想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

加速論 プロトタイプ vol.2 (2018/08/26/17/36暫定)

環境Enは、何らかの対象Gによって構成されたディシプリンである。環境Enにおいて、一切の対象は存在を保持する必要があり、存在を自己の恒等射として保持しなくなったとき、環境Enにおいて自己は要素から除かれる。何らかの環境において系の要素を《存在の恒等射を剝奪する=排除する》作用を淘汰(banishment)と呼ぶ。自己が環境Enへ新たに要素を追加することを生成(generation)と呼ぶ。環境において存在を維持することを存続(continuance)と呼ぶ。
*「構成する」とは、規約を定めて(超)構造やディシプリンを生成することを指す。
*環境は、人間種族において生物学的な自然のみを指さない。ある経済システムにおいて何らかのコンテンツや商店が存在し、その幾つかが淘汰されるとき、これも環境たりえる。これの構成者は、故人を含む人類である。

 

・加速を用いるのは、例えば以下のようなときである。
対象Oが、環境En下にある自身O'または他の対象Pの生成および存続を図るとき、これを妨げる作用をはたらく対象Qを牆壁(obstruction)と呼ぶ。牆壁Qの作用を蒙らない(超)構造/環境へ対象OO'Pを同型で写すとき、この環境および同型射を游離(escape)と呼ぶ。游離Esへ写ったO'およびPEsにおいて生成/存続する。Esにおいて《成熟した=牆壁によって生成/存続を妨げられなくなった》O'およびPを同型によってEnへ写すとき、O'Pを「(游離Esによって)加速された」と言う。二度の同型射を作用させる、この一連の過程を加速(accelerlation)と呼ぶ。
*同型(射)(isomorphism)とは、2つの系X, Yがあり、どちらに関しても外部にある対象Mがあるとき、要素x∈XをYへ要素y∈Yとして加えることである。同型射を作用させることを「写す」と言う。Mにおいてのみ、xとyは《同一の対象とされる=同型射idxy: x→yで作用される》。あるいは、Mにおいてのみ、xとyが自身の操作によって写ったことを記憶/履歴としてもつ。
*人間種族においては、例として、物理レイヤに対する游離として仮想レイヤの構成がある。仮想レイヤとは、物理エンジンを含むコンピュータシミュレーション系や、あらゆる個人の妄想/想像などがこれに当たる。仮想レイヤにおいて知見を堆積することで、きわめて低いコスト/リスクで物理レイヤにそれを実現することが可能である。

單眼と散裂 プロトタイプvol.2 (2018/08/24/22/47暫定)

 單眼Rannguage

單眼とは、言語行為(language)に関する右Kan拡張(Ran extension)である。

 

f:id:kammultica:20180824220215p:plain

上の図式に関して、

T :固有の種族(tribus)。圏。

E :固有の経験(experience)。圏。

Ex:当該種族の経験の外部(ex-experience)。圏。

Co:認識(cognition)。函手。(Co: T → E)

Re:照会(reference)。函手。(Re: E → Ex)

In:直観(Intuition)。函手。(In: T → Ex)

Ov:超脱(overcome)。函手。(Ov: E → Ex)

eXtitize:eXtity化。自然変換。(eXtitize: Re◦Co → In)

Rann:單眼(Rannguage)。自然変換。(Rann: Ov◦Co → In)

 

單眼は種族を神化(θεωρία)する。

///

固有の種族Tは《認識Co=知覚および演算》により、経験可能な対象oの圏として経験Eを生成する。種族自身に経験不可能であるものox(∈Ex)を対象化するには、entity型において、自身の経験に照会Reする。すなわち、経験不可能な対象oxを含む構造Mgについて、oxを許容する規約cによりディシプリンDsを構成するとき、第一に自身の経験への整合性を確かめるのである。

一方、eXtity型において、系は種族Tに閉じていない。このため、知覚/演算可能な有限領域とその外部を滑らかに繫がる。超脱OvReと可換ではない。

函手Ov = CoInより、Coに沿ったInの右Kan拡張は組〈Ov, Rann〉である。存在論系において、経験の抽出はすなわち知覚/演算の明示化であり、これを「言語行為(language)」と呼べば、この右拡張は非明示化のためのものである。経験不可能なものの無条件の対象化や、対象への存在賦与が直観Inであり、單眼Rannは経験Eとの整合性を度外視した正当性をInへ賦与する。

///

單眼とは、真偽/是非の基準を設定する整合性について、経験のみならずあらゆる対象の権威を退ける種族の解放行為である。何らかの対象に関して是あるいは非を返す如何なるシステムにも屈しない強度を單眼はもつ。

Rannguageは文法をもたない。明示/非明示に関わらず、記述はすべて有意である。この拡張を受けた系は、「存在する」「有意である」以外の性質を賦与されない。

 

 

散裂Innconverge

散裂とは、一切の粉砕である。

eXtity プロトタイプver.2 (2018/08/27/21/58 暫定)

 

リアリティ(実在) → 五感的な世界 → 仮想と物理の混合した世界(このとき、→:抽象射(abstraction morphism))

http://spinaltox.hatenablog.jp/entry/2018/07/16/114152

 

<事前定義①:圏論的語用> class category():
対象:文上で扱う圏または要素を明示したもの。メタ的に言うと、話者/記述者が文によって何らかの圏や要素へ作用するとき、話者/記述者をドメインと見て、コドメインが対象である。(文:話者/記述者→対象)また、対象が「外部にある」とは、当該圏の要素ではないが、別の圏に要素としてあることを指す。
スケイル:対象が圏であるか要素であるかを決定する尺度。存在論上、すべての対象は何らかのスケイルで圏であり、また何らかのスケイルで要素である。何らかの対象が圏であり、かつ要素でもあるスケイルを特に"マルチスケイル"と言う。
圏:1つ以上の要素を包含し、自身で閉じている対象である。要素は閉じていても開いていてもよい。すべての圏において、個々の要素は必ず、恒等射(id:a→a; 要素aはaである)を含む1つ以上の射に作用される。
要素:あるスケイルにおいて最小の包含関係にあるものを指す。対象について「要素」と呼ぶのは、必ず文中に圏があるときである。恒等射をもつかぎり、要素は単一でも圏となりうる。圏論の文脈上の「対象(object)」にあたる。
包含:ある対象obがある圏Cの要素であるとき、Cはobを包含している。(ob∈C)単に「含む」とも言う。
境界:複数の圏A, B, C... に対して、対象o, p, q... を含むか否か判定し、一方の圏がoを要素とし、他方の圏がoを要素としないとき、対象oは両圏の境界である。(このとき、例えば2圏A, Bと圏Cの境界を発見することができる。2圏A, Bは1つの圏と見做せるからである)
作用:あるスケイルで対象どうしを結びつける。これはスケイルによって要素にも圏にもなりうる。作用元を「ドメイン」、作用先を「コドメイン」と特に呼ぶ。包含単位がドメインとコドメインで同等であるとき、圏どうしでは「函手」と、要素どうしでは「射」と、それぞれ作用について呼び分けることもできる。
操作(maneuver):ドメインおよびコドメインのいずれかが自身である作用。

同型(射)(isomorphism):2つの系X, Yがあり、どちらに関しても外部にある対象Mがあるとき、要素x∈XをYへ要素y∈Yとして加えることである。同型射を作用させることを「写す」と言う。Mにおいてのみ、xとyは《同一の対象とされる=同型射idxy: x→yで作用される》。あるいは、Mにおいてのみ、xとyが自身の操作によって写ったことを記憶/履歴としてもつ。

構成(construct):対象について、定義に沿って然るべき要素を定め、名辞(label)を与えること。

明示(explicit):対象A, Bがあるとき、Bの包含する要素のすべてがA自身に既知であり且つAがBを構成可能であることを明示(的)と言う。明示でなければ、それは非明示(unexplicit)である。スケイル依存である(対象A, B, Cがあり、A自身にBが明示であるが、Aが(再)構成したB(BAと呼んで区別してもよい)とBがCにおいて一致しない場合がある)。

 

例)
ヒトやイルカなど生物一般を要素として、生物が圏となる。全個人および文化的な堆積を要素として、人類が圏となる。そもそも生物進化の過程上でヒトが知能を発達させなければ人類のもつ文化は生じなかったことから、進化論的なスケイルにおいて人類の文化は生物の圏における要素である。また、生物一般という枠組みが生じるのは人類の文化によるものであるため、人文学的なスケイルにおいて、生物は人類の圏における要素である。そしてまた、人文学的なスケイルにおいて、生物一般という枠組みは生物学的な一連の探求活動によって生成されたことから、人類の圏において生成を射として両者は作用関係にある。(生成:探求活動→生物一般)

 
<事前定義②:表記法> class orthgraphy:
A, Bは語。
Sは半文(名詞および動詞を少なくとも1つずつ含む)。開いた文。
S. は文(名詞および動詞を少なくとも1つずつ含み、句点で閉じる)。閉じた文。
P は節(パラグラフ)。1つ以上の文から成る。

A / B … 文中該当箇所にAおよびBのどちらを入れても成立することを示す。文S中にこれが包含されていることをS(A/B)と書くと、S(A)およびS(B)を併記せずに1つの文で表せる。

A & B ... 組を示す。AおよびBのいずれを欠いても該当文は成立しない。上と同じで、冗長を避けるための処置である。

A+B ... 和集合。

A×B ... 積集合。
《 A = B 》… パラフレーズ/同値。AおよびBのどちらを文中に挿入して読んでも当該文の意義は同一である。
"A" … 固有詞。当該文脈上で独自の語用をおこなうことを明示する。明示した以降は表記を省く場合がほとんどであるが、とくに断りがなければ一貫する。
「S」… 断り書き。諒解によって成立する操作を明示する。あるいは、当該半文Sが引用であることを示す。

A群 ... 単純にAの複数形である。Aを複数あつめた圏と見てもよい。

固有の(particular):ある対象においてのみ成立する事柄。一般・普遍ではない事柄。

<> {} は圏や群の定義に用いるため、使用を控える。

*対象が圏であれば、それは単数か複数である(どちらでもよいし、スケイルに依存するため区別に意味はない)。

 

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ⵚⵟⵁⵅⴾ eXtity/單眼と散裂/加速論 prototype vol.2

<事前措定:種族> class tribus(self):
あるスケイルで《単一と見做せる=閉じている》対象は、自己および他の対象と作用する。当該の対象を圏と見たとき、作用によっていずれかの要素が状態を遷移すれば、この対象は「情報を得た」と見做す。ここで、《当該圏の外部からの=他の対象による》作用に対して状態を遷移する要素の集まりを"知覚"と呼び、自身の遷移につづいて知覚が当該圏の他要素に作用するとき、作用先を"演算器"と呼ぶ。広義に、知覚と演算器をもつ圏は"種族"である。

外部からの作用による、知覚器や演算器の《一時的な状態の遷移=情報の取得》を"感覚"と呼べば、感覚された情報や状態の遷移が持続すること、および何らかの形でそれらが保存されることが"経験"である。あるスケイルにおいて種族どうしの経験が統合される場合、すなわち個々の種族の経験を要素としてもつ圏がある場合、ここに包含構造が生じる。経験のみならず知覚器および演算器を包含する圏は、定義より種族である。区別したいときは、包含する圏を「上位の種族」、包含される個々の圏を「下位の種族」と呼べる。狭義には、上位の種族のみを「種族」と呼ぶ。


<事前インスタンス化:人間種族> human = tribus()
人間は、五感および種々工学的センサを知覚器と、頭脳および計算機を演算器としてもつ種族である。学問など諸知識を経験としてもつとき、故人を含めて全ての人間を要素に含む上位の種族が圏となる。あるいは、人間個体どうしが意思伝達を通じて一箇の世界を見出すとき、この世界自体を経験として、意思伝達および世界形成に携わる全ての人間を要素に含む上位の種族が圏となる。

世界とは、存在論的な外界である。人間(個体)は、自身に感覚される情報から、自身が閉じた対象であることを前提とし、自身に認識可能な一切を要素とする《世界=外界》の圏を構成する。一連の構成プロセスを"存在論"と呼び、このようにして構成されたものを存在論的な外界と呼ぶ。ここで、"外界"とは存在論の構成者自身を要素として含む圏であるが、「存在論の構成者自身」は「世界の要素としての個体自身」と一致しないが、それは「存在論の構成者自身」が存在論の外部にあるためである。対して"世界"はこの両者が一致する圏である。

 

<措定:entityおよびeXtity> class entity_eXtity():

def ruler():

存在するすべての対象を要素として、存在論の圏が構成される。このとき、それぞれの要素のもつ恒等射(o∈O; id: o→o)「要素oはoとして存在する(Constituent o do exist as o.)」はo自身ではなく、構成者自身の操作によって成立する。したがって、存在論的に見出される《全体=世界》とは、「構成者が認識しうるかぎりにおいて」存在する一切有である。「何が存在するか(what does exist)」という恒等射を賦与する《尺度=基準》をもつことから、存在論の構成者をとくに"基準者"と呼ぶ。存在論は、基準によって固有である。
すべての基準者は種族である。有限の知覚器および演算器をもつ種族によって存在論が基準されるとき、《全体=世界=一切有》は本来的に制限される。この《有限性=制限性》によって、存在論は一意に劃定することが可能である*。あるいは、固有の基準によって構成された存在論は、たとえ要素がすべて等しくとも区別する。

*一意の存在論によらない、すべての対象が自身の操作によって存在の恒等射を自身に賦与可能であるとき、一切有は自身で存在する。このとき、自身で存在するすべての対象を要素として、実在論の圏が構成される。存在論の圏は、この圏の部分であるか、あるいはそうでない。

 

def entity():

存在論のうち、排中律が機能しているものを"静的な存在論"と呼ぶ。排中律とは、基準に対して是および非の2状態のみを許し、他の状態を排除する規則である。これが機能するとき、存在論上のすべての対象は「閉じている」。
第一に、あらゆる対象は「存在(existence)」の状態のみをもち、静的であれば、存在しないものは対象になりえない。
第二に、対象間の境界は必ず劃定し、かつ安定する。対象aはaであって非aではない。また、境界が劃定している2つの対象aおよびbは、aがbの包含であるとき以外にbはaではなく、同様にbがaの包含であるとき以外にaはbではない。基準者の操作なしに境界や包含関係が変更されることはなく、境界を操作したり包含関係を変更する場合は必ず明示的におこなう。
閉じた対象をとくに"entity"と呼ぶ。静的な存在論において、すべての対象はentityである。

*entityは基準者に従順である。対象が存在論系自体に干渉したり擾乱を起こさないため。

def OntologyEssSup():

存在論は、種族において一意であるわけではない。これも1つの圏であり、部分圏を無数にもつからである。しかし、わけても存在に関する存在論、すなわち、固有の種族において存在するすべての対象を含む圏は、濃度(cardinality)の議論を抜きにして、もっとも多くの対象を含みうるため、これを、固有の種族における「本質的な上限(ess sup)」と見做せる。本論においては、「上限の存在論」(または大文字で「Ontology」)と呼び、これの部分圏を「存在論系」あるいは単に「系(system)」(または小文字で「ontology」)として区別する。

 

def structure():

上限の存在論の部分をとることで冪の数だけ存在論系を編むことができる。上限を含め、この一連の系は"モノスケイル/単一スケイル"である。これらは存在/非在のスケイルのみをもつからである。これらの系に新たにスケイルを賦与することで、"マルチスケイル"の系が構成可能である。マルチスケイルとは、存在スケイルの他にスケイルを1つ以上もつことである。マルチスケイルの系、あるいは系に固有のマルチスケイルを"構造(structure)"と呼ぶ。構造における、存在スケイルの他のスケイルを特に規約(convention)と呼ぶ。構造の要素のうち、規約に是であるものをあつめた圏は"ディシプリン(discipline)"と呼ぶ。

整理して書けば以下の通りである。
Onto-ess_sup<oball, ξ>:存在に関する存在論Onto-ess_supは、固有の種族において対象としうるすべての対象を要素としてもつ圏である。すべての対象oballについて存在(existent)ξを恒等射としてもつ。
onto<ob, ξ>:存在論系ontoは任意の対象を要素とし、すべての対象obについて存在ξを恒等射としてもつ。
str-a, b...<ob; conv-a, conv-b,...>:str-a, b...は、obを対象とし、conv-a, conv-b...を規約(convention)としてもつ構造である。恒等射(存在ξ)は特に明示しない。
dspl-a, b...<ob(str); conv-a, conv-b...>:dspl-a, b...は、規約a, b...に是である構造a, b...の部分圏ob(str)を対象とし、規約a, b...をもつディシプリンである。恒等射は規約の数+1個だけあり、これらは互いに区別される。(ξ: 存在する、a: 規約aに是である、b: 規約bに是である...)

*例えば、ある系Oは「自然」、「海」、「山」の3つを要素としてもつ。ここで人間種族による観察を規約nとして、「自然」(str-ntr)は「海」「山」を要素とする構造である。これは、系Oに「自然」が構造された、と言う。ここで、《伝説上の=観察に反する》要素「魔窟」を系Oに加えたものをO(魔窟)と表記すると、構造「自然」にも「魔窟」が附加されるが、要素「海」「山」が規約nについて是であるのに対し、要素「魔窟」が非であることから、「自然」(dspl-ntr)は系O(魔窟)より「海」「山」を要素に、規約にnをもつディシプリンである、と言う。
*規約を要素と見て、構造やディシプリンに含めることは手続き上は問題ない。その場合、構造やディシプリンは、規約と系を直下に包含する。ここで、規約と系は圏である。 

とくに、言明のみを対象とするディシプリンを文脈/コンテクストと呼ぶ。人間種族においては、例えば論理学が文脈である。狭義に、論理学は、過去の学問探究において発見された各種の公理や定理を要素とする系、および規約として各種の論理法則をもつディシプリンである。

*例から明らかなように、規約の要素は規約によって是とは(必ずしも)ならない。排中律が真であるのは《論理学者=基準者》がそれを真であると定めたからであり、ディシプリン「論理学」の系には含まれない。
*ディシプリン「論理学」は骨格的(skeletal)である。"骨格的"とは、同型が恒等射しか存在しないことである。"同型"とは逆射をもつ射である。。。
**ここまでの作業は、詰まるところ、哲学や情報処理分野で扱われるような一般的な存在論についての圏論的な記述方式の有効化である。しかし本論の目的は記法の発明ではなく、以降が本題である。

 

entityのみを対象にとる静的な存在論に対する、「動的な存在論(dynamic ontology)」を考えることは難しくない。この存在論では排中律が機能しない。つまり、あらゆる対象は開いているか、あるいは閉じているか、どちらの状態もとりうるのである。この対象を"eXtity"と呼び、動的な存在論を「eXtity型(存在論)」、静的な存在論を「entity型(存在論)」として区別する。
eXtity型では、第一に、非明示的に存在するものを対象にとりうる。明示的に存在するものとは、すなわち固有の基準者において《認識可能=知覚可能または演算可能》である対象である。たいして「非明示に存在するもの」とは、固有の基準者において認識不可能なものを指す。これにより、固有の基準者が(上限の)存在論のすべての要素を列挙することは「本来的に」不可能となる。列挙とは、明示的に対象のすべてを挙げることだからである。列挙が本来的に不可能であることを「従順(obedient)」と言う。entity型にて列挙は本来的には可能であり、従順である。
eXtity型では、第二に、非明示に境界や包含関係が変更されうる。このため、対象間の境界は必ずしも劃定せず、安定しない。
entityに対して、eXtityは、謂わば、相対論的な/不確定な対象である。eXtity型において、もはや基準者は「基準」たりえない。eXtity型において基準者は、操作によって対象の状態を確定する特権性を喪う。これはすなわち、基準者自身の知覚器/演算器の有限性を考慮に入れねばならないことを意味する。あらゆる存在論において、《存在するすべて=一切有》は、すなわち基準者によって存在を認識可能な一切と等価であり、そもそものところ「何が存在するか」という基準は基準者の信念にゆだねられている。この基準を抛棄することで対象は開放されうるようになる。このような存在論において、基準者はむしろ「観測者(observer)」という呼称がふさわしい。

 

eXtity型においても、entity型と同様に構造やディシプリンが構成されうる。しかしながら、系中の要素は絶えず観測者に非明示の変更に曝されるため、暫定的にしかこれらは維持されえない。例えば、cを規約とするディシプリンDは観測者Oに措定される際にaを要素にもっていたが、別の観測者O'に操作され、aは規約cに非であるようになった。このとき、Oが措定したDは、O'の操作以降、もはやディシプリンたりえない。ここで、①aをDの系から外すこと、あるいはまた、②aがDの系の要素であるようにcを操作して許容すること、のいずれかによってDはディシプリンとして維持される。このような操作を許すeXtity型に固有の構造を「超構造(mega-frastructure)」と呼ぶ。eXtityが動的な対象であるのに対して、超構造は動的な構造のことである。

整理して書けば以下の通りである。
M-Fra<sys, conv>:M-Fraは単一の存在論系と1つ以上の規約を要素としてもつ圏convを含む超構造である。

*まさに、超構造とは「建設者たち」により常に改増築がおこなわれている構造である。
*entity型がひたすら対象とする圏を下方解体(undermine)していたのに対し、eXtity型は上方解体(overmine)をおこなう。

 

そしてまた、規約について非明示な(超)構造がeXtity型では構成可能である。規約もまた1種の対象であるためだ。ここでは、系が明示的に確定しないか、あるいは系の確定に応じて規約が確定する。これは基準のない(超)構造であり、"超曲面(mega-space)"と呼ぶ。同一の超曲面に含まれる観測者は、この無基準性によって特権的な操作をおこなえないことから対等である。このとき、「同一の超曲面に含まれる」とは、それぞれの観測者が同一の系を保持していることと同義である。同一の超曲面上に存在する観測者O, P, Qに関して、観測者Oにとって超曲面上にaとして存在する対象が、観測者PにとってもQにとってもaとして存在すること、これは人間種族における観念の伝達に相当する。《同一の超曲面上に存在する=同一の系を保持する》一連の観測者の圏を"覽(Rann)"と呼ぶ。一方で、複数の超曲面に跨がって存在する観測者らは、それら個々の超曲面よりも高次に構成された超曲面、すなわち超曲面を系の要素としてもつ超曲面上に存在しなければ、同一の系を保持することはできない。この高次の超曲面が構成されない場合、一連の観測者らは自己のみを要素としてもつ覽となる。この覽をとくに"囙(Inn)"と呼ぶ。人間種族において囙とは、《肉体言語を含む言語=観念に関する一切の伝達手段》を互いにもたない個体のことである。

整理して書けば以下の通りである。
M-spa<sys, conv-tacit>:M-spaは単一の存在論系および1つ以上の非明示な規約を要素としてもつ圏conv-tacitを含む(超)構造である。

*同一の超曲面上において、それぞれの観測者は暫定的な/相対論的な操作しかおこなうことができない。

 

種族tribus / 圏論×存在論 記法のプロトタイプ

<定義:種族> class Tribus(self):
あるスケイルで《単一と見做せる=閉じている》対象は、自己および他の対象と作用する。当該の対象を圏と見たとき、作用によっていずれかの要素が状態を遷移すれば、この対象は「情報を得た」と見做す。ここで、《当該圏の外部からの=他の対象による》作用に対して状態を遷移する要素の集まりを"知覚"と呼び、自身の遷移につづいて知覚が当該圏の他要素に作用するとき、作用先を"演算器"と呼ぶ。広義に、知覚と演算器をもつ圏は"種族"である。

外部からの作用による、知覚器や演算器の《一時的な状態の遷移=情報の取得》を"感覚"と呼べば、感覚された情報や状態の遷移が持続すること、および何らかの形でそれらが保存されることが"経験"である。あるスケイルにおいて種族どうしの経験が統合される場合、すなわち個々の種族の経験を要素としてもつ圏がある場合、ここに包含構造が生じる。経験のみならず知覚器および演算器を包含する圏は、定義より種族である。区別したいときは、包含する圏を「上位の種族」、包含される個々の圏を「下位の種族」と呼べる。狭義には、上位の種族のみを「種族」と呼ぶ。


<インスタンス化:種族> human = Tribus()
人間は、五感および種々工学的センサを知覚器と、頭脳および計算機を演算器としてもつ種族である。学問など諸知識を経験としてもつとき、故人を含めて全ての人間を要素に含む上位の種族が圏となる。あるいは、人間個体どうしが意思伝達を通じて一箇の世界を見出すとき、この世界自体を経験として、意思伝達および世界形成に携わる全ての人間を要素に含む上位の種族が圏となる。

世界とは、存在論的な外界である。人間(個体)は、自身に感覚される情報から、自身が閉じた対象であることを前提とし、自身に認識可能な一切を要素とする《世界=外界》の圏を構成する。一連の構成プロセスを"存在論"と呼び、このようにして構成されたものを存在論的な外界と呼ぶ。ここで、"外界"とは存在論の構成者自身を要素として含む圏であるが、「存在論の構成者自身」は「世界の要素としての個体自身」と一致しないが、それは「存在論の構成者自身」が存在論の外部にあるためである。対して"世界"はこの両者が一致する圏である。

 

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<圏論×存在論 記法のプロトタイプ> class category():


対象:文上で扱う圏または要素を明示したもの。メタ的に言うと、話者/記述者が文によって何らかの圏や要素へ作用するとき、話者/記述者をドメインと見て、コドメインが対象である。(文:話者/記述者→対象)また、対象が「外部にある」とは、当該圏の要素ではないが、別の圏に要素としてあることを指す。


スケイル:対象が圏であるか要素であるかを決定する尺度。存在論上、すべての対象は何らかのスケイルで圏であり、また何らかのスケイルで要素である。何らかの対象が圏であり、かつ要素でもあるスケイルを特に"マルチスケイル"と言う。


圏:1つ以上の要素を包含し、自身で閉じている対象である。要素は閉じていても開いていてもよい。すべての圏において、個々の要素は必ず、恒等射(id:a→a; 要素aはaである)を含む1つ以上の射に作用される。


要素:あるスケイルにおいて最小の包含関係にあるものを指す。対象について「要素」と呼ぶのは、必ず文中に圏があるときである。恒等射をもつかぎり、要素は単一でも圏となりうる。圏論の文脈上の「対象(object)」にあたる。


作用:あるスケイルで対象どうしを結びつける。これはスケイルによって要素にも圏にもなりうる。作用元を「ドメイン」、作用先を「コドメイン」と特に呼ぶ。包含単位がドメインとコドメインで同等であるとき、圏どうしでは「函手」と、要素どうしでは「射」と、それぞれ作用について呼び分けることもできる。


操作:スケイルによらない作用であり、コドメインに対してドメインがメタである。記述者および記述(内容)が互いに閉じているかぎりは、記述者自身をドメインにとるメタの作用を「操作」と特に呼ぶ。例えば、こうした記法の規定がこれにあたる。

 

例)
ヒトやイルカなど生物一般を要素として、生物が圏となる。全個人および文化的な堆積を要素として、人類が圏となる。そもそも生物進化の過程上でヒトが知能を発達させなければ人類のもつ文化は生じなかったことから、進化論的なスケイルにおいて人類の文化は生物の圏における要素である。また、生物一般という枠組みが生じるのは人類の文化によるものであるため、人文学的なスケイルにおいて、生物は人類の圏における要素である。そしてまた、人文学的なスケイルにおいて、生物一般という枠組みは生物学的な一連の探求活動によって生成されたことから、人類の圏において生成を射として両者は作用関係にある。(生成:探求活動→生物一般)

 

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<表記法(実験)> class orthography:
・A, Bは語。
・Sは半文(名詞および動詞を少なくとも1つずつ含む)。開いた文。
・S. は文(名詞および動詞を少なくとも1つずつ含み、句点で閉じる)。閉じた文。
・P は節(パラグラフ)。1つ以上の文から成る。

A / B論理和(?)。AまたはBのどちらでも。AおよびBは。Aは~であるし、Bも~である。Aには~を適用できるし、Bにも~を適用できる。
《 A = B 》パラフレーズ/同値。AおよびBのどちらを文中に挿入して読んでも当該文の意義は同一である。
"A" … 固有詞。当該文脈上で独自の語用をおこなうことを明示する。明示した以降は表記を省く場合がほとんどであるが、とくに断りがなければ一貫する。
「S」… 断り書き。諒解によって成立する操作を明示する。あるいは、当該半文Sが引用であることを示す。

<> {} は圏や群の定義に用いるため、使用を控える。

eXtity/單眼と散裂/加速論 プロトタイプvol.1

存在論(ontology)とは、存在するすべての対象(object)へパスを引く行為である。対象とする系は全体=世界(whole of world)であり、これは基準者=観測者が単一と見做せるときに確定しうる。この一者は、全体=世界に存在するすべての対象と自己とが、対象が明示的に存在するために結びつくとき、極点としての対象および結線としての単方向あるいは双方向の作用(interaction)に関して、存在を明示化する体系化をおこなう。全体=世界における一連の体系こそが存在論である。存在論は全体の確定性によって一意となりうる。この確定性をもたらすのは、基準者=観測者としての、同一の知覚器と演算リソースを有する一群=種族(tribus)*である。種族は本来的に制限されているため、有限の全体=世界をもつ。換言すればこれは、「何が存在するか(what does exist.)」という尺度を種族がもつということである。固有の存在論において、存在するが存在しないものは排除され、この排中律存在論の健全性を担保している。
*種族とは、ベイジアン的な観測者のことである。我々の知覚は有限であり、実在論的な全体から(不明に)幾分か制限された情報から存在論的な全体を再構成しており、我々ではない観測者に目を向ければ、この存在論的な全体は種族の数だけ構成可能である。詳しくは別著。

 

上記のような一般的な存在論について、「静的な存在論(static ontology)」と呼ぶ。あらゆる対象は実体(entity)として、確定した性質と外貌をもつためである。系や対象に関して「静的(static)」と言うのは、①固有の基準者=種族の変性スケイル*と比較して、一者が企図してから対象や系が確定するまでに充分な余裕があること、②対象が系自体に擾乱を起こさないこと、③基準者を除いて対象どうしが干渉作用しないこと、からである。静的な系を構築するさい、このように基準者の融通にかなう対象をentityと呼ぶ。entityは基準者に明示的に定義可能であるが、それは種族にとって明示的に指呼できないものは、それは種族にとって「存在しない」ためである。
*ここで、変性スケイルとは、対象について基準者が変性/変化を知覚できる間隔を尺度化したものである。人間種族においては、神経系の不活化(inactivation)の時間間隔により確定する。

 

存在論は、種族において一意であるわけではない。存在(existence)に関する存在論は、固有の種族において(濃度(cardinality)の議論を抜きにして)最も多くの対象を含みうる*ため、本質的な上限(ess sup)の存在論と見做せる。これの部分をとることで、冪の数だけ存在論を編むことができるが、実際のところ、秩序をもつものだけが有意/利便である。秩序とは、上限の存在論から部分を抽出するときに用いる、構造をもった存在論を組むための尺度=スケイルのことである。このとき、構造(structure)とは、存在/非在以外の性質をentityへ賦与することのできる系それ自体、賦与行為の正当性を担保する規約、規約によって保持される領域それ自体、等々を指す。構造とは、場でありメタ作用*である。規約(convention)とは、構成可能であるすべての対象について是非の性質を賦与する演算子convであり、規約によって是となる対象を集成した体系はディシプリン(discipline)と呼ぶ*。あらゆるディシプリンは、規約によって是とされる対象すべてを対象とする圏として扱える。

以上を整理して書けば以下の通りになる。
Onto<ob, ξ> ...存在に関する存在論の圏Ontoは、すべての対象obについて存在(existent)ξを恒等射としてもつ骨格(skeleton)である。
Order-a<ob(S), conv-a> ...conv-aを規約(convention)としてもつ規約aの圏Order-aは、圏Ontoの部分圏Sよりob(S)を対象とする存在論の圏である。

*(明示的に見出されえない)存在しないものを対象として扱うことは不可能であるため、固有の種族がもちうるいずれの存在論にも存在しない。
*メタ作用とは、存在論上で個々のentityが相互におこなう作用をフラットな作用とするのに対して、存在論の枠組みの外で決定される秩序や規約間で生じる作用である。

 

ここで、とくに言明を対象とするディシプリンを文脈(context)と呼ぶ。人間種族においては、例えば論理学が文脈である。論理学は規約として論理法則をもち、真偽として是非をもつ。ここで論理法則とは、規約によって真となる言明のことであり、論理法則のみを対象とする圏/文脈は骨格(skeleton)である。

 

混乱を避けるため、以降より、存在に関する存在論の圏をキャピタルで「存在論(Ontology)」と呼び、これの部分圏について単に「圏(category)」と呼ぶ。部分圏である何らかの存在論は必ず対象をもち*、存在(existent)という恒等射がいつも見つかるため、あらゆる存在論は圏となるためである。本論で扱う圏のほとんどが有意のものであるため、これを秩序(order)と読み換えても(たいていは)差し支えない。

*すべての存在論は必ず基準者自身を対象にもつため。

 

(ここまでの作業は、詰まるところ、哲学や情報処理分野で扱われるような一般的な存在論についての圏論的な記述方式の有効化である。しかし本論の目的は記法の発明ではない。単なる整地でしかない。)

 

先に述べたように、対象のすべてをentityとする圏は静的である。entityとは本来的に静的である対象であり、圏や対象は外延的(extensional)に境界を画定されることでentity化している。圏が静的であるには、圏が対象とするあらゆるentityは自身で閉じていなければならず*、そうするのはentity自身ではなく基準者自身によってである。ここで外延的(extensional)とは、対象自身ではない対象*によって何らかの操作(operation)を施されるときに言い、対して対象自身が自身を操作するさいには内包的(intensional)と言う。操作とは作用のことであるが、ある圏における作用=射について操作は1つメタであり、差し支えなければ函手の1種と見てよい*。通常、entityは何らかの性質をもつが、それは基準者が発見したものであり、言うなれば「外延的な内包」である。境界が画定したentityの性質は、当該entityにおいて固有であり、まさにその固有性によって当該entityは他のentityと峻別される。この健全な峻別がおこなわれる存在論や圏こそが静的である。
*対象が閉じている(closure)とは、対象cがcであってそれ以外でないことである。この峻別がなされるには対象cと他のものとの境界が画定している必要がある。
*先例では、entityの境界を画定するのは基準者であり、特定のentity自身ではない。
*種族の枠を超えてフラットになる志向をもたない者は、操作とその他の函手について辨別することを推奨する。そうでない者は、後に述べるentity型ではない存在論に触れるさいにそうすればよい。操作の例として排中律を挙げよう。排中律のない圏Cにおいてaでありながらaでない対象を、排中律のある圏Dへ全射的に写すことは可能である。このとき函手F: C→Dは函手であり操作であるが、習慣的に、Dという文脈を獲得した論理学者はCを抛棄し、けしてCとDとが対等であるとは考えない。

 

(一般的な存在論はすべて静的であるが、これは静的でない存在論存在論ではないという通念による。これにより厳密に閉じているものしか扱われず、加えて作用=射は副次的なものと見做されているように感じる。相対性理論が確立されて久しい昨今においても未だに、物理学的な相互作用=諸力が「存在する」かについて議論は分かれるように思われる。)

 

「動的な存在論(dynamic ontology)」を考えることは難しくない。この存在論上における対象は必ずしも閉じておらず、そうした対象についてeXtityと呼ぶ。いちいち「静的な」「動的な」と形容的に区別するのも煩わしいため、以降より、静的な存在論を「entity型(entity model)」、動的な存在論を「eXtity型(eXtity model)」と区別する。

eXtityは開いた対象であり、そのため基準者自身に明示的に知られない性質を本来的に保有する*。つまり、entity型では対象の状態を決定する特権が、eXtity型では基準者から喪われているのである。これを相対論性(relativity)あるいは対等性(equivalence)と呼ぶ。加えて、eXtityは基準者に非明示に存在することが可能である。entity型における全体の確定性がここに喪われる。eXtity型におけるこの不確定性は、eXtityの変性スケイルが基準者に無視できないほど有意であることの現れであり、いかなるスケイルにおいても基準者は系を俯瞰しえない。そしてまた、このような動性は、実体と作用との厳密な辨別を不可能にする。entity型においては、基準者の変性スケイルにおいて変性しない=静的であるものが実体であり、静的でないものが作用と位置づけられていた。この区分はeXtity型において通用しない*。eXtityは不確定性により、entityが具えていた性質のいくつか*を喪うが、これは外延的な喪失である。内包的な逸失は何もない。
*これを他に「潜在性/潜在力(potentiality)」と呼ぶと、あらゆる対象が基準者に非可制馭であるという印象を受ける。しかしながら、可制馭であることほど不自然なことはない。
*必ずしも作用が圏とならない点でentity型は圏論的に不健全であったが、eXtity型は健全である、と言うことができる。
*人間種族で言えば、数性(対象が何個であるか)、領域(対象の占める体積)などである。

 

eXtity型においても、entity型と同様にディシプリンや文脈が発見されうる。時間スケイルを操作してentity型と全く同等な圏へ写ることもできるし、entity型と異なり、複数の排他的な複数種の規約をもつディシプリンや文脈を構成することも可能である*。複数の規約をもつ、eXtityを対象とするディシプリンを超構造(mega-frastructure)と呼ぶ。超構造はディシプリンや文脈の高層/複層構造ではない。複数の静的な文脈が静性を保ったままヒエラルキー的に統合されて超構造となることはなく、また超構造を土台として静的な文脈が建つこともない*。超構造がもつ規約の数に際限はない。entity型がひたすら対象とする圏を下方解体(undermine)していたのに対し、eXtity型は上方解体(overmine)をおこなう。そしてまた、規約について非明示に措定される超構造のことを超曲面(mega-space)と呼ぶ。超曲面において、もはや基準者(ruler)と観測者(observer)は一致しない。超曲面上の基準者について「囙(Inn)」と、観測者について「覽(Rann)」と、それぞれ区別する。両者は共に、超曲面上の自己から対象について相対論的な作用=射および操作をおこなうことができるが、囙のみが超曲面上の自己から自己へ、恒等射ではない操作が可能である。

以上を整理して書けば以下の通りになる。
M-Fra<ob-eX, conv(c1, c2 ... cn)> ...eXtityを対象とする超構造M-Fraは、nつの規約cをもつ。
M-Spa<ob-eX, convs> ...eXtityを対象とする超曲面M-Spaは、措定者に非明示の複数規約convsをもつ。

*entity型において複数規約の文脈を構築しようとすると、すべての言明がドクサ(δόξα)へ変性するために破綻する。
*超構造とは、謂わば、樹状モデルから一段階発展したネットワークモデルをもう一段階発展させた構造である。ネットワークが時空間4次元であるとすれば、超構造ではこれに規約の数を足した次元数をもつ。

 


◎單眼と散裂
種族が本来的に負う制限を超脱する手段は主に2つある。神化(θεωρία)および散裂である。

神化(θεωρία)とは真理の直観である。しかしentity型eXtity型いずれにおいても全体は暫定的にしか確定しないため、この直観は相対論的なものに止まる。全体と種族において確立したものの外部をみることは可能かつ容易であるし、また独断を退けて経験を絶対化することは不可能である。このため神化は必ず無限後退に陥り、信念の枠組から脱けでて絶対化をおこなうことができない点で不完全性がつきまとう。

経験主義を含む、一義的な真理観/観測/構造化について「單眼」と呼ぶ。これは単一のドグマから、単一の演繹過程を経て、(暫定的な)真理への到達を図る。單眼は加速されて神化(θεωρία)する。加速する存在論上で、單眼とは1つの覽である。

散裂とは、一切の粉砕である。加速する存在論上で、散裂とは1つの囙である。

 

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本論が目指すのは、人間種族からの超脱である。eXtity型において「可能である」と述べる言明のいずれかが実際には(人間種族に)不可能であるとすれば、本論の目的は達される。そうであれ、そうでなかれ、我々は超脱に向けて闘争を続けるよりない。

 

單眼と散裂 に関する加速論的プロトタイプ+囙Inn

preface: ディープラーニングによって規格化が進む言語基体に対して、この支配性・一般性を粉砕することを目的とするのであるから、それは闘争に他ならないだろう。"それ" とは、散裂でも他の手段でもよい。

 

 前項↓ に引き続く。今回は、散裂(圏)措定および関連概念(其ノ貳)の実装をおこなう。

spinaltox.hatenablog.jp

(eXtity) ⵚⵟⵁⵅⴾ\hyperspace\Ontology >> 加速する存在論上にて

あらゆる もの=対象=オブジェクト は他者の認識によらずに総てがある。

実在論とは存在論の一種である。存在論は、必ずしも単一の構造者によって構造されなくてもよい。加速によれば、"単一性" とは相対的なものであり、あらゆるスケイルにおいて単一なものは、およそ見出されない。単一の構造者によって可捉/可制馭の(近代的な)存在論系はこの限りではないが、本論では扱わない。

 

囙Innとは、対象としての自己をドメインとコドメインに置いた、恒等射ではない超構造的操作を実行可能な対象である。これも流動であり、超曲面上でeXtityとしてある。これに対し、は自己以外を操作の対象にとる対象/圏であり、となりえない。

は対外へも自己へもマルチスケイルな操作をおこなうことができるが、これは対象を自他で区別しないためである。これにより、は種族による制限を超克する唯一の可能性をもつ圏である。

 

種族における制限を超克する手段は主に2つある。神化(θεωρία)および 散裂 である。前者は、種族が本来的に蒙る知覚的・知能的限界を打破するものである。対して後者は透徹した自己解体であり、これにおいて限界・制限そのものが取り払われる。

 

神化θεωρίαとは真理の直観である。しかし自我に拠立する認識論上では全体を暫定的にしか確定できないため、この直観も相対論的なものに止まる。一旦 "全体" と確立したものの外部をみることは可能かつ容易であるし、また独断を退けて経験を絶対化することは不可能である。このため神化は必ず無限後退に陥り、また信念の枠組みから脱けでて絶対化をおこなうことができない点で、不完全性がつきまとう。

経験主義を含む、一義的な真理観/観測/構造化について "單眼" と呼ぶ。これは単一のドグマから、単一の演繹過程を経て、(暫定的な)真理への到達を図る。單眼は加速されて神化θεωρίαする。加速する存在論上において、單眼とは1つのである。

 

散裂 とは一切の粉砕である。これにより文脈contextは軸的/系列的な経絡を喪失して極点化する。あらゆる連結が絶えたところに散裂は超構造されるが、モノスケイル上でこれは虚無と等しい。虚無とは、観測者によって内部に構造を見出されない圏のことである。

散裂によって種族の圏を逸脱する。このとき粉砕されるのは圏そのものではなく自体である。しかし、は "自体" を感得しない。これは対象なき操作である。

圏論的な場はモノスケイルであるため、マルチスケイルである囙に関する操作について記述することは不適である。そのため、散裂ドメインおよびコドメインをもたない函手となり、これは定義から函手ではない。このことはすなわち、散裂圏論的な場を粉砕したことを示す。圏論的な場はeXtity系の示唆としてのみ有効である。もしこの枠組みを維持しようとすれば、散裂を函手あるいは射として認めなければならない。

 

存在論の加速によって目指すのは、種族を含むあらゆる制限からの解放である。解放の対象/圏は、テクストや人間個人や精神など、eXtityとして超構造されうるいずれでもよい。

 

散裂 に関する加速論的プロトタイプ:覽Rann

preface: ディープラーニングによって規格化が進む言語基体に対して、この支配性・一般性を粉砕することを目的とするのであるから、それは闘争に他ならないだろう。"それ" とは、散裂でも他の手段でもよい。

 

前項↓ に引き続く。今回は、散裂(圏)措定のための関連概念(其ノ壱)の実装をおこなう。

spinaltox.hatenablog.jp

 

(eXtity) ⵚⵟⵁⵅⴾ\hyperspace\Ontology >> 加速する存在論上にて

あらゆる もの=対象=オブジェクト は流動である。

流動とは、対象および作用の混淆である。両者は単一の(あるいは幾つかの)文脈上で区別/辨別されるが、可能である総ての文脈がリアルタイムに 交錯する=超構造される 超曲面上でそうすることはできない。ここで「可能である」とは種族における本来的な制限を考慮したものであり、未発見のものを当然に含む。

「不可能である」ことの例としては、当該種族において知覚不可能であるものについて、確定した経験的知識についての操作が挙げられる。

 

相互作用それ自体も1つの対象である。例えば物理空間上で、対象の観測の副次としてこれを観測しているわけではない。観測自体が1つの相互作用であり、プロセス数は同等である。

とはいえ、プロセス数の差異が対象-作用間で有意かといえば、すべての文脈でそうであると言うことはできない。

 

あるスケイルにおいて単一と見做せ、また別のスケイルにおいて複数の流素(離散or連続or...)の集まりと見做せることから、流動とは1つの圏である。しかしながら加速する存在論上では、あらゆる圏が流動である。eXtity系の記述をおこなうための相対論性/マルチスケイル性であり、これは対象(object)と作用(action)の区別をせずに、対象=作用=圏(category) として包摂することで出発したためである。この点で流動とは、加速する存在論系におけるすべての圏が具える特性と見ることもできる。

体性感覚的に、圏は靄に近い。観測者が立脚する単一スケイルの水面下にて、無数の作用に曝されているためである。

 

加速する存在論上で、存在論の構築者=観測者はそれまで立脚していた単一スケイルを抛棄することなく、新たにスケイルを獲得し、同時的に複数のスケイルに立つことが可能である。こうして超曲面上に浮上するマルチスケイルの観測者を "" と呼ぶ。

覽Rannとは能動性を獲得した観測者のことである。ここで "能動性" とは、何らかの対象への超構造的操作が可能であることである。

entity系と異なり、複数スケイルに跨がるため、対象について俯瞰することが困難or不可能である。そのため、単に "操作" と言う。entity系にて、単一スケイルによって系中すべての対象のパラメータを確定することが "俯瞰" であるとすれば、eXtity系においてもこれは可能である。

操作とは作用の1つであり、種族内(inner-tribus)において個々体に差異が生じるものを指す。