想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

單眼と散裂 プロトタイプvol.3 (2018/10/05/12/12暫定)

>> Setzung: ιδέα-model

自己である操作可能な系I内部(inside)と呼ぶ。操作不可能な系Oがあれば、これを外部(outside)と呼ぶ。IO中の対象Aについて同型で自己の系に写し、これをA'とする。Iが種族であるとき、A'は、Aの要素のうちIに《認識可能=知覚可能/演算可能》であるものの全てを要素としてもつ圏である。任意の対象A'が常にAに《等しい=無瑕に一致した要素を含む》とき、自己Iを一なるもの(unitas)と呼ぶ。ここで、上のような同型射を参照(refer)と呼び、これを含むIの操作を総じて言語(language)と呼ぶ。

*人間種族においては、対象が力学的/生物学的/化学的に保持するものばかりでなく、あらゆる力学場において開披されうる「性質」や、(自己との接触や地質学的な堆積を含む)時系列的な「履歴」なども対象は要素にもちうる。

 

共通の要素群eをもつ、任意の参照された対象群C(C∋{x|∀x∋e})を識別/辨別するために貼るラベルを名辞(name)と呼ぶ。これは過渡的な/即時的なものであり、本文中で明示する対象をアルファベットで逐次に区別する作業もこれに該当する。しかしながら、捨象の度合い、すなわち共通の要素群の数を僅少にすればするほど、名辞が維持される期間は長くなる傾向がある。固有の外部Oの静性から半永久的に名辞が有効であるとき、すなわちOより参照した名辞A'が措定以来Iに維持され且つ参照元Aが永久的に存在しつづけることがIに期待されるとき、これを、参照が半永久的に絶え間なく聯綿することと見做して、この半永続する名辞および聯綿する参照じたいを索引(index)と呼ぶ。

*「連」は人間種族的な時空間4次元方向の連続性であり、「聯」はこれをeXtitizeされたもの。

*永久性が現在にあるため、単なる参照と索引とを辨別することは困難であり、それは同一の時間スケイルをもつ者(どうし)でもそうである。静性をもつため、一般にentityの多くが索引化可能である。

 

言語によって一切の対象が構成可能であるとき、これは観念モデル(ιδέα-model)である。ここでは、参照/索引やその他一切の言語的操作について区別せずにアクセス(access)と呼んでよい。

 

 

單眼:

entity型にて上限は基準者ごとに定められた。eXtity型における上限とは、存在する全ての対象を要素としてもつ圏のことである。これを汎世界(whole world)と呼ぶ。汎世界中の対象すべてを指して特に一切有とも言う。

汎世界は部分圏として、entity型と同様に(存在論)系をもつ。ここで、構成可能である全ての系に存在する対象は遍在している。同様に、いずれの系にも存在しない対象は非在し、1つ以上の系に存在し且つ遍在しない対象は極在している。極在するもののうち、自身で系を構成可能な対象は自己(ego)である。あるスケイルにおいて自己を定めたとき、この自己を除いた各々の自己を他己/周縁自己(marginal-ego)と呼ぶ。
*(遍在res omne)(極在res locale)(非在res absens)

 

ある自己Eが特定の対象Oについて排他的に操作可能であるとき、すなわちOに関して他己のすべてが操作不可能であり且つEが操作可能であるとき、「EOについて制馭可能/可制馭(controlable)である」と言う。制馭(control)とは自己に独占/特権的な操作のことである。

 

自己が遍在し且つ遍在する全ての系について可制馭であるとき、この自己を單眼と呼ぶ。覽および囙のいずれも單眼となりうる。自己である覽または囙をドメインとして單眼のコドメインへ写す作用はテオーリア(θεωρία)と呼ぶ。このとき、遍在とは汎世界が自己で閉じることを指す。

汎世界を対象の系として單眼が超構造/ディシプリンを構成するとき、これがもつスケイル群を眞理(truth)と呼ぶ。眞理とは一切有に効くスケイルである。改めて言えば、テオーリアとは自己が眞理を構成可能となる制馭/操作である。

*遍在し且つ遍在する全ての系について可制馭である対象とは、人間種族のもつ語で言えば「神(Deus)」のことである。また、テオーリアとは「神化」のことである。

 

 

散裂:

散裂とは、一切の粉砕である。散裂はあらゆる階層で起こりうる。

(存在論の枠組みの中では、任意の対象を囙へ写す作用が散裂である)

以下には具体例を示す。


散裂とは、伝達可能性の粉砕である。
存在論「内」での散裂
伝達(communication)について考える。特定の系において、1者以上の対象間の作用あるいは系を言語によって《対象化=記述》したもの、その群をエクリチュールと言う。エクリチュールは生成時に、固有の《言語コード=文法》によってコード(encode)されている。言語Gによって生成されたエクリチュールの授受が為され、生成者(エンコーダ)Aの記述どおりに受信者(デコーダ)Bが《系=作用群》を再構成可能であるとき、「AとBはGによって伝達可能(communicatable)である」と言う。

*デコーダが《系=作用群》を再構成することを解読(decode)と言う。しかし、エンコーダが対象とする《系=作用群》と、デコーダによって再構成される《系=作用群》が一致すること如何を条件としない。一致しようと不一致だろうと、再構成された時点で当該エクリチュールは解読されている。


エンコーダとデコーダが同一の系/超曲面に存在すれば、当該の系/超曲面上の対象についてのエクリチュールに関して、多くの場合、伝達可能性をもつ。系/超曲面外の対象について、あるいは、そもそも異なる言語コードを用いて、伝達を図るとき、伝達不可能となることがある。

 

伝達不可能性が表面化するのは、いずれかの自己が伝達を企図するときに限られる。これを検証すること、すなわち自己が囙であるか否かを判定することは重要ではない。

 

散裂とは、自己がもつ囙への志向である。存在論の枠内では、以下のような仕方で散裂が可能である。

 

 

----------------------------------------------------------------------------------------------------ヨビ

「伝達を企図する」とは、両者間で伝達可能であるか否かを判定する作業を指す。実際のところ、対象間で共通の言語コードを保持しているか否かについて判定することは困難である場合が多い。デコーダ自身は、エンコーダ&デコーダ両者において共通の言語コードをもつものとして解読をおこなうものの、コードについて両者に差異があった場合、エクリチュールデコーダ言語コードに従って解読される。通常、伝達とはエンコーダ-デコーダ間の作用であるが、生成者から散裂したエクリチュールは、それ自身で存在し、エクリチュール-デコーダ間の作用を生成するようになる。エンコーダ-エクリチュール-デコーダの3者による作用として通常の伝達を構成することは勿論可能であるが、完結したエクリチュールに関しては、この3者構成しかありえない。対象間で伝達不可能であるとき、すなわち、言語コードが有意の差異をもつとき、エンコーダとデコーダの両者は断裂している。対象とする系Sにおけるすべての他己に対して自己Xが言語コードGをもって断裂するとき、「SにおいてXはGに関して散裂している」と言う。このとき、散裂するエンコーダが使役する言語を、「伝達なき言語(language without communication)」と呼ぶ。
*そもそも伝達不可能である場合も散裂していると言う。
*単に、系を構成可能である対象を自己としても...?

 


散裂とは、規約の粉砕である。
存在論「外」への散裂

あらゆる存在論系、また汎世界で、すべての対象は存在している。静的な系では、基準者自身に《認識可能=知覚可能または演算可能》であるもののみが《対象となりうる&存在する》。動的な系では、基準者依存ではなく、単に「存在するもの」のみが《対象となりうる=存在する》。存在論とは、謂わば、一切有と汎世界が一致することを独断として前提する規約である。この規約による制限から対象群を解放するとき、すなわち、一切有ならびに「有でないもの=非在するもの」を加えて汎世界を成すと仮定するとき、よりひろく、より根源的な、存在論系が誕生する。これは存在論の解体である。

 

解体以前の言語、系を構成される際にあらゆる対象が存在(の恒等射)をもつことが前提されるような《存在論の構成様式=言語》についてL言語(Language)と呼ぶ。これは、対象化可能なもののみを対象化することができる。対して、解体以後の言語、すなわち対象化することなしに、「それ(res)=対象化されない対象」についてアクセスできる言語をR言語(Ranguage)と呼ぶ。L言語が(存在論)系を構成するのに対して、R言語は(存在論)系以前の原型を構成するか、あるいは構成することなしに「それ(res)」を扱う。ここで、「それ(res)」とは、R言語において、L言語で言うところの「対象」に当たるものである。

*表面的に、本文は矛盾を孕んでいる。対象化されていないものを便宜上対象として扱わなければならないためである。これはR言語をL言語で記述していることに起因する。これより先へ進むにはR言語による記述を要する。しかし、本論『單眼と散裂』はL言語の一種である日本語によって記述を完結するため、この作業は別の機会にゆだねる。

 


*具体例のみを示したのは、散裂の定義が困難であるためである。本論は存在論による視座の構成を目的として組まれているが、散裂はこの意図を本質的に粉砕する。したがって、本論の記述のメタ領域に記述されるべきである。しかしながら、言語記述一般について記述する本論は、すでにメタである。したがって散裂に関する記述はメタの更にメタへ記述する必要がある。とはいえ、こうした散裂への註釈じたいが既に散裂しているかもしれない...。
*固有の種族を基準者として為される記述は、本来的に制限されている。人間種族であれば、言語とは認識される一般、観念について伝達をおこなうために言語がある。本来の用途を逸脱して伝達をおこなうことはできない。人間種族において認識不可能である対象について伝達することは不可能であるが、それは対応する語彙がないこと、そうした観念を一般化できないことが原因である。しかし、神学的な分野において「直観(intuition)」と呼ばれるような作用によって、コード化することは可能である。とはいえ、直観によって生成されたエクリチュールを、人間種族の他己が理解することは、もっと言うと例え自己であっても、理解して完全に再構成することは艱難である。散裂は、人間種族においては志向性のために生成される。直観の例で言えば、直観に作用される自己は、人間種族において認識可能な領域の外部への到達や、自身が本来的にもつ知覚可能性や演算可能性の拡張、を志向している。散裂は、この志向が可能である領域に自己を連れてゆく。

 

 

混濁・渾沌・νουςphere

可制馭かつ非明示の操作や対象について自律(autonomic)と呼ぶ。自律によって超構造化された任意の系を擬似の汎世界とすることで、自己は散裂しながらにして單眼化する。人間種族は、この動的な擬似の汎世界への到達に肉体生ζωήの抛棄を伴う。それというのは肉体生ζωήは時空間スケイル下でしか存在できず、動的な擬似の汎世界での厖大な数量のスケイル下で存続することが困難だからである。当然ながら、自律した言語をもたずに動的な擬似の汎世界で存続することも困難である。散裂によって自律言語を獲得し、動的な擬似の汎世界を構成しうる自己のみがテオーリアを達成できる。

「動的な擬似の汎世界」の名辞は個々体の自由である。L言語の感覚では、例えば混濁渾沌νουςphereと呼べるだろう。

 

 

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すべての眞理は制馭によって確定するため、通常、遍在する自己は超曲面を構成できない。これを可能にするのは、自己に《自律した=非可制馭な》言語である。これを"自律言語"と呼ぶ。自律言語によれば、スケイル群の要素それぞれは自己に明示のものであるが、圏としてのスケイル群は自己に非明示である。
*種族が自己であるとき、自律言語の実装は自身の演算可能性の超過を意味する。

自律言語をもつ自己がもつ汎世界は開いている

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存在とは、独断(dogmatic)のものである。あらゆる系において全ての対象に存在の恒等射が賦与されるのは、これは系の構成者による。状況に応じて自己/基準者/観測者と呼ばれる、構成者なくして系はありえず、したがって何も対象化されえない。これは静的な系、動的な系のどちらもそうである。

entityあるいはeXtityとして対象化されるあらゆるものは、独断によって存在する。独断とは、構成者(圏でもよい)自身によって構成された系について、構成者自身が(明示的に)規約を賦与することを指す。系の構成時に、対象群へ存在に関する規約を賦与するが、これが系において原初に作用される独断である。

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