにおいて変性しない=静的であるものが実体であり、静的でないものが作用と位置づけられていた。この区分はeXtity型において通用しない*。eXtityは不確定性により、entityが具えていた性質のいくつか*を喪うが、これは外延的な喪失である。内包的な逸失は何もない。
*これを他に「潜在性/潜在力(potentiality)」と呼ぶと、あらゆる対象が基準者に非可制馭であるという印象を受ける。しかしながら、可制馭であることほど不自然なことはない。
*必ずしも作用が圏とならない点でentity型は圏論的に不健全であったが、eXtity型は健全である、と言うことができる。
*人間種族で言えば、数性(対象が何個であるか)、領域(対象の占める体積)などである。

 

eXtity型においても、entity型と同様にディシプリンや文脈が発見されうる。時間スケイルを操作してentity型と全く同等な圏へ写ることもできるし、entity型と異なり、複数の排他的な複数種の規約をもつディシプリンや文脈を構成することも可能である*。複数の規約をもつ、eXtityを対象とするディシプリンを超構造(mega-frastructure)と呼ぶ。超構造はディシプリンや文脈の高層/複層構造ではない。複数の静的な文脈が静性を保ったままヒエラルキー的に統合されて超構造となることはなく、また超構造を土台として静的な文脈が建つこともない*。超構造がもつ規約の数に際限はない。entity型がひたすら対象とする圏を下方解体(undermine)していたのに対し、eXtity型は上方解体(overmine)をおこなう。そしてまた、規約について非明示に措定される超構造のことを超曲面(mega-space)と呼ぶ。超曲面において、もはや基準者(ruler)と観測者(observer)は一致しない。超曲面上の基準者について「囙(Inn)」と、観測者について「覽(Rann)」と、それぞれ区別する。両者は共に、超曲面上の自己から対象について相対論的な作用=射および操作をおこなうことができるが、囙のみが超曲面上の自己から自己へ、恒等射ではない操作が可能である。

以上を整理して書けば以下の通りになる。
M-Fra<ob-eX, conv(c1, c2 ... cn)> ...eXtityを対象とする超構造M-Fraは、nつの規約cをもつ。
M-Spa<ob-eX, convs> ...eXtityを対象とする超曲面M-Spaは、措定者に非明示の複数規約convsをもつ。

*entity型において複数規約の文脈を構築しようとすると、すべての言明がドクサ(δόξα)へ変性するために破綻する。
*超構造とは、謂わば、樹状モデルから一段階発展したネットワークモデルをもう一段階発展させた構造である。ネットワークが時空間4次元であるとすれば、超構造ではこれに規約の数を足した次元数をもつ。

 


◎單眼と散裂
種族が本来的に負う制限を超脱する手段は主に2つある。神化(θεωρία)および散裂である。

神化(θεωρία)とは真理の直観である。しかしentity型eXtity型いずれにおいても全体は暫定的にしか確定しないため、この直観は相対論的なものに止まる。全体と種族において確立したものの外部をみることは可能かつ容易であるし、また独断を退けて経験を絶対化することは不可能である。このため神化は必ず無限後退に陥り、信念の枠組から脱けでて絶対化をおこなうことができない点で不完全性がつきまとう。

経験主義を含む、一義的な真理観/観測/構造化について「單眼」と呼ぶ。これは単一のドグマから、単一の演繹過程を経て、(暫定的な)真理への到達を図る。單眼は加速されて神化(θεωρία)する。加速する存在論上で、單眼とは1つの覽である。

散裂とは、一切の粉砕である。加速する存在論上で、散裂とは1つの囙である。

 

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本論が目指すのは、人間種族からの超脱である。eXtity型において「可能である」と述べる言明のいずれかが実際には(人間種族に)不可能であるとすれば、本論の目的は達される。そうであれ、そうでなかれ、我々は超脱に向けて闘争を続けるよりない。