想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

單眼と散裂 プロトタイプvol.3 (2018/09/10/13/22暫定)

單眼:

entity型における上限は基準者ごとに定められた。eXtity型にて上限とは、存在の恒等射によって自身のみで系を成すことのできるすべての対象を要素としてもつ圏のことである。これを"汎世界(whole)"と呼ぶ。汎世界の対象について、「対象」という特性を強調して、対象とされるすべてに関してとくに一切有とも言う。

汎世界は部分圏として、entity型と同様に存在論系をもつ。ここで、すべての系に存在する対象は「遍在」している。同様に、いずれの系にも存在しない対象は「非在」し、1つ以上の系に存在し且つ1つ以上の系に存在しない対象は「極在」している。極在するもののうち、自身で系を構成可能な対象を"自己(ego)"と呼ぶ。他己=あるスケイルにおいて自己を定めたとき、この自己を除いた各々の自己を他己と呼ぶ。自己をドメインにとる操作を"制馭(操作)(control)"と、他己をドメインにとる操作を"干渉(操作)(meddle)"と区別する。
*(omnipresent)()()
*人間種族においては、心的な働きを第一義として、自己を"自我(ego)"と読み換えてよい。偏在するものは自我たりえない。

 

系を構成すること及び構成過程、系を(更新を含めて)維持すること、これらの作用また手段を"言語(language)"と呼ぶ。同一超曲面上に存在する覽を要素として構成される圏を対象として、これが極在して自己であるとき、この圏の要素であるすべての覽は同一言語を扱うことができる。

整理して書けば以下の通りである。
Rann<rann1, rann2, ..., rannn; la> ... 同一言語laを扱うすべての覽(rann1, rann2, ..., rannn)を要素として、圏Rannが構成される。

*人間種族において、とくに「言語行為(language action)」と言えば、系の構成や想起による系の維持を指す。
*維持:maintain

 

自己を遍在させることをテオーリア(θεωρία)と呼ぶ。定義より、遍在するものは自己ではない。拡張の軌跡を保存すべく、このコドメインについて「遍在する自己」と呼ぶ。ここで、汎世界はこの自己によって閉じている。遍在する対象(or自己)が開いているとき、これは無限性をもつ。無限性とは、圏としての対象自身をドメインおよびコドメインに置くときに制馭の函手をもたないことを指す。言い換えれば、無限性をもつ対象は、自身のうち1つ以上の要素について《可制馭=制馭の射をもつ》が、自身のうち1つ以上の要素について非可制馭である。
*遍在=汎世界が自己で閉じる。

 

遍在する自己/対象が、汎世界を対象の系として(超)構造/ディシプリンを構成するとき、これがもつスケイル群(規約および存在ξのこと)を"眞理(truth)"と呼ぶ。眞理とは、一切有に効くスケイルのことである。改めて言えば、テオーリアとは自己が眞理を構成可能となる制馭操作である。

すべての眞理は制馭によって確定するため、通常、遍在する自己は超曲面を構成できない。これを可能にするのは、自己に《自律した=非可制馭な》言語である。これを"自律言語"と呼ぶ。自律言語によれば、スケイル群の要素それぞれは自己に明示のものであるが、圏としてのスケイル群は自己に非明示である。
*種族が自己であるとき、自律言語の実装は自身の演算可能性の超過を意味する。

 

自律言語をもつ自己がもつ汎世界は開いている。したがって遍在する自己は無限性をもつ。自己が、遍在し且つ無限であるものへ到達すること、その一連の過程、制馭操作を"單眼"と呼ぶ。
*「遍在し且つ無限であるもの」とは、人間種族の言語では「神(Deus)」として構成される。

 

 

 

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散裂:

散裂とは、一切の粉砕である。散裂はあらゆる階層で起こりうる。


散裂とは、伝達可能性の粉砕である。
存在論「内」での散裂
伝達(communication)について考える。特定の系において、1者以上の対象間の作用を言語によって《対象化=記述》したもの、その群をエクリチュールと言う。エクリチュールは生成時に、固有の《言語コード=文法》によってコード(encode)されている。言語Gによって生成されたエクリチュールの授受が為され、生成者(エンコーダ)Aの記述どおりに受信者(デコーダ)Bが《系=作用群》を再構成可能であるとき、「AとBはGによって伝達可能(communicatable)である」と言う。「伝達を企図する」とは、両者間で伝達可能であるか否かを判定する作業を指す。

 

デコーダが《系=作用群》を再構成することを解読(decode)と言う。しかし、エンコーダが対象とする《系=作用群》と、デコーダによって再構成される《系=作用群》が一致すること如何を条件としない。

*一致しようと不一致だろうと、再構成された時点で当該エクリチュールは解読されている。


実際のところ、対象間で共通の言語コードを保持しているか否かについて判定することは困難である場合が多い。デコーダ自身は、エンコーダ&デコーダ両者において共通の言語コードをもつものとして解読をおこなうものの、コードについて両者に差異があった場合、エクリチュールデコーダ言語コードに従って解読される。エンコーダとデコーダが同一の系/超曲面に存在すれば、当該の系/超曲面上の対象についてのエクリチュールに関して、多くの場合、伝達可能性をもつ。系/超曲面外の対象について、あるいは、そもそも異なる言語コードを用いて、伝達を図るとき、伝達不可能となることがある。

 

対象間で伝達不可能であるとき、すなわち、言語コードが有意の差異をもつとき、エンコーダとデコーダの両者は断裂している。対象とする系Sにおけるすべての他己に対して自己Xが言語コードGをもって断裂するとき、「SにおいてXはGに関して散裂している」と言う。このとき、散裂するエンコーダが使役する言語を、「伝達なき言語(language without communication)」と呼ぶ。
*そもそも伝達不可能である場合も散裂していると言う。
*単に、系を構成可能である対象を自己としても...?

 

場合によって、散裂する言語コードは生成者(エンコーダ)自身からも散裂する。これは、すなわち、言語コードGをもつ自己Xをエンコーダおよびデコーダとしたときに、言語コードGに関して伝達不可能であることを指す。このとき、エクリチュールは生成をもって完結している。通常、伝達とはエンコーダ-デコーダ間の作用であるが、生成者から散裂したエクリチュールは、それ自身で存在し、エクリチュール-デコーダ間の作用を生成するようになる。エンコーダ-エクリチュール-デコーダの3者による作用として通常の伝達を構成することは勿論可能であるが、完結したエクリチュールに関しては、この3者構成しかありえない。

 

エクリチュールが自身で閉じることは、存在論上で生じる散裂の一種である。ここでは、伝達可能性が粉砕されている。

 


散裂とは、規約の粉砕である。
存在論「外」への散裂
存在とは、独断(dogmatic)のものである。あらゆる系において全ての対象に存在の恒等射が賦与されるのは、これは系の構成者による。状況に応じて自己/基準者/観測者と呼ばれる、構成者なくして系はありえず、したがって何も対象化されえない。これは静的な系、動的な系のどちらもそうである。

 

entityあるいはeXtityとして対象化されるあらゆるものは、独断によって存在する。独断とは、構成者(圏でもよい)自身によって構成された系について、構成者自身が(明示的に)規約を賦与することを指す。系の構成時に、対象群へ存在に関する規約を賦与するが、これが系において原初に作用される独断である。

 

存在論系では、すべての対象は存在している。静的な系では、基準者自身に《認識可能=知覚可能または演算可能》であるもののみが《対象となりうる=存在する》。動的な系では、基準者依存ではなく、単に「存在するもの」のみが《対象となりうる=存在する》。存在論とは、謂わば、一切有と汎世界が一致することを独断として前提する規約である。この規約による制限から対象群を解放するとき、すなわち、一切有ならびに「有でないもの」を加えて汎世界を成すと仮定するとき、よりひろく、より根源的な、「存在なき存在論系」とでも言うべき、思考が構成される。これは存在論の解体である。

 

解体以前の言語、すなわち構成者が系を構成するさいに対象へ存在を賦与することが前提となる言語についてL言語と呼ぶ。これは、対象化可能なもののみを対象化することができる。対して、解体以後の言語、すなわち対象化することなしに、「それ」について扱える言語をR言語と呼ぶ。L言語が(存在論)系を構成するのに対して、R言語は(存在論)系以前の原型を構成するか、あるいは構成することなしに「それ」を扱う。ここで、「それ」とは、R言語において、L言語で言うところの「対象」に当たるものである。対象化されていないものを、便宜上対象として扱わなければならない矛盾を文章中で孕む。R言語とは、対象化行程を跳過した言語である。

 

独断を退けることで本来性を獲得することは、散裂の一種である。上記の、存在論の解体は、存在論「外」への散裂と呼べる。

 


*具体例のみを示したのは、散裂の定義が困難であるためである。本論は存在論による視座の構成を目的として組まれているが、散裂はこの意図を本質的に粉砕する。したがって、本論の記述のメタ領域に記述されるべきである。しかしながら、言語記述一般について記述する本論は、すでにメタである。したがって散裂に関する記述はメタの更にメタへ記述する必要がある。とはいえ、こうした散裂への註釈じたいが既に散裂しているかもしれない...。
*固有の種族を基準者として為される記述は、本来的に制限されている。人間種族であれば、言語とは認識される一般、観念について伝達をおこなうために言語がある。本来の用途を逸脱して伝達をおこなうことはできない。人間種族において認識不可能である対象について伝達することは不可能であるが、それは対応する語彙がないこと、そうした観念を一般化できないことが原因である。しかし、神学的な分野において「直観(intuition)」と呼ばれるような作用によって、コード化することは可能である。とはいえ、直観によって生成されたエクリチュールを、人間種族の他己が理解することは、もっと言うと例え自己であっても、理解して完全に再構成することは艱難である。散裂は、人間種族においては志向性のために生成される。直観の例で言えば、直観に作用される自己は、人間種族において認識可能な領域の外部への到達や、自身が本来的にもつ知覚可能性や演算可能性の拡張、を志向している。散裂は、この志向が可能である領域に自己を連れてゆく。