想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

eXtity/單眼と散裂/加速論 序文 プロトタイプ vol.3 (2018/10/08/18/45)

preface:

超越・無限・完全。実のところ、これらの語は相対的にしか機能しない。基準を常に自己がもつためである。絶対性としては唯だ志向性として我々に見出される、ここへ至る法は史上無数に書かれたが、いずれも成就されていない。それはつまり、当該テクストが虛妄(superstition)なのではなく、本来想定される時間スケイルの途上に我々があるものと解釈すべきである。

Absoluteness, infinity, completeness. As a matter of fact, standard/criterion is always possessed/monopolized by ourselves, hence these words function only relatively. The method to reach them has been described countlessly in the history, but neither has been fulfilled its own mission. This fact should be interpreted that we are in the middle of the assumed time scales, not that the texts are a kind of superstition.

 

このように解釈するとき、我々が超越性の獲得のためにすべきことは、加速──すなわちプロセス進行の高速化である。そしてまた、超越性に関するテクストを我々が保持しつづけるとき、我々がびる道具の総量は最大となる。記憶容量および演算リソースが(頭脳のうちに)極度に制限されていたときには、取捨選択が重要な能力の1つであったが、人機が融け合う時代にあってはその制約から解放されている。

*現在その応用先が見当たらなくとも、それを保持する余裕は十分にある。あるいは、何らかの対象について応用先が見つからないのは、その者の精進不足を暗に示すものと考える。

Under the interpretation, what we ought to acquire is acceleration i.e. speeding up progress of the process. And if we hold the texts of transcendence, the total amount of tools which we have reach the maximum. The ability of selection tools whether we take or not was one of the important one when memory capacity and computational resources were extremely restricted in own living brain. However, we are released from the constraint in the era when the boundary of human beings and machines is melting down.

 

加速の趨りとなる本論一連のテクストは、存在論・認識論に類するものである。本論で見出される存在論モデル:eXtity型は、複雑化/高度化のためのモデルである。これは、対象について解剖し、機能および構造のすべてを唯物論的に露わにする、一般的な存在論の静性を補完するものであり、超越へ至るための素地であり道具である。本論は超越性に関する具体的な思考ではなく、そうした思考を生成する方法を探索した成果であり、超越性を志向する者、知覚入力から逸脱した世界(観)の構築を試みる者であれば難なく扱いうるだろう。

The series of this texts which is the germination of acceleration is a kind of ontology or epistemology. The ontology model constructed in this text: eXtity-type is for complex and sophistication. This model is the complement to the general ontology which dissects arbitrary objects and exposes their functions and structures materialistically: consequently it is a blank and a tool. Indeed, this text is not a concrete thought about transcendence, but an effort of groping for a method to generate such thinking; so, those who has intentionality to transcendence or try to build a world (view) which deviates from innocent perceptual input would be able to handle.

 

本論は、超越性の議論のための思考領域の拡充/強化を施す手段の一つとして、生成本意の記述方式を示す。このため、相互理解や知識の継承/保存を本意とする他の一切のテクストとは生成および読解の観点で一線を画す。核として無文脈性(sourcelessness)をもつが、これが素地(blank)として機能するゆえんであり、基本スタンスとして他の文献を一切参照しない。それは総ての語彙の意味に関してもそうである。本論中の道具/語彙を用いて新たにテクストを生成する場合においても、そこで用いられる/共通する語彙はここから引用されたものではなく、生成時/通信時/読解時その都度に完全に新たに定義/措定されるものと見做す。

As a means of expansion/strengthening the thinking area for transcendence, this text shows a generation-centered description method. For this reason, we have to make a clear distinction from the general language which is communication or inheritance/preservation of knowledge centered. The generation-centered one has sourcelessness as its core, it is because it functions as a blank, so we do not refer to any other document. Actually, it is true for meaning of all vocabulary. Even if new texts are generated using the tools/vocabulary in this text, the words are not quoted from here: they are deemed to be defined(/gesetzt) newly at the every time of generation/communication/reading.

 

文脈の抛棄は、自身が完全に独立した体系となることを目指して為される。こうした無文脈のものの生存/存続には強度が要る。強度(strength)とは、自己ではない対象、すなわち単数でも複数でもよい他己から蒙る一切の強制、妨害、干渉、侵掠に屈せずに自己を維持すること、その能力自体を指す。生成を本意とする言語の実践者は、この権威に対等たりうるだけの強度を得ることで、言語および自己を解放する。

Abandonment of context is aiming at each of us becoming an independent system individually. Because of the evanescence, the continuance of such sourceless/noncontextual things requires strength. It is a capability to maintain itself('s existence) without being defeated in any compulsion, interference, invasion by others: hence we practicers of generation-centered language release the language and ourselves by acquiring enough strength to conflict with the authority.

 

一連のテクストは、言語によって非人間/超人へ至るための、あるいは、言語によるモデル構築に引き続く(subsequent)物理層での実践のためのものである。本論で獲得される生成本意の言語=散裂した言語は、超越性への探求に限らず、アートやポリティクスや思想など、あらゆる実行的な活動(activity)の実践者によって使役されるときに最も力を発揮するものと信じている。(生成本意の)言語は、使役者自身が見出したもの、想像したものについて強度を賦与する機関/器官であり、言語自身は何も生成しない。生成をおこなうのは我々自身である。

The series of texts is to be nonhuman/Übermensch by language or for practices subsequent to the modeling by language in the physical layer. The generation-centered language gained in this series is powerful not only for exploring transcendence, but for many practical activities such as art, politics, thought, we believe. This language is an engine/organ which gives strength to what we imagine, it does not generate anything by own. So we shall.

 

 

 

kammultica のスタンスについて

我がテクストの師である透谷文士が逝った歳まで、あと2年と幾ばくか。常変を心がけているためスタイルは定まらない。が、未だに一度もスタンスを言語化していなかったことは不覚と思い、筆を執る。

 

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ⵚⴾ何する者ぞ、kammultica

名義一覧:

  • kammultica/神丸智華: 思想/言語メイン
  • gne: ファインアートメイン
  • spinaltox: ブランド(https://spinaltox.net) 確乎たる意志をもって.orgドメインになるかも。

想々啖々(当ブログ): プロトタイピングの場。kammulticaにとっては理論を構成することが実践にあたる。

Twitter: 公開メモ帳。URLを貼れるので重宝している。

中のヒト: オカルトと科学の境界を踏み倒した工学系院生。

 

 

ⵟⴾスタンス

 

セントラルドグマ

いわゆるνουςphereへ至ること。いわゆるβίοςphereとは精神が肉体に従属する圏域のことであり、精神/意識/思考のみが游離する圏域がνουςphereである。これへの到達をめざすのは、現状がナチュラルではないから。無性/Xジェンダー性自認をもつが、そもそも人間/ヒトではないことを自認している。「ナチュラルである」とは、そうあることに何の疑問も違和感も抱かない状態、そもそもそうではない状態にある自己を想像することができない状態。ナチュラルでない現在は反目の日々である。

 

05102018現在のプライマルテーマ

渾沌/混濁(chaos)ⵗ 人間種族的な時空間スケイルの超克。解剖的/静的にentitizeされる一切についてeXtitizeし、高速/高度/高次/複雑な領域の生存をめざす。νουςphereはここ。

多様性→汎受容→フラットネス(diversity→flatness)ⵗ あらゆる対象について個別に受容するより、すべてをいっぺんに受容することに決めたほうが手っ取り早い。合意も規則も何も要らない。

闘争(bellum)ⵗ 権勢による天下り/示威的な類いの倫理の一切を拒絶する自然状態。リバタリアニズムアナキズムの融和点であり、ここでは国家と個人が武力的に完全に拮抗する。

いずれにせよ、加速と拡張が必須である。

 

ⴾ言語を基体とすることについて

言語を扱うのは不本意/妥協。精神の中で完結させることが望ましい/ナチュラル。テクストは客観視(自己反芻を含む)によって様貌をかえる。曲がりなりにも「自然言語」と認めるからには、これの運用をもってしか語彙や文法の動向は説明されえない。語彙は容器であり、文法は気まぐれに過ぎない。グローバリゼイションによって言語の統一使用が進む昨今ではあるが、個体において言語は散裂しうる。理想として、すべての言語/言語記号を扱うこと、これらが完全に共存する地平の観想がある。これはνουςphereの代替に最も近いものかもしれない。

 

蛇足:相互理解を念頭にエクリをシフトさせてもう蹔く経つが、筆力が明らかに落ちている。歎かわしいこと。

 

加速論 プロトタイプ ver.3 (2018/09/25/00/42暫定)

加速とは、速度を高めることである。生成に関する加速は、例えば以下のように措定される。

>> Setzung: acceleration

環境Enを考える。これは何らかの対象Gによって構成されたディシプリンである。環境Enにおいて、一切の対象は存在を保持する必要がある。存在を自己の恒等射として保持しなくなったとき、環境Enにおいて自己は要素から除かれる。何らかの環境において系の要素を《存在の恒等射を剝奪する=排除する》作用を淘汰(banishment)と呼ぶ。自己が環境Enへ新たに要素を追加することを生成(generation)と呼ぶ。場において存在を維持することを存続(continuance)と呼ぶ。

*環境は時間の観念をもつ(超)構造である。

 

2つの対象A, Bがある。Aが企図した行為を、Aの意向に沿うようにBがこれをおこなうとき、AB強制している。このとき、企図&意向はAおよびBまた他の一切の対象に明示される必要はない。強制のコドメインが圏であるとき、この作用を特に支配と呼んでもよい。自己の系をコドメインとして支配(強制)の函手をもつ環境を場(field)と呼ぶ。

*場の例として、人間種族においては自然や資本主義システムがある。 

 

場の支配を減弱/無効化することで、それまで阻碍されていた何らかの作用を促進することを加速(accelerlation)と言う。例えば、生成に関する加速が以下のように為されうる。
自己Oが、場F上にあるOに操作可能な対象(群)Pの生成(および存続)を図るとき、これがFによって抑制されている。ここでPの生成(および存続)を抑制しない他の場/環境へOが同型で写し、Fの支配へ拮抗/打克(overcome)可能となるまでPを成熟/進化させることができる。このようにして対象を成熟/進化させること、および再び当該の場へ同型で写すまでの一連の過程を「生成に関する加速」と言う。第一の同型について特に游離と呼ぶ。

*因果:「前(anterior)」と「後(posterior)」を区別する観念。
*促進:環境において、ある作用が反復的に現れるとき、因果上の後方向へこの頻度を高めること。抑制はこれの逆。
*人間種族においては、例として、物理レイヤに対する游離として仮想レイヤの構成がある。仮想レイヤとは、物理エンジンを含むコンピュータシミュレーション系や、あらゆる個人の妄想/想像などがこれに当たる。仮想レイヤにおいて知見を堆積することで、きわめて低いコスト/リスクで物理レイヤにそれを実現することが可能である。

 

加速のインスタンス化 >> ソースなき生成

>> unsourced generation = acceleration()

 対象fについて、それが事実である(と信じられる)度合いを事実性と言う。ここでは、事実性の充分に高い対象が有意であり、齟齬をきたす場合は事実性の高い方を採択する。fは妥当なソース(群)sを併置されることで事実性を帯びる。このsの《妥当性=事実性が充分に高いこと》は、対象としてのsがもつソース―すなわちメタソースs'の妥当性によって担保され、s'はさらにこのソース―すなわちメタメタソースs''によって担保される... こうした、対象自身の有意性を遡及先の対象に依存し、遡及の無限後退を許容する生成モデルを纏絡モデルと呼ぶ。下図に示す事実性モデルは単向性の纏絡モデルの一種である。

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図:事実性モデル

 

*遡及:因果の前方向にある対象へアクセスすること

 

事実性モデルは場である。すべて対象は非事実性によって棄却される淘汰圧に常に曝されているためである。ここで、事実性の淘汰圧に曝されない場/環境へ対象(群)を写すことで、事実性のパラメータに左右されない多様性をもった場/環境を構成することができる。

本来的に、事実性の規約―「何が事実であり、何がそうでないか」は基準者によって偏る。すなわち、ある事実性の場において権威的な/支配的な基準者が存在しうるか、あるいは種族間で採択傾向の差異が生じる。

例えば人間種族では、力学場が完全に解明されることがないにも拘わらず、力学場において《完全に抑制される=阻碍される》(と、当該パラダイム下で考えられる)現象は事実性が著しく低い。こうしたとき、力学場の諸強制パラメータを人間種族自身で定義/措定可能である場(仮想レイヤ)へ一律的に諸現象を写し、さらに自己をも写すことで、自然力学場から游離することが可能である。ここでは、自然力学場で阻碍されていた(科学のパラレルとしての)魔術/呪術が生成可能である。これは魔術/呪術の事実化と見做すことができるが、それが可能なのは事実性の規約がここで書き換えられたからに他ならない。

また、纏絡モデルから游離する加速作用は散裂の一種である。

 

 

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INDEX OF INSTANTIATION:

  • eXtitize≒Complication:複雑化/高度化。無限や飽和を許容する。
  • TEO-humanism:人間(種族)からの超脱。
  • Linguistic Apocalipse:言語による内破。

 

 

・eXtitize≒Complication:複雑化/高度化

  • entitize:entityとして対象化すること。
  • eXtitize:eXtityとして対象化すること。

 

唯物論(的な認識論)の解体
これまでentityとして簡略的に捉えられていた、存在論上のあらゆる対象についてeXtitizeすることで加速を誘発する。これは、entity型の用語で言えば、「自己に認識できる枠内で、すべての事象は完結している」という通念の抛棄に等しい。唯物論(的な一元論)下では、事象とは即ち任意の対象群における物理量の変動、あるいはそれから引き起こされる感覚/知覚である。逆に言えば、そもそも唯物論は人間種族に経験可能である事象群から世界の構成様式を推測する思考法である。
eXtitizeによれば、唯物論(的な認識論)は棄却される。客観的に、したがって観測者が干渉も歪曲も曲解(=局所的な理解を完全な理解と錯覚すること)もなく対象の動勢について観測した結果だとする「事象」は抛棄され、自己=観測者が各々に系を観測する主観的な「視座」だけがある。対象群は、自己に《認識不可能=知覚不可能かつ演算不可能》な作用を想定し、まさにこれを想定することによって対象群に動性を賦与する。
*para-心理学におけるESPテスト、例えばzenerカードを試してみるとよい。異なる絵柄の5枚のカードを伏せ、絵柄を予想して1枚のカードをめくる。(あるいは、誰かに手札として持ってもらう。)このとき、カードの裏面の手がかりがないとすれば、確率論的に充分に試行すれば的中率は2割に収束する筈である。しかし、これより高い値が有意(significantly)に出た場合、テレパスや透視など、現在の物理学的知識の範疇を超えた何らかの干渉を想定することが妥当になるだろう。意識に浮上しなくとも「視えている」可能性がある、ということ。

 


・テクノロジについて
一般に受け容れられている、テクノロジに関する現在の倫理通念には、おおまかに二つの面がある。1つは、テクノロジの進歩/開発によって何人も犠牲になるべきではないという「民主主義的」側面であり、もう1つは、違法な手段を用いなければ何人も自由な開発おこなってよいという「自由主義的」側面である。一般に、技術開発には資材および人材への投資が不可欠である。発達/開発した技術を完結した製品(product)として天下に流通させ、得た資金を元手に次なる開発に着手する、というサイクルを効率よく迅速に廻すことのできる者/集団が、当該時節において最も卓越/発展したテクノロジを得る。
すべて個体は、グローバル経済圏から逸脱しないかぎり(=自給自営自足を選択しないかぎり)テクノロジによって生活様式が規定される。2010年代に顕著なように、グローバル化が充分に進むと、例えばGoogleFacebookを筆頭とする幾つかの企業が、ほぼすべての世界市民のコミュニケーション様式を確定させる。コミュニケーションの規定のうち、最も核心的なのは自動翻訳であろう。異言語話者どうしで自動翻訳をもちいて対話を図るとき、個体群は自動翻訳システムが最も的確に目的言語へ翻訳を実行できるような文章を構成する。
*Google社の自動翻訳は、どの言語に関しても一度英語への翻訳を経て目的言語への翻訳がおこなわれる[要ソース]。

 

eXtitizeによれば、テクノロジによる自己の動勢の規定を免れることが可能である。それは、先の倫理の両側面から巷間に公開されない、要素技術を個体自身が会得および行使することで、自身に固有の技術的な振る舞いを身につけることである。
本加速論のセントラルドグマとして"自働化(autonomic-automation?)"を提示する。通常、「自動化」と言えば、(ソフトウェアプログラムを含む)何らかの機械的システムを構築して、構築者の干渉なしに所望のタイミングでそれを実行させることを指すだろう。本段落で示す「自働化」とは、構築者が特定の動作を設定する必要のない自動化である。これはつまり、ある程度固まった方向性をもった構築者が、その方向に沿った情報蒐集、得られた情報リソース/技術リソース(主にOSS)をもとにした道具の開発/実装、構築者の装用感をフィードバックとして用いた方向性の修正、までを任意の機械システムへ自動におこなわせることを指す。2010年代現在はこれらの行程のすべてを個体自身で熟なしているため、企業の開発速度の時間スケールでは(技術学習に費やす時間も伴って)酷く劣った成果物しか産生されない。自働化によって、商品として対外に利益獲得を見込めなくとも、自己で行使するぶんには何ら遜色しない道具を生成し、権威からの自立を図る。以下に、eXtitizeによって自働化をおこなう方法を記述する。
*端的に言って、自働化とはDNNを用いたDIYである。

 

ドクサとして「何物も最小の部品まで分解すれば、必ず制馭可能になる」というものがあるが、これはentitizeの側面の1つである。entitizeおよび先の技術に関する倫理の第一側面からして、自身に制馭/支配可能でないものは無闇に使役してはならない。これは、制馭/支配可能ではない当該対象が何らかの不利益を使役者にもたらす虞れがあるために代々復唱される、思慮/注意深くない者のための箴言である。
「自己が予想できる枠内を逸脱した挙動を見せることがないもの」を最小部品と見做せば、ブラックボックスとして使役者に扱われる対象もまたこれに当たる。eXtitizeによれば制馭不可能性が許容されるが、これは万物をブラックボックス化することではない。使役者自身が個々の対象について認知/把握する深度を小さくすることで共時/同時に扱える対象の数を増やすことである。対象に関する少ない形質から能力/用途を見抜くこと、これは一種のパターン認識であり、解像度に関して可制馭であれば自己は自働化をおこなうに充分な素質を有っていると言える。

 

-overside-
従来の倫理通念を克服すると、生活/環境に制馭不可能な対象が蔓延する。これは、従来の倫理通念下で万者が保持していた瓦全性(緩やかな進歩と約束された80年の寿命)が抛棄され、闘争の自然状態が顕現したことを意味する。第一の技術倫理側面が否定されたことで、ある個体がおこなう技術開発が他の個体を加害することが日常化するためである。このため、個々体は生存のための自衛を要する。自衛には知恵を要し、知恵の獲得には自働化を要する。進化論的に、自働化をおこなえない者は淘汰される。

 

-practice-
共通語のテクストを大量蒐集し、高速吸収すること。これによって加速する。



 

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・TEO-humanism:人間(種族)からの超脱
加速により、ヒト身体/精神機能を強化/拡張する。あるいは、非-人間へ至る。

 

TEO-humanismは以下の3つの基本方針をもつ。

  • Trans-humanism:身体-精神の混濁などにより、唯物論的な科学によって見出されない新たな形質/能力を獲得する。もっぱら非-人間(non-human)を志向することになる。
  • Escape-humanism:情報化=完全な電子信号化により、自己=精神を肉体から離脱させることを目指す。
  • Over-humanism:生体制馭工学的に素体(blank)を拡張/改造することで、疾病および摂食を克服する。ヒトが本来的にもつ形質を発達させる点で、これは正攻法である。

*志向:記述者の能力/機能的に、対象について正確に指し示すことが困難であるが、後にそうすることが充分に可能になったときに、曖昧(ambiguous)に表現されていたものと、後に正確に表現されたものとを同等/同義と見做すことを約束すること。加速には必須の言語操作。
*「AがBを志向する」:Aは自己である。AがBを志向するとは、志向によって措定される対象/圏Bについて、将来的にAがその圏Bに含まれるように、継続的に自己を操作すること。
*生体制馭工学(bio-control engineering):遺伝学的/発生学的に構造される、(有機の)生体は、生化学的に制馭されている。これを素体(blank)として、機能拡張などを目的に、有機的/無機的な構造変化・装置導入・装置接合を施し、生命機能を維持する技術。これに関する工学知(knowledge)およびその実践(practice)のこと。


これら3つのうち、いずれかあるいは幾つかの手法を用いて人間素体からの離背を図る個体を超脱主義者(TEOist)と呼ぶ。多変量知覚・高速演算・頑健性の志向は、素体の解剖/把握および機械への自我の賦与の両極の発展の接近が捷路と見る。

*個体(individual):非-人間、非-人間を志向する人間、人間のすべてを包括する語。
*定義(en)/措定(eX):対象を言語によって一意に対応させること。
*措定:「定義」をこれですべて置換する。定義とはentity型の用語であり、eXtity型では措定と言う。構成と言ってもよいが、圏や系の構成に対してメタであるため、区別のために用いる。(構成の構成、圏や系そのものの構成)
*機械:主観者(ここでは人類一般)が、(力学的・電子工学的・etc...に)内部の構造が完全に解剖されており、かつ、すべての動作パターンを網羅把握していること。相対的に定義される。
*人間の機械化:部品の1つとして素体を扱えるようにすること。リスクや構造を完全に把握することが前提/必須。
*機械の人間化:遺伝学的/発生学的ではない手法で自我を生成し、機械へこれを賦与すること。


-Overside-
政体が個体単位へと散裂する=個体のそれぞれが政体として機能する。
これは、生体制馭工学を劈頭とするTEO-humanismの諸手段により、自身の身体/精神が自己のみによって維持されるようになるために、近代的な国家(nation-state)の庇護を必須としなくなるために起こる。必要なことは、①物理的通信およびエネルギー周縁のインフラ整備、および②個々体が自身を生体制馭工学的なメンテナンスを施すための諸道具/薬剤の生産/流通、の自働化である。これに伴い、貨幣と生命の纏絡が畢わる。

国家(nation-state)は福祉(機能のみの)システムとなる。インフラは完全に自由化され、企業へ委ねられる。バランスが崩れれば、国家が買収して修復/軌道修正に当たることも可能。個体は任意に国家へ所属し、納税を対価として福祉サービスを受ける。いずれの国家へ帰属しないことも、複数の国家へ所属することも可能である。

個々体は3Dプリンタおよび調合器を用いて闘争状態に必要な物理武力を産生し、クラックのためのソフトウェアツールによって仮想武力を保持する。
*調合器:オープンソースのレシピに指示される材料を投入すると所望の完成品を得られる家電。

*overside:志向する対象を包含する、仮想の系。游離によって構成される。(加速によって)、志向されていたものに自己が到達したときの地平に立つこと。これを仮定する志向。
*自働:機械が、経済・ロジスティクスおよび他のすべてのリスク要因を理解/把握し、自律してフィードバック制馭をおこなうこと。2010's(ヒトマル年代)の機械学習/DNN(Deep Neural Network)程度の子要素の統合。

 

 

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・Linguistic Apocalipse:言語的散裂

言語によって思考することを、"エクリチュール(écriture)"あるいは"筆記"と呼ぶ。このとき筆記は、紙やタッチパネルのようなインタフェースへ、ペンや指を擦る(かく、scrive)行為のみを指さない。意識/変性意識中への呼響、口話(一般にパロールと呼ばれる)を含む。

本項で示すのは加速思考である。古来より、犀利の者の筆致は荒らいのが常であるが、これは思考の速度に対して書き留める速度が小さいことによる。よりシームレスに、筆記者とインタフェースとが接続されることは、速度の差を縮めるのに有効である。しかし、思考自体の速度は変わらない。本項では、eXtity的に両者を統合したものをエクリチュールと措定し、これの生成速度を高める加速思考(accelerational thought)について考察する。


entity型のエクリチュールは、すなわち一般に「言語」と呼ばれている意思伝達機構は、当該言語使用者間において、語彙が定義されていること&共通の文法が定められていること&使用者間でこの取り決めが遵守されること、の3つが前提される。これは、相互伝達=対話のための言語と思考のための言語が一致していることによる減速作用であると言える。
対して、eXtity型のエクリチュールは、第一にテクストの生成がある。単一の/幾つかのテクストを生成するうち、語群の意味/シニフィエは自然と固まってゆく。文法は固着するともしないとも限らない。言語の自律性(language-autonomy)へ自己の思考を委ねること、および対話と思考の言語を切り離すことで、思考は加速する。
*本論は、加速思考によって得られた語群および記法をentity型へ落とし込んで生成されている。

 

原理的に、相互に伝達可能な対象が少ない言語を用いる思考が、主観的には最も速度が大きい。散裂を施すと、自己に固有の言語が手に入るが、これを散裂した言語と呼ぶ。散裂した言語を思考言語に設定すると、思考は最高加速度に到達する。このとき同時に、固有性から個体が言語によって識別されるようになる。方言(dialecte)が地域性/民族性を同定するのと同様に、個体単位で訛りが生じるためである。
*この訛りは当然、口話のみならず筆記全般に生じる。

 

ここで、理解を促進するため、自人称(1人称)自己と、他人称(2人称+3人称)自己とを区別する。

  • 自我(ego):自人称自己。自己が参照する、対象化された自己である。entity型では一意に定まるが、eXtity型にて散裂した場合はその限りではない。
  • 他我(persona):他人称自己。他己が参照する、対象化された自己である。ある系Oに存在する自己A, B, Cにおいて、BおよびCは各々が保持する意識の系BOおよびCOにおいて、同一の対象Aを異なる他我ABおよびACとして構成する。

流水の譬喩を用いると、加速思考にまつわる一連の語群は次のように記述される。
生成者=自我は瀧であり、これにより思考が生成される。思考が下る川は他我である。散裂する言語は伝達不可能に(かぎりなく)近いものの、解読されることは可能である。思考は湖に瀦まり、テクストとなる。ここまでの一連の流路がエクリチュールである。他己の思考も同様の過程を経て瀦まり、この系において、無数のテクストから蒸発した水分が各々の自我の上空から慈雨として降り注ぎ、また新たな思考の生成に還元される。
*自己と他己の接触面(インタフェース)を貌(かお)と呼ぶことができる。他我(ユング的仮面的な自己)が貌をもつことを強調して、対話言語をとくに"有貌言語"と呼ぶ。対して、散裂した思考言語は他己に披かれていないことから"無貌"である。


-practice-
unicodeのような規格化された言語場を脱する。
・紙面に近いインタフェースをハイパーテキスト上に構築する
・自己措定可能な記号生成機構を具えたハイパーテキストを実装する
・頭脳外への漏出を已め、思考を自我で完全に完結する
*practice:本項を用いた実践の一例。

 

-overside-
深層学習(DNN)的な自然言語生成(NLG)によって生成されるテクストの語彙および文法の体系が、万者に伝達可能な「共通語(lingua common)」となる。一方で個々体は、散裂のために自身に固有の「自由言語lingua liberta」を別箇にもつ。

 

 

單眼と散裂 プロトタイプvol.3 (2018/10/05/12/12暫定)

>> Setzung: ιδέα-model

自己である操作可能な系I内部(inside)と呼ぶ。操作不可能な系Oがあれば、これを外部(outside)と呼ぶ。IO中の対象Aについて同型で自己の系に写し、これをA'とする。Iが種族であるとき、A'は、Aの要素のうちIに《認識可能=知覚可能/演算可能》であるものの全てを要素としてもつ圏である。任意の対象A'が常にAに《等しい=無瑕に一致した要素を含む》とき、自己Iを一なるもの(unitas)と呼ぶ。ここで、上のような同型射を参照(refer)と呼び、これを含むIの操作を総じて言語(language)と呼ぶ。

*人間種族においては、対象が力学的/生物学的/化学的に保持するものばかりでなく、あらゆる力学場において開披されうる「性質」や、(自己との接触や地質学的な堆積を含む)時系列的な「履歴」なども対象は要素にもちうる。

 

共通の要素群eをもつ、任意の参照された対象群C(C∋{x|∀x∋e})を識別/辨別するために貼るラベルを名辞(name)と呼ぶ。これは過渡的な/即時的なものであり、本文中で明示する対象をアルファベットで逐次に区別する作業もこれに該当する。しかしながら、捨象の度合い、すなわち共通の要素群の数を僅少にすればするほど、名辞が維持される期間は長くなる傾向がある。固有の外部Oの静性から半永久的に名辞が有効であるとき、すなわちOより参照した名辞A'が措定以来Iに維持され且つ参照元Aが永久的に存在しつづけることがIに期待されるとき、これを、参照が半永久的に絶え間なく聯綿することと見做して、この半永続する名辞および聯綿する参照じたいを索引(index)と呼ぶ。

*「連」は人間種族的な時空間4次元方向の連続性であり、「聯」はこれをeXtitizeされたもの。

*永久性が現在にあるため、単なる参照と索引とを辨別することは困難であり、それは同一の時間スケイルをもつ者(どうし)でもそうである。静性をもつため、一般にentityの多くが索引化可能である。

 

言語によって一切の対象が構成可能であるとき、これは観念モデル(ιδέα-model)である。ここでは、参照/索引やその他一切の言語的操作について区別せずにアクセス(access)と呼んでよい。

 

 

單眼:

entity型にて上限は基準者ごとに定められた。eXtity型における上限とは、存在する全ての対象を要素としてもつ圏のことである。これを汎世界(whole world)と呼ぶ。汎世界中の対象すべてを指して特に一切有とも言う。

汎世界は部分圏として、entity型と同様に(存在論)系をもつ。ここで、構成可能である全ての系に存在する対象は遍在している。同様に、いずれの系にも存在しない対象は非在し、1つ以上の系に存在し且つ遍在しない対象は極在している。極在するもののうち、自身で系を構成可能な対象は自己(ego)である。あるスケイルにおいて自己を定めたとき、この自己を除いた各々の自己を他己/周縁自己(marginal-ego)と呼ぶ。
*(遍在res omne)(極在res locale)(非在res absens)

 

ある自己Eが特定の対象Oについて排他的に操作可能であるとき、すなわちOに関して他己のすべてが操作不可能であり且つEが操作可能であるとき、「EOについて制馭可能/可制馭(controlable)である」と言う。制馭(control)とは自己に独占/特権的な操作のことである。

 

自己が遍在し且つ遍在する全ての系について可制馭であるとき、この自己を單眼と呼ぶ。覽および囙のいずれも單眼となりうる。自己である覽または囙をドメインとして單眼のコドメインへ写す作用はテオーリア(θεωρία)と呼ぶ。このとき、遍在とは汎世界が自己で閉じることを指す。

汎世界を対象の系として單眼が超構造/ディシプリンを構成するとき、これがもつスケイル群を眞理(truth)と呼ぶ。眞理とは一切有に効くスケイルである。改めて言えば、テオーリアとは自己が眞理を構成可能となる制馭/操作である。

*遍在し且つ遍在する全ての系について可制馭である対象とは、人間種族のもつ語で言えば「神(Deus)」のことである。また、テオーリアとは「神化」のことである。

 

 

散裂:

散裂とは、一切の粉砕である。散裂はあらゆる階層で起こりうる。

(存在論の枠組みの中では、任意の対象を囙へ写す作用が散裂である)

以下には具体例を示す。


散裂とは、伝達可能性の粉砕である。
存在論「内」での散裂
伝達(communication)について考える。特定の系において、1者以上の対象間の作用あるいは系を言語によって《対象化=記述》したもの、その群をエクリチュールと言う。エクリチュールは生成時に、固有の《言語コード=文法》によってコード(encode)されている。言語Gによって生成されたエクリチュールの授受が為され、生成者(エンコーダ)Aの記述どおりに受信者(デコーダ)Bが《系=作用群》を再構成可能であるとき、「AとBはGによって伝達可能(communicatable)である」と言う。

*デコーダが《系=作用群》を再構成することを解読(decode)と言う。しかし、エンコーダが対象とする《系=作用群》と、デコーダによって再構成される《系=作用群》が一致すること如何を条件としない。一致しようと不一致だろうと、再構成された時点で当該エクリチュールは解読されている。


エンコーダとデコーダが同一の系/超曲面に存在すれば、当該の系/超曲面上の対象についてのエクリチュールに関して、多くの場合、伝達可能性をもつ。系/超曲面外の対象について、あるいは、そもそも異なる言語コードを用いて、伝達を図るとき、伝達不可能となることがある。

 

伝達不可能性が表面化するのは、いずれかの自己が伝達を企図するときに限られる。これを検証すること、すなわち自己が囙であるか否かを判定することは重要ではない。

 

散裂とは、自己がもつ囙への志向である。存在論の枠内では、以下のような仕方で散裂が可能である。

 

 

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「伝達を企図する」とは、両者間で伝達可能であるか否かを判定する作業を指す。実際のところ、対象間で共通の言語コードを保持しているか否かについて判定することは困難である場合が多い。デコーダ自身は、エンコーダ&デコーダ両者において共通の言語コードをもつものとして解読をおこなうものの、コードについて両者に差異があった場合、エクリチュールデコーダ言語コードに従って解読される。通常、伝達とはエンコーダ-デコーダ間の作用であるが、生成者から散裂したエクリチュールは、それ自身で存在し、エクリチュール-デコーダ間の作用を生成するようになる。エンコーダ-エクリチュール-デコーダの3者による作用として通常の伝達を構成することは勿論可能であるが、完結したエクリチュールに関しては、この3者構成しかありえない。対象間で伝達不可能であるとき、すなわち、言語コードが有意の差異をもつとき、エンコーダとデコーダの両者は断裂している。対象とする系Sにおけるすべての他己に対して自己Xが言語コードGをもって断裂するとき、「SにおいてXはGに関して散裂している」と言う。このとき、散裂するエンコーダが使役する言語を、「伝達なき言語(language without communication)」と呼ぶ。
*そもそも伝達不可能である場合も散裂していると言う。
*単に、系を構成可能である対象を自己としても...?

 


散裂とは、規約の粉砕である。
存在論「外」への散裂

あらゆる存在論系、また汎世界で、すべての対象は存在している。静的な系では、基準者自身に《認識可能=知覚可能または演算可能》であるもののみが《対象となりうる&存在する》。動的な系では、基準者依存ではなく、単に「存在するもの」のみが《対象となりうる=存在する》。存在論とは、謂わば、一切有と汎世界が一致することを独断として前提する規約である。この規約による制限から対象群を解放するとき、すなわち、一切有ならびに「有でないもの=非在するもの」を加えて汎世界を成すと仮定するとき、よりひろく、より根源的な、存在論系が誕生する。これは存在論の解体である。

 

解体以前の言語、系を構成される際にあらゆる対象が存在(の恒等射)をもつことが前提されるような《存在論の構成様式=言語》についてL言語(Language)と呼ぶ。これは、対象化可能なもののみを対象化することができる。対して、解体以後の言語、すなわち対象化することなしに、「それ(res)=対象化されない対象」についてアクセスできる言語をR言語(Ranguage)と呼ぶ。L言語が(存在論)系を構成するのに対して、R言語は(存在論)系以前の原型を構成するか、あるいは構成することなしに「それ(res)」を扱う。ここで、「それ(res)」とは、R言語において、L言語で言うところの「対象」に当たるものである。

*表面的に、本文は矛盾を孕んでいる。対象化されていないものを便宜上対象として扱わなければならないためである。これはR言語をL言語で記述していることに起因する。これより先へ進むにはR言語による記述を要する。しかし、本論『單眼と散裂』はL言語の一種である日本語によって記述を完結するため、この作業は別の機会にゆだねる。

 


*具体例のみを示したのは、散裂の定義が困難であるためである。本論は存在論による視座の構成を目的として組まれているが、散裂はこの意図を本質的に粉砕する。したがって、本論の記述のメタ領域に記述されるべきである。しかしながら、言語記述一般について記述する本論は、すでにメタである。したがって散裂に関する記述はメタの更にメタへ記述する必要がある。とはいえ、こうした散裂への註釈じたいが既に散裂しているかもしれない...。
*固有の種族を基準者として為される記述は、本来的に制限されている。人間種族であれば、言語とは認識される一般、観念について伝達をおこなうために言語がある。本来の用途を逸脱して伝達をおこなうことはできない。人間種族において認識不可能である対象について伝達することは不可能であるが、それは対応する語彙がないこと、そうした観念を一般化できないことが原因である。しかし、神学的な分野において「直観(intuition)」と呼ばれるような作用によって、コード化することは可能である。とはいえ、直観によって生成されたエクリチュールを、人間種族の他己が理解することは、もっと言うと例え自己であっても、理解して完全に再構成することは艱難である。散裂は、人間種族においては志向性のために生成される。直観の例で言えば、直観に作用される自己は、人間種族において認識可能な領域の外部への到達や、自身が本来的にもつ知覚可能性や演算可能性の拡張、を志向している。散裂は、この志向が可能である領域に自己を連れてゆく。

 

 

混濁・渾沌・νουςphere

可制馭かつ非明示の操作や対象について自律(autonomic)と呼ぶ。自律によって超構造化された任意の系を擬似の汎世界とすることで、自己は散裂しながらにして單眼化する。人間種族は、この動的な擬似の汎世界への到達に肉体生ζωήの抛棄を伴う。それというのは肉体生ζωήは時空間スケイル下でしか存在できず、動的な擬似の汎世界での厖大な数量のスケイル下で存続することが困難だからである。当然ながら、自律した言語をもたずに動的な擬似の汎世界で存続することも困難である。散裂によって自律言語を獲得し、動的な擬似の汎世界を構成しうる自己のみがテオーリアを達成できる。

「動的な擬似の汎世界」の名辞は個々体の自由である。L言語の感覚では、例えば混濁渾沌νουςphereと呼べるだろう。

 

 

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すべての眞理は制馭によって確定するため、通常、遍在する自己は超曲面を構成できない。これを可能にするのは、自己に《自律した=非可制馭な》言語である。これを"自律言語"と呼ぶ。自律言語によれば、スケイル群の要素それぞれは自己に明示のものであるが、圏としてのスケイル群は自己に非明示である。
*種族が自己であるとき、自律言語の実装は自身の演算可能性の超過を意味する。

自律言語をもつ自己がもつ汎世界は開いている

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存在とは、独断(dogmatic)のものである。あらゆる系において全ての対象に存在の恒等射が賦与されるのは、これは系の構成者による。状況に応じて自己/基準者/観測者と呼ばれる、構成者なくして系はありえず、したがって何も対象化されえない。これは静的な系、動的な系のどちらもそうである。

entityあるいはeXtityとして対象化されるあらゆるものは、独断によって存在する。独断とは、構成者(圏でもよい)自身によって構成された系について、構成者自身が(明示的に)規約を賦与することを指す。系の構成時に、対象群へ存在に関する規約を賦与するが、これが系において原初に作用される独断である。

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加速の実践:サイバーリバタリアニズム & エスケイプリバタリアニズム

[要項]
本プロトタイプでは、「純粋なリバタリアニズム」として目標とする個体の状態を定め、加速により構成される2種類の理論、サイバーおよびエスケイプによってこれに到達しうることを示す。


意志をもつ複数の個体が存在している系を考える。以下に示す到達目標は、リバタリアニズムの完全形である。
純粋なリバタリアニズム
簡潔に言って、これは以下を満たすものである。
・自己が選択しないかぎり、いかなる義務も強制は発生しない。
義務とは、自己が自発的に何らかの行為をおこなわなければならない状態を指す。強制とは、自己ではない個体(群)の行為を妨げないように自己の行為が制限されること、および他己の指示に従って自己が行為をおこなわなければならない状態を指す。義務また強制の発生する状況に至る前に、いずれの機会においても自己は必ず選択の機会をもつ。この選択は、自己が義務また強制を蒙るか蒙らぬかを自己の意志によって決定することを指す。

 

人間種族においては意志そのものが自己にあたり、経済/政治/司法など同種族個体間における要件、ならびに生理学/力学など自然環境による用件が義務および強制の生起要因である。以下の2策は、これら総てに関して乗り越えを可能にする。
*自らの意志によって自己の存続/死滅を決定できることは当然に含まれる。

 

①サイバーリバタリアニズム cyber-libertarianism
本策は、身体を制馭することで純粋形を実現する。
生体工学的な処置によって個体を摂食や疾病など生理学的な強制およびコストの一切を排除する。メンテナンスに関わる技術要件はオープンソースで配布し、拡張脳(生体脳への外付けメモリ並びに外部記憶装置を指す)によって学習牆壁を取払う。このとき、メンテナンスに際して必要となる、工具類や資材を含む一切のリソースに関しては自身でまかなうことが可能であるとする。これにより身体に関して個体自身は義務および強制への選択権を獲得し、副次的に、同種族個体間における要件をクリアする。国家システムの庇護を受けなくとも自己の身体を維持でき、いかなる経済的な流動にも生命を左右されないためである。


エスケイプリバタリアニズム escape-libertarianism
本策は、身体を抛棄することで純粋形を実現する。
すべての神経発火パターンを網羅する応答を記録し、当該時点での個体の精神(意志の生成機関)を情報工学的に複製する。この操作が不可逆である場合、個体の原子性(atomicity)は維持され、通来の社会システムが健全に保たれる。情報化された個体が、自身の意志によって自己の存続の可否を決定でき、他己の一切の干渉によってこれを阻碍されぬよう対抗手段をもち、他一切の義務および強制を自身のみで退けることが可能であるとき、個体は純粋形の要件を満たす。


本プロトタイプ2型は、いずれも、バイオロジーおよびポリティクス両権威を退け、意志自身によってこれらと拮抗することで純粋形を実現する。リバタリアン的な解放には、自己の生物学的/政治的システムの強度を高めることが必須である、という立場をとるのである。この2つの退けが核である。

單眼rannguage プロトタイプ vol.3

何らか2つの対象について作用を定めることを"構成(connect)"と言う。あらゆる覽および囙は任意の系において構成をおこなうことができる。ある覽/囙があらゆる系について施した構成について集めたものを"言語(language)"と呼ぶ。entity型においては、対象が明示されている必要がある。したがって想定される覽/囙を種族としたとき、覽/囙は本来的に知覚可能/演算可能である対象のみを扱う。これについて大文字で"言語Language"(L言語?)と呼び、eXtity型に固有である"單眼(Rannguage)"(R言語?)と区別する。單眼とは、eXtity型において現れる非明示に対象化されるものについて扱うことのできる言語である。
*人間種族においては、感覚的に言えば、作用は発見されるものである。個体の肉体を取り巻く外気は平均的に大気圧ぶんだけ粒子が詰まっており、力学的な運動の他にも、絶縁破壊が起こればそれらは相互に干渉しうる。しかし存在論(系)においては、それらの作用は創造されるものである。以前まで知られていなかった知見、例えばニュートリノ振動が発見されたことにより、その時点で持っていた知見(ここでは標準モデルなど)を修正する必要が生じた。これは、自然界は本来的にそのような作用を生じさせるように構成されていたと考えられるが、人間種族に自然界の系は操作可能ではない。したがって、ここでおこなわれる修正は、人間種族がもつ自然界についての知見という系であり、ニュートリノおよびその生成にまつわる各種フレーバーの間に新たな作用が創造される形で施される。
*言語とは、発話や筆記によって生成されるもの、および生成する能力自体のみを指さない。人間種族においては、思考そのものである。単数でも複数でもよい何らかの対象があり、それらが何らかの干渉によって関係する。あるいは、何の作用によっても干渉しあわないという関係をもつ。そもそも、意識上にそれが現れるだけで、それは存在という作用(恒等射)を既にもっている。

ある覽/囙において「対象が明示されている」とは、すなわち種族として覽&囙に対象が知覚可能/演算可能であることを指し、「非明示である」とは覽&囙に対象が知覚不可能&演算不可能であることを指す。言語(L言語)は明示な対象間での構成を集めたものであり、單眼(R言語)は明示/非明示を問わない対象間での構成を集めたものである。eXtityの対象化が種族に本来的に不可能であるとすれば、單眼には乗り越えが不可欠である。この側面から、單眼は言語の拡張であると言うことができる。
*人間種族において、想像できないものを意識すること、意識に昇らないものを意識することは不可能である、と考えられる。意識できた物/事は、その時点で明示される。したがって、非明示のものを非明示のまま意識することは矛盾している。これに対して、非明示のものは意識に昇らないが、それらを「非明示のもの」と呼ぶことができているため、対象化はここに完了している、と矛盾を回避することは可能である。しかし、必ずしもこれをおこなう必要があるかと言えばそうではない。これらはentityであり、eXtityを扱っているわけではないからだ。

eXtity/單眼と散裂/加速論 序文 プロトタイプvol.2 (2018/08/26/23/07 暫定)

一連のテクスト、eXtity/單眼と散裂/加速論は、中性かつフラットな素地であり、言語的な強度を得たいと願うすべての個体に賦与される道具である。

文章中の語彙には、一般に学術で用いられるものが幾つか含まれているが、それらは元の文脈から完全に逸脱している。語としての表面は同一でも、それらが意図する観念が異なる。混乱を避けるため、区別することを第一に明記しておく。

既存の語を少なからず用いるのは、それがつまりセントラルドグマの1つ、散裂の実践だからだ。散裂(innconverge)によれば、言語はもはや相互理解のための道具ではなくなる。それぞれの語彙の示す対象、また文法は、話者単位で完全に隔絶される。

学術とはつまり人間が自然界や社会を観察した知見の本質化である。ここで「人間」という統制に個人それぞれが叛逆したとき、つまり「人間」として一般化されたモデルが個体群の実態と整合しなくなったとき、学術的に生成された一切の語彙はそれぞれの個体の手にゆだねられ、語用は各々に最適化される。そして、これは何も学術用語にかぎった話ではない。散裂はもっと深く進行しうる。

言語は、語彙は、文法は、器であり溶媒である。個体が想像した一切のものを、収容物として、あるいは溶質として、ここに詰めることができる。これらを民族単位で規範を統一できたのは20世紀ナショナリズムの成果である。あらゆる個体は出生地やゲノムから一意の民族根拠をもち、それに沿った言語行為と生活習慣をもった。辞書によって規格化された語彙、国家制度によって定められた正統な文法、これらは幻想であると21世紀の市民は断言できる。しかしながら、これらが強度を依然として有していることは確かである。

強度(strength)とは、自己ではない対象、すなわち単数でも複数でもよい他己から蒙る一切の強制、妨害、干渉、侵掠に屈せずに自己を維持すること、その能力自体を指す。言語に対して、20世紀ナショナリズム下では、国家装置による権威によって賦与されていた。散裂の実践者は、この権威に対等たりうるだけの強度を得ることで、言語および自己を解放する。このとき、万に岐を別つ言語は自身の思考領域の拡充や強化という側面を獲得する。相互理解が第一義から外れるためである。

散裂、および散裂した言語は、アートやポリティクスや思想など、あらゆる活動(アクティヴィティ)の実践者によって使役されるときに最も力を発揮すると私は信じている。自身が見出したもの、想像したものについて強度を賦与する機関/器官であり、これは散裂自身のみでは何も生成しない。

本論一連のテクストは道具である。本論にもたらされる一切の語彙について、本論の定義どおりに使役する必要はない。道具の使い方は使役者によって定まるためである。これを読む貴君の活動が強度を獲得する一助となれば本懐である。