想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

加速論 プロトタイプ ver.4 (2018/10/15/16/47暫定)

本章は、前2章にわたって措定してきたものたちが如何にして実践されうるかを示す。

 

加速とは速度を高めることである。生成に関する加速が例えば以下のように措定される。

>> Setzung: acceleration of generation

2つの対象A, Bがある。Aが企図した行為を、Aの意向に沿うようにBがこれをおこなうとき、AB強制している。このとき、企図&意向はAおよびBまた他の一切の対象に明示される必要はない。強制のコドメインが圏であるとき、この作用を特に支配と呼んでもよい。自己の系をコドメインとして支配(強制)の函手をもつ対象は場(field)と呼ぶ。

*場の例として、人間種族においては自然や資本主義システムがある。 

 

環境Enを考える。これは対象Dによって固有の存在様式(規約)Rの下に構成された(超)構造(旧ディシ含)であり、自己の系(中のすべての対象)を支配する場である。Enにおいて、Rを満たさなくなった対象の一切は要素から除かれる。ここで、何らかの環境において系の要素を明示/非明示に環境自身が排除する作用を淘汰(banishment)と呼ぶ。また、任意の対象が環境へ要素を新たに追加する作用を生成(generation)、環境において存在を維持する作用を存続(continuance)と呼ぶ。

 

場の支配を減弱/無効化することで、それまで阻碍されていた何らかの作用を促進することを加速(accelerlation)と言う。例えば、生成に関する加速が以下のように為されうる。
自己Oは環境Enの要素である(OEn)。En中へ、Oが対象(群)Pの生成(および存続)を図るとき、これがEnによって抑制されている。ここでPの生成(および存続)を抑制しない他の場/環境へOが同型で写し、Enの支配へ拮抗/打克(overcome)可能となるまでPを成熟/進化させることができる。このようにして対象を成熟/進化させること、および再び当該の場へ同型で写すまでの一連の過程を「生成に関する加速」と言う。第一の同型について特に游離と呼ぶ。

*「前(anterior)」と「後(posterior)」を区別する因果の観念をもつ環境では、次のように解釈することができる:抑制とは、環境においてある作用が反復的に現れるとき、因果上の後方向へこの頻度を低めることである。人間種族においては、生成に関する加速の例として、物理レイヤに対する游離としての仮想レイヤの構成がある。仮想レイヤとは、物理エンジンを含むコンピュータシミュレーション系や、それに類する(超)構造の実際的な構築がこれに当たる。仮想レイヤにおいて知見を堆積することで、きわめて低いコスト/リスクで物理レイヤにそれを実現することが可能である。

 

 

INDEX OF INSTANTIATION:

  • eXtitize≒Complication:複雑化/高度化としてのeXtitize。
  • TEO-humanism:人間種族からの超脱。
  • Natural Language Destraction:言語による内破。

 

§eXtitize≒Complication:複雑化/高度化

  • entitize:entityとして対象化すること。
  • eXtitize:eXtityとして対象化すること。

>認識論に関して

これまでentityとして解剖/網羅的に捉えられていた、存在論上のあらゆる対象についてeXtitizeすることで加速を誘発する。これは、entity型の用語で言えば「自己に認識できる枠内で、すべての事象は完結している」という通念の抛棄に等しい。唯物論(的な一元論)下では、事象とはすなわち任意の対象群における物理量の変動、あるいはそれから観測者(種々センサ含)に引き起こされる感覚/知覚である。要するに、そもそも唯物論とは自己(人間種族)に経験可能である事象群から汎世界の構成様式を推測する思考法である。げんに、科学理論とは、観測可能な情報/証拠から、観測可能(かつ多くの場合に再現可能)な因果関係によってそれを説明づける一連の仮説であり、予測に関する根拠は帰納法による。


eXtitizeによれば、唯物論(的な認識論)は棄却される。《客観的な=観測者が干渉も曲解(=局所/状況的な理解を完全な理解と錯覚すること)もなく対象の動勢について観測した結果だとする》「事象」は抛棄され、自己=観測者が各々に系を観測する主観的な「視座」だけがある。対象群は、自己に《認識不可能=知覚不可能かつ演算不可能》な作用を想定し、まさにこれを想定することによって対象群に動性を賦与する。

 *つまるところ、eXtitizeを唯物論(的な認識論)へ作用させるとは、汎世界の解釈についての重心を自己が抛棄することである。もし重心をずらそうと思えば、例えばpara-心理学におけるESPテスト、例えばzenerカードを試してみるとよい(例:超心理学実験サイト)。異なる絵柄の5枚のカードを伏せ、絵柄を予想して1枚のカードをめくる。(あるいは、誰かに手札として持ってもらう。)このとき、カードの裏面の手がかりがないとすれば、確率論的に充分に試行すれば的中率は2割に収束する筈である。しかし、これより高い値が有意(significantly)に出た場合、観測可能な、現在の物理学的知識の範疇を超えた何らかの干渉を想定することが妥当になるだろう。

 

 >テクノロジに関して

一般に受け容れられている、テクノロジに関する現在の倫理通念には、おおまかに2つの面がある。1つは、テクノロジの進歩/開発によって何人も犠牲になるべきではないという「民主主義的」側面であり、もう1つは、違法な手段を用いなければ何人も自由な開発おこなってよいという「自由主義的」側面である。一般に、技術開発には資材および人材への投資が不可欠である。発達/開発した技術を完結した製品(product)として天下に流通させ、得た資金を元手に次なる開発に着手する、というサイクルを効率よく迅速に廻すことのできる者/集団が、当該時節において最も卓越/発展したテクノロジを得る。

 

このような資本主義統制に従う技術場/環境において、市民個体が自身で加速することを本節は目指す。そのセントラルドグマとして"自働化(autonomic-automation)"を提示する。通常、「自動化」と言えば、何らかの機械システム(ソフトウェアプログラム含)を構築して、構築者の指示/干渉なしに所望のタイミングでそれに〈特定の動作〉を実行させることを指す。この「自働化」とは、構築者が〈特定の動作〉を設定する必要のない自動化である。つまり、任意の機械システムへ〈特定の動作〉を自己定義させることの自動化である。

*倫理的統制下で游離する必要があるときに有効である。

 

自働化を試みるとき、構築者は指針/志向性のみをもてばよい。情報蒐集、得られた情報リソース/技術リソース(主にOSS)をもとにした道具の開発/実装、このサイクルを幾つかのパターンで回すこと、までを任意の機械システムが担う。構築者は、自働的に提示されるそれらの装用感から指針/志向性を修正し、それをフィードバックとして与える。

*2010年代現在はこれらの行程すべてを個体自身でこなしているため、企業の開発速度の時間スケールでは(技術学習に費やす時間も伴って)酷く劣った成果物しか産生されない。自働化によって、商品として対外に利益獲得を見込めなくとも、自己で行使するぶんには何ら遜色しない道具を生成することができる。

 

「機械」とは、実際のところ、主観者(人間種族)自身に内部構造&動作原理が既知であるものである。この唯物論的観念は相対的にのみ定義/措定され、常に制馭の対象となる。あるいはまた、自己に制馭不可能のものの総ては機械ではなく、自己に制馭可能な一切の系をもって自己が措定される。(ego: system{x | x∈wholeworld & x = maneuverable})

 

-overside-

 重心を自己あるいは人間中心から外へ移すとき、従来的な倫理通念の克服が可能となる。倫理を「市民全体を対象とする支配」、道徳を「自己(=市民個体)を対象とする強制」として定義/措定すると、倫理を抛棄して《一切の定義/措定可能な道徳=汎道徳》を受容し、《無道徳=道徳の一般化としての倫理が形成されえず、市民社会において道徳が単に信念としか機能しなくなる状態》へ到達することがこの克服にあたる。

無道徳がテクノロジの加速を誘起するメカニズムとして: 従来の倫理通念を克服すると、生活/環境に制馭不可能な対象が蔓延する。これは、従来の倫理通念が第一・第二側面として保持していた瓦全性(緩やかな進歩と約束された80年の寿命)が抛棄されることで、この瓦全性が淘汰圧として機能していた旧来の《環境=市民社会》から游離する場/環境が顕現することを意味する。この游離場/環境を"闘争(bellum)"と言う。

闘争場/環境は瓦全性を具えていないため、各市民(個体)がおこなう技術開発が他の市民(個体)を加害することを許容する。このため、個々体は存続のための自衛を要する。自衛には知恵を要し、十分に加速された闘争場/環境において知恵の獲得には自働化を要する。いずれ、自働化をおこなえない者は淘汰されるようになる。

*overside:志向する対象を包含する系であり、游離によって構成される。oversideとして志向されていた地平へ到達することも加速である。

 

 

§TEO-humanism:人間種族からの超脱

加速により、ヒト身体/精神機能を強化/拡張する。あるいは、非-人間へ至る。

 

人間・非-人間・非-人間を志向する人間のすべてを明示的に包括する語として"個体(individual)"と言う。前節と同様、機械とは、主観者(ここでは人類一般)にとって、内部の構造が(力学的、電子工学的、etc. に)完全に解剖的に理解されており、かつ、すべての動作パターンを網羅把握している対象を指し、これは相対的にのみ定義/措定される。

このとき、人間の機械化とは自己(∈人間)に可制馭の要素/部品の1つとして《自身の肉体&精神=素体(blank)》を扱えるようにすることである。構造はもちろんのこと、要素の改変に伴うリスクを完全に把握することが必須の前提である。逆に、機械の非機械化とは、構築者に可制馭な要素/部品のみを用いて、非可制馭の対象を構築することである。一例として、遺伝学的/発生学的ではない手法で精神/意識/自我を発現し、機械へこれを賦与することが挙げられる。

《人間種族からの超脱=非人間化》は、例えば次の2つの手法によって成立する。いずれの場合も、人間種族が経験不可能である知覚また演算不可能な思考が可能となることを条件とするが、これは当然ながら人間自身が機械を使役して得られるものを除く。

  • 自己(∈人間種族)の一部/全身を機械化して知覚/演算機能を強化/拡張する。
  • 機械を非機械化し、そこに自己を搭載する。

上記のいずれかの方法で人間種族からの超脱を図る教義の1つである"TEO-humanism"は以下の具体的な3つの実践方針をもつ。

*「TEO」はこれらの頭文字を取っている。

 

  • Trans-humanism:身体-精神の混濁などにより、唯物論(的な認識論)によって見出されない新たな形質/能力を獲得する。もっぱら非-人間(non-human)となることを志向する。
  • Escape-humanism:精神/意識/自我の《情報化=完全な電子信号化》により、自己を肉体から離脱させることを志向する。
  • Over-humanism:生体制馭工学的に素体(blank)を拡張/改造することで、疾病および摂食を克服する。

 

ここでは、以下の語彙が事前に定義/措定されているべきである。

志向:記述者の能力/機能的に、対象について正確に指し示すことが困難であるが、後にそうすることが充分に可能になったときに、事前にそうして曖昧(ambiguous)に表現されていたものと、後に正確に表現されたものとを同等/同義と見做すことを約束すること。(*加速には必須の言語操作である)
ABを志向する」:Aは自己である。「ABを志向する」とは、志向によって措定される対象Bについて、将来的にAがその圏Bに含まれるように、継続的に自己を制馭することを指す。
生体制馭工学(biocontrol engineering):遺伝学的/発生学的に構造される、(有機の)生体は精神/意識/自我とは独立に生化学的に動作している。これを素体(blank)として、機能拡張などを目的に、有機的/無機的な構造変化・装置導入・装置接合を施し、生命維持機能/知覚機能/演算機能などを維持/強化/拡張する技術のこと。あるいはまた、これに関する工学知(knowledge)およびその実践(practice)を指す。


TEO-humanism3つの実践方針のうち、いずれかあるいは複数の手法を用いて人間素体からの離背を図る個体を"超脱主義者(TEOist)"と呼ぶ。これを自称する者は、最低限、多変量知覚・高速演算・頑健性の志向をもつ。

 


-Overside-
超脱主義者(TEOist)の存在は、すなわち闘争場/環境が構成されていることを意味する。ここでは、当然ながら非人間の生成および非人間を志向する個体の存続が游離/加速されている。

このとき、超脱の過程において《政体(nation-state)が個体単位へと散裂する=個体のそれぞれが政体として機能する》ことが明らかである。これは、生体制馭工学を劈頭とするTEO-humanismの諸実践によって、個体自身の身体/精神が自己のみによって維持されるようになるために近代的な国家(nation-state)の庇護を必須としなくなることで起こる。

具体的に必要なことは、例えば①(周縁の市民自治に基づく)物理的通信およびエネルギー産生に関するインフラの自働整備、ならびに②市民個々体が自身の素体へ生体制馭工学的なメンテナンスを施すための諸道具/薬剤の生産/流通の自働化、が挙げられる。これに伴い、貨幣と生命の纏絡が断たれるが、これは経済システムからの市民個々体の独立を意味する。これも市民個々体が政体の庇護を不要とする一因となりうる。

*国家(nation-state)は福祉(機能のみの)システムとなるかもしれない。インフラは完全に自由化され、企業へ委ねられる。バランスが崩れれば、国家が買収して修復/軌道修正に当たることも可能である。個体は任意に国家へ所属し、納税を対価として福祉サービスを受ける。いずれの国家へ帰属しないことも、複数の国家へ所属することも可能である。

 

上記は、図らずしてTEO-humanismがもつ(テクノロジーによってアナキズムを実現することができる)技術的アナキズム(technological anarchism)の側面と言える。

 

 

§Natural Language Destraction:自然言語散裂

 

対象fについて、主観的にそれが事実であると信じられる度合いを事実性と言う。ここで、事実性の十分に高い対象が有意であり、齟齬をきたす場合は事実性の高い方を採択することにすると、fは妥当なソース(群)sと結びつくことで事実性を帯びる。このsの《妥当性=事実性が十分に高いこと》は、対象としてのsがもつソース―すなわちfにとってのメタソースs'の妥当性によって担保され、s'はさらにこのソース―すなわちfのメタメタソースs''によって担保される... こうした、対象自身の有意性を遡及先の対象に依存し、遡及の無限後退を許容する生成モデルを纏絡モデルと呼ぶ。下図に示す事実性モデルは(遡及のみの方向をもつ)単向性の纏絡モデルの一種である。

 

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図:事実性モデル

 

*遡及:因果の前方向にある対象へアクセスすること

 

本来的に、事実性の規約―「何が事実であり、何がそうでないか」は基準者によって偏る。すなわち、権威的/支配的な基準者の存在のために、あるいは種族間で採択傾向の差異が生じる。また、事実性モデルは批判(critique)や実証(positivistic testing)などによって緻密に理論を鞏固にしてゆくが、これは十分に遅漫な時間スケイル(entity型)でしか成立しない。

*例えば人間種族では、力学場が完全に解明されることがないにも拘わらず、力学場において《完全に抑制される=阻碍される》(と、当該パラダイム下で考えられる)現象は事実性が著しく低い。こうしたとき、力学場の諸強制パラメータを人間種族自身で定義/措定可能である場(仮想レイヤ)へ一律的に諸現象を写し、さらに自己をも写すことで、自然力学場から游離することが可能である。ここでは、自然力学場で阻碍されていた(科学のパラレルとしての)魔術/呪術が生成可能である。これは魔術/呪術の事実化と見做すことができるが、それが可能なのは事実性の規約がここで書き換えられたからに他ならない。

 

上記に対して、(相対的に定義/措定される有意性によっていずれかを存続させ、それに撞着する他一切を排除する)観測者群の同意に基づく淘汰を抛棄する、すなわち存在する対象について《一切を受容する=汎受容の》場/環境が構成可能であり、"フラットネス(flatness)"と呼ぶ。これは(可能なあらゆる方向をもつ)《汎向性=無向性》のものであり、規約の欠如/抛棄をのぞくあらゆる規約をもたない散裂の一種である。事実性モデルから事実性の吟味行程を除いたものが"無文脈性(sourcelessness)モデル"であり、これはeXtity型の游離/加速作用が成立するフラットネスの1つである。人間種族のもつ自然言語によって無文脈性モデルを構成することが可能である。また、そもそもこれは人間種族に構成可能な(数少ない)eXtity型の1つであると言える。

 

自然言語散裂は、例えば、unicodeのような言語規格を撤廃したハイパーテクストの構築によって要素的に実行可能である。

 

-Overside-

肉体および精神にかぎらず、個体が個体として意識/自我を保って存続可能な棲空間を"圏域(sphere)"と呼ぶ。物理レイヤを含む、《精神が肉体に従属する&肉体に従属せずに精神が存続しえない》肉体の棲空間を"ビオスフィア(βίοςphere)"と呼び、これに対して、肉体に従属する以外の形式で精神が存続可能な棲空間を"ヌースフィア(νουςphere)"と呼ぶ。Trans-humanismの志向する渾沌/混濁をコンセプトとすると、ヌースフィアは、ビオスフィアにおいて肉体知覚される情報量と同等かそれ以上の《情報=精神的刺戟》を常に個々体自身が受けることを条件の1つにもって措定される。これは、例えば無文脈性の場/環境で、自働/自律した無数のeXtity群の生存によって成立する。ここでは、あらゆる対象について、entityに落とし込む解剖速度/量より、eXtity群が生成する速度/量が圧倒的にまさっている。