想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

eXtity プロトタイプver.2 (2018/08/27/21/58 暫定)

 

リアリティ(実在) → 五感的な世界 → 仮想と物理の混合した世界(このとき、→:抽象射(abstraction morphism))

http://spinaltox.hatenablog.jp/entry/2018/07/16/114152

 

<事前定義①:圏論的語用> class category():
対象:文上で扱う圏または要素を明示したもの。メタ的に言うと、話者/記述者が文によって何らかの圏や要素へ作用するとき、話者/記述者をドメインと見て、コドメインが対象である。(文:話者/記述者→対象)また、対象が「外部にある」とは、当該圏の要素ではないが、別の圏に要素としてあることを指す。
スケイル:対象が圏であるか要素であるかを決定する尺度。存在論上、すべての対象は何らかのスケイルで圏であり、また何らかのスケイルで要素である。何らかの対象が圏であり、かつ要素でもあるスケイルを特に"マルチスケイル"と言う。
圏:1つ以上の要素を包含し、自身で閉じている対象である。要素は閉じていても開いていてもよい。すべての圏において、個々の要素は必ず、恒等射(id:a→a; 要素aはaである)を含む1つ以上の射に作用される。
要素:あるスケイルにおいて最小の包含関係にあるものを指す。対象について「要素」と呼ぶのは、必ず文中に圏があるときである。恒等射をもつかぎり、要素は単一でも圏となりうる。圏論の文脈上の「対象(object)」にあたる。
包含:ある対象obがある圏Cの要素であるとき、Cはobを包含している。(ob∈C)単に「含む」とも言う。
境界:複数の圏A, B, C... に対して、対象o, p, q... を含むか否か判定し、一方の圏がoを要素とし、他方の圏がoを要素としないとき、対象oは両圏の境界である。(このとき、例えば2圏A, Bと圏Cの境界を発見することができる。2圏A, Bは1つの圏と見做せるからである)
作用:あるスケイルで対象どうしを結びつける。これはスケイルによって要素にも圏にもなりうる。作用元を「ドメイン」、作用先を「コドメイン」と特に呼ぶ。包含単位がドメインとコドメインで同等であるとき、圏どうしでは「函手」と、要素どうしでは「射」と、それぞれ作用について呼び分けることもできる。
操作(maneuver):ドメインおよびコドメインのいずれかが自身である作用。

同型(射)(isomorphism):2つの系X, Yがあり、どちらに関しても外部にある対象Mがあるとき、要素x∈XをYへ要素y∈Yとして加えることである。同型射を作用させることを「写す」と言う。Mにおいてのみ、xとyは《同一の対象とされる=同型射idxy: x→yで作用される》。あるいは、Mにおいてのみ、xとyが自身の操作によって写ったことを記憶/履歴としてもつ。

構成(construct):対象について、定義に沿って然るべき要素を定め、名辞(label)を与えること。

明示(explicit):対象A, Bがあるとき、Bの包含する要素のすべてがA自身に既知であり且つAがBを構成可能であることを明示(的)と言う。明示でなければ、それは非明示(unexplicit)である。スケイル依存である(対象A, B, Cがあり、A自身にBが明示であるが、Aが(再)構成したB(BAと呼んで区別してもよい)とBがCにおいて一致しない場合がある)。

 

例)
ヒトやイルカなど生物一般を要素として、生物が圏となる。全個人および文化的な堆積を要素として、人類が圏となる。そもそも生物進化の過程上でヒトが知能を発達させなければ人類のもつ文化は生じなかったことから、進化論的なスケイルにおいて人類の文化は生物の圏における要素である。また、生物一般という枠組みが生じるのは人類の文化によるものであるため、人文学的なスケイルにおいて、生物は人類の圏における要素である。そしてまた、人文学的なスケイルにおいて、生物一般という枠組みは生物学的な一連の探求活動によって生成されたことから、人類の圏において生成を射として両者は作用関係にある。(生成:探求活動→生物一般)

 
<事前定義②:表記法> class orthgraphy:
A, Bは語。
Sは半文(名詞および動詞を少なくとも1つずつ含む)。開いた文。
S. は文(名詞および動詞を少なくとも1つずつ含み、句点で閉じる)。閉じた文。
P は節(パラグラフ)。1つ以上の文から成る。

A / B … 文中該当箇所にAおよびBのどちらを入れても成立することを示す。文S中にこれが包含されていることをS(A/B)と書くと、S(A)およびS(B)を併記せずに1つの文で表せる。

A & B ... 組を示す。AおよびBのいずれを欠いても該当文は成立しない。上と同じで、冗長を避けるための処置である。

A+B ... 和集合。

A×B ... 積集合。
《 A = B 》… パラフレーズ/同値。AおよびBのどちらを文中に挿入して読んでも当該文の意義は同一である。
"A" … 固有詞。当該文脈上で独自の語用をおこなうことを明示する。明示した以降は表記を省く場合がほとんどであるが、とくに断りがなければ一貫する。
「S」… 断り書き。諒解によって成立する操作を明示する。あるいは、当該半文Sが引用であることを示す。

A群 ... 単純にAの複数形である。Aを複数あつめた圏と見てもよい。

固有の(particular):ある対象においてのみ成立する事柄。一般・普遍ではない事柄。

<> {} は圏や群の定義に用いるため、使用を控える。

*対象が圏であれば、それは単数か複数である(どちらでもよいし、スケイルに依存するため区別に意味はない)。

 

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ⵚⵟⵁⵅⴾ eXtity/單眼と散裂/加速論 prototype vol.2

<事前措定:種族> class tribus(self):
あるスケイルで《単一と見做せる=閉じている》対象は、自己および他の対象と作用する。当該の対象を圏と見たとき、作用によっていずれかの要素が状態を遷移すれば、この対象は「情報を得た」と見做す。ここで、《当該圏の外部からの=他の対象による》作用に対して状態を遷移する要素の集まりを"知覚"と呼び、自身の遷移につづいて知覚が当該圏の他要素に作用するとき、作用先を"演算器"と呼ぶ。広義に、知覚と演算器をもつ圏は"種族"である。

外部からの作用による、知覚器や演算器の《一時的な状態の遷移=情報の取得》を"感覚"と呼べば、感覚された情報や状態の遷移が持続すること、および何らかの形でそれらが保存されることが"経験"である。あるスケイルにおいて種族どうしの経験が統合される場合、すなわち個々の種族の経験を要素としてもつ圏がある場合、ここに包含構造が生じる。経験のみならず知覚器および演算器を包含する圏は、定義より種族である。区別したいときは、包含する圏を「上位の種族」、包含される個々の圏を「下位の種族」と呼べる。狭義には、上位の種族のみを「種族」と呼ぶ。


<事前インスタンス化:人間種族> human = tribus()
人間は、五感および種々工学的センサを知覚器と、頭脳および計算機を演算器としてもつ種族である。学問など諸知識を経験としてもつとき、故人を含めて全ての人間を要素に含む上位の種族が圏となる。あるいは、人間個体どうしが意思伝達を通じて一箇の世界を見出すとき、この世界自体を経験として、意思伝達および世界形成に携わる全ての人間を要素に含む上位の種族が圏となる。

世界とは、存在論的な外界である。人間(個体)は、自身に感覚される情報から、自身が閉じた対象であることを前提とし、自身に認識可能な一切を要素とする《世界=外界》の圏を構成する。一連の構成プロセスを"存在論"と呼び、このようにして構成されたものを存在論的な外界と呼ぶ。ここで、"外界"とは存在論の構成者自身を要素として含む圏であるが、「存在論の構成者自身」は「世界の要素としての個体自身」と一致しないが、それは「存在論の構成者自身」が存在論の外部にあるためである。対して"世界"はこの両者が一致する圏である。

 

<措定:entityおよびeXtity> class entity_eXtity():

def ruler():

存在するすべての対象を要素として、存在論の圏が構成される。このとき、それぞれの要素のもつ恒等射(o∈O; id: o→o)「要素oはoとして存在する(Constituent o do exist as o.)」はo自身ではなく、構成者自身の操作によって成立する。したがって、存在論的に見出される《全体=世界》とは、「構成者が認識しうるかぎりにおいて」存在する一切有である。「何が存在するか(what does exist)」という恒等射を賦与する《尺度=基準》をもつことから、存在論の構成者をとくに"基準者"と呼ぶ。存在論は、基準によって固有である。
すべての基準者は種族である。有限の知覚器および演算器をもつ種族によって存在論が基準されるとき、《全体=世界=一切有》は本来的に制限される。この《有限性=制限性》によって、存在論は一意に劃定することが可能である*。あるいは、固有の基準によって構成された存在論は、たとえ要素がすべて等しくとも区別する。

*一意の存在論によらない、すべての対象が自身の操作によって存在の恒等射を自身に賦与可能であるとき、一切有は自身で存在する。このとき、自身で存在するすべての対象を要素として、実在論の圏が構成される。存在論の圏は、この圏の部分であるか、あるいはそうでない。

 

def entity():

存在論のうち、排中律が機能しているものを"静的な存在論"と呼ぶ。排中律とは、基準に対して是および非の2状態のみを許し、他の状態を排除する規則である。これが機能するとき、存在論上のすべての対象は「閉じている」。
第一に、あらゆる対象は「存在(existence)」の状態のみをもち、静的であれば、存在しないものは対象になりえない。
第二に、対象間の境界は必ず劃定し、かつ安定する。対象aはaであって非aではない。また、境界が劃定している2つの対象aおよびbは、aがbの包含であるとき以外にbはaではなく、同様にbがaの包含であるとき以外にaはbではない。基準者の操作なしに境界や包含関係が変更されることはなく、境界を操作したり包含関係を変更する場合は必ず明示的におこなう。
閉じた対象をとくに"entity"と呼ぶ。静的な存在論において、すべての対象はentityである。

*entityは基準者に従順である。対象が存在論系自体に干渉したり擾乱を起こさないため。

def OntologyEssSup():

存在論は、種族において一意であるわけではない。これも1つの圏であり、部分圏を無数にもつからである。しかし、わけても存在に関する存在論、すなわち、固有の種族において存在するすべての対象を含む圏は、濃度(cardinality)の議論を抜きにして、もっとも多くの対象を含みうるため、これを、固有の種族における「本質的な上限(ess sup)」と見做せる。本論においては、「上限の存在論」(または大文字で「Ontology」)と呼び、これの部分圏を「存在論系」あるいは単に「系(system)」(または小文字で「ontology」)として区別する。

 

def structure():

上限の存在論の部分をとることで冪の数だけ存在論系を編むことができる。上限を含め、この一連の系は"モノスケイル/単一スケイル"である。これらは存在/非在のスケイルのみをもつからである。これらの系に新たにスケイルを賦与することで、"マルチスケイル"の系が構成可能である。マルチスケイルとは、存在スケイルの他にスケイルを1つ以上もつことである。マルチスケイルの系、あるいは系に固有のマルチスケイルを"構造(structure)"と呼ぶ。構造における、存在スケイルの他のスケイルを特に規約(convention)と呼ぶ。構造の要素のうち、規約に是であるものをあつめた圏は"ディシプリン(discipline)"と呼ぶ。

整理して書けば以下の通りである。
Onto-ess_sup<oball, ξ>:存在に関する存在論Onto-ess_supは、固有の種族において対象としうるすべての対象を要素としてもつ圏である。すべての対象oballについて存在(existent)ξを恒等射としてもつ。
onto<ob, ξ>:存在論系ontoは任意の対象を要素とし、すべての対象obについて存在ξを恒等射としてもつ。
str-a, b...<ob; conv-a, conv-b,...>:str-a, b...は、obを対象とし、conv-a, conv-b...を規約(convention)としてもつ構造である。恒等射(存在ξ)は特に明示しない。
dspl-a, b...<ob(str); conv-a, conv-b...>:dspl-a, b...は、規約a, b...に是である構造a, b...の部分圏ob(str)を対象とし、規約a, b...をもつディシプリンである。恒等射は規約の数+1個だけあり、これらは互いに区別される。(ξ: 存在する、a: 規約aに是である、b: 規約bに是である...)

*例えば、ある系Oは「自然」、「海」、「山」の3つを要素としてもつ。ここで人間種族による観察を規約nとして、「自然」(str-ntr)は「海」「山」を要素とする構造である。これは、系Oに「自然」が構造された、と言う。ここで、《伝説上の=観察に反する》要素「魔窟」を系Oに加えたものをO(魔窟)と表記すると、構造「自然」にも「魔窟」が附加されるが、要素「海」「山」が規約nについて是であるのに対し、要素「魔窟」が非であることから、「自然」(dspl-ntr)は系O(魔窟)より「海」「山」を要素に、規約にnをもつディシプリンである、と言う。
*規約を要素と見て、構造やディシプリンに含めることは手続き上は問題ない。その場合、構造やディシプリンは、規約と系を直下に包含する。ここで、規約と系は圏である。 

とくに、言明のみを対象とするディシプリンを文脈/コンテクストと呼ぶ。人間種族においては、例えば論理学が文脈である。狭義に、論理学は、過去の学問探究において発見された各種の公理や定理を要素とする系、および規約として各種の論理法則をもつディシプリンである。

*例から明らかなように、規約の要素は規約によって是とは(必ずしも)ならない。排中律が真であるのは《論理学者=基準者》がそれを真であると定めたからであり、ディシプリン「論理学」の系には含まれない。
*ディシプリン「論理学」は骨格的(skeletal)である。"骨格的"とは、同型が恒等射しか存在しないことである。"同型"とは逆射をもつ射である。。。
**ここまでの作業は、詰まるところ、哲学や情報処理分野で扱われるような一般的な存在論についての圏論的な記述方式の有効化である。しかし本論の目的は記法の発明ではなく、以降が本題である。

 

entityのみを対象にとる静的な存在論に対する、「動的な存在論(dynamic ontology)」を考えることは難しくない。この存在論では排中律が機能しない。つまり、あらゆる対象は開いているか、あるいは閉じているか、どちらの状態もとりうるのである。この対象を"eXtity"と呼び、動的な存在論を「eXtity型(存在論)」、静的な存在論を「entity型(存在論)」として区別する。
eXtity型では、第一に、非明示的に存在するものを対象にとりうる。明示的に存在するものとは、すなわち固有の基準者において《認識可能=知覚可能または演算可能》である対象である。たいして「非明示に存在するもの」とは、固有の基準者において認識不可能なものを指す。これにより、固有の基準者が(上限の)存在論のすべての要素を列挙することは「本来的に」不可能となる。列挙とは、明示的に対象のすべてを挙げることだからである。列挙が本来的に不可能であることを「従順(obedient)」と言う。entity型にて列挙は本来的には可能であり、従順である。
eXtity型では、第二に、非明示に境界や包含関係が変更されうる。このため、対象間の境界は必ずしも劃定せず、安定しない。
entityに対して、eXtityは、謂わば、相対論的な/不確定な対象である。eXtity型において、もはや基準者は「基準」たりえない。eXtity型において基準者は、操作によって対象の状態を確定する特権性を喪う。これはすなわち、基準者自身の知覚器/演算器の有限性を考慮に入れねばならないことを意味する。あらゆる存在論において、《存在するすべて=一切有》は、すなわち基準者によって存在を認識可能な一切と等価であり、そもそものところ「何が存在するか」という基準は基準者の信念にゆだねられている。この基準を抛棄することで対象は開放されうるようになる。このような存在論において、基準者はむしろ「観測者(observer)」という呼称がふさわしい。

 

eXtity型においても、entity型と同様に構造やディシプリンが構成されうる。しかしながら、系中の要素は絶えず観測者に非明示の変更に曝されるため、暫定的にしかこれらは維持されえない。例えば、cを規約とするディシプリンDは観測者Oに措定される際にaを要素にもっていたが、別の観測者O'に操作され、aは規約cに非であるようになった。このとき、Oが措定したDは、O'の操作以降、もはやディシプリンたりえない。ここで、①aをDの系から外すこと、あるいはまた、②aがDの系の要素であるようにcを操作して許容すること、のいずれかによってDはディシプリンとして維持される。このような操作を許すeXtity型に固有の構造を「超構造(mega-frastructure)」と呼ぶ。eXtityが動的な対象であるのに対して、超構造は動的な構造のことである。

整理して書けば以下の通りである。
M-Fra<sys, conv>:M-Fraは単一の存在論系と1つ以上の規約を要素としてもつ圏convを含む超構造である。

*まさに、超構造とは「建設者たち」により常に改増築がおこなわれている構造である。
*entity型がひたすら対象とする圏を下方解体(undermine)していたのに対し、eXtity型は上方解体(overmine)をおこなう。

 

そしてまた、規約について非明示な(超)構造がeXtity型では構成可能である。規約もまた1種の対象であるためだ。ここでは、系が明示的に確定しないか、あるいは系の確定に応じて規約が確定する。これは基準のない(超)構造であり、"超曲面(mega-space)"と呼ぶ。同一の超曲面に含まれる観測者は、この無基準性によって特権的な操作をおこなえないことから対等である。このとき、「同一の超曲面に含まれる」とは、それぞれの観測者が同一の系を保持していることと同義である。同一の超曲面上に存在する観測者O, P, Qに関して、観測者Oにとって超曲面上にaとして存在する対象が、観測者PにとってもQにとってもaとして存在すること、これは人間種族における観念の伝達に相当する。《同一の超曲面上に存在する=同一の系を保持する》一連の観測者の圏を"覽(Rann)"と呼ぶ。一方で、複数の超曲面に跨がって存在する観測者らは、それら個々の超曲面よりも高次に構成された超曲面、すなわち超曲面を系の要素としてもつ超曲面上に存在しなければ、同一の系を保持することはできない。この高次の超曲面が構成されない場合、一連の観測者らは自己のみを要素としてもつ覽となる。この覽をとくに"囙(Inn)"と呼ぶ。人間種族において囙とは、《肉体言語を含む言語=観念に関する一切の伝達手段》を互いにもたない個体のことである。

整理して書けば以下の通りである。
M-spa<sys, conv-tacit>:M-spaは単一の存在論系および1つ以上の非明示な規約を要素としてもつ圏conv-tacitを含む(超)構造である。

*同一の超曲面上において、それぞれの観測者は暫定的な/相対論的な操作しかおこなうことができない。