想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

eXtity/單眼と散裂/加速論 序文 プロトタイプvol.2 (2018/08/26/23/07 暫定)

一連のテクスト、eXtity/單眼と散裂/加速論は、中性かつフラットな素地であり、言語的な強度を得たいと願うすべての個体に賦与される道具である。

文章中の語彙には、一般に学術で用いられるものが幾つか含まれているが、それらは元の文脈から完全に逸脱している。語としての表面は同一でも、それらが意図する観念が異なる。混乱を避けるため、区別することを第一に明記しておく。

既存の語を少なからず用いるのは、それがつまりセントラルドグマの1つ、散裂の実践だからだ。散裂(innconverge)によれば、言語はもはや相互理解のための道具ではなくなる。それぞれの語彙の示す対象、また文法は、話者単位で完全に隔絶される。

学術とはつまり人間が自然界や社会を観察した知見の本質化である。ここで「人間」という統制に個人それぞれが叛逆したとき、つまり「人間」として一般化されたモデルが個体群の実態と整合しなくなったとき、学術的に生成された一切の語彙はそれぞれの個体の手にゆだねられ、語用は各々に最適化される。そして、これは何も学術用語にかぎった話ではない。散裂はもっと深く進行しうる。

言語は、語彙は、文法は、器であり溶媒である。個体が想像した一切のものを、収容物として、あるいは溶質として、ここに詰めることができる。これらを民族単位で規範を統一できたのは20世紀ナショナリズムの成果である。あらゆる個体は出生地やゲノムから一意の民族根拠をもち、それに沿った言語行為と生活習慣をもった。辞書によって規格化された語彙、国家制度によって定められた正統な文法、これらは幻想であると21世紀の市民は断言できる。しかしながら、これらが強度を依然として有していることは確かである。

強度(strength)とは、自己ではない対象、すなわち単数でも複数でもよい他己から蒙る一切の強制、妨害、干渉、侵掠に屈せずに自己を維持すること、その能力自体を指す。言語に対して、20世紀ナショナリズム下では、国家装置による権威によって賦与されていた。散裂の実践者は、この権威に対等たりうるだけの強度を得ることで、言語および自己を解放する。このとき、万に岐を別つ言語は自身の思考領域の拡充や強化という側面を獲得する。相互理解が第一義から外れるためである。

散裂、および散裂した言語は、アートやポリティクスや思想など、あらゆる活動(アクティヴィティ)の実践者によって使役されるときに最も力を発揮すると私は信じている。自身が見出したもの、想像したものについて強度を賦与する機関/器官であり、これは散裂自身のみでは何も生成しない。

本論一連のテクストは道具である。本論にもたらされる一切の語彙について、本論の定義どおりに使役する必要はない。道具の使い方は使役者によって定まるためである。これを読む貴君の活動が強度を獲得する一助となれば本懐である。