想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

『θεωρία et Destraction 生命としての言語==人工生命論』第零章 - 真理は我々に開示されていない。

本稿は、『θεωρία et Destraction 生命としての言語==人工生命論』(仮)の草稿第零章である。
これのプロトタイプは当方HPにて公開している。

 

我々は観察者であり、観察する世界の{枠組みの}なかで生きている。
観察されるすべてが一切世界に等しい。観察されないものは存在しないに等しい。

目に映る――花卉・コンクリート構造物・他者・等々は存在する。
音に聞く――雷鳴・合唱・炸裂・等々は存在する。
非感覚由来のもの――数式・集合・実数・等々は存在する。
あるいはまた、幽霊は盲信によって、ユニコーンは世界観の共有によって、それぞれ存在する。

これらはその存在を信じることによって存在する。
あるいは、これらとの接触を果たすとき、否応なくその存在を認めざるをえない。
客観的に何かの存在を検証するとき、すなわち(主観的な)妄想とそれとを区別したいとき、[我々 | 一者以上の観察者]は思考内容を共有し、議論および合意を経てその存在を確信する。

観察者たちのなかで存在を検証されたものの総和/総体、これが「現実」や「世界」である。
前者はより主観的、後者はより客観的 とそれぞれニュアンスを帯びているが、日常において指している対象はほぼ同等である。両者を複合して「現実世界」と言うときもまた同様である。

 

ここで、「存在」という語を定義することは難しい。

多くの観察者は厳密に定義することなくこの語を使用しており、現実/世界として存在たちを束ねるときもあまり意識することはない。
強いて言えば、存在とは『思考・運動によって観察者自身が相互干渉できるもの』となろうか。

また、上の例に挙げた「ユニコーン」や非感覚由来のものたちについては存在の可否が各者の見解によって分かれるだろう。
このときはしかし、『存在/非存在の二値ではない現実/世界がある』とも、『観察者の個々の見解によって世界の様相は異なる』とも、どちらのように言ってもよい。

あるいは、「存在」という語はどのように定義してもかまわない。その定義に沿った総和/総体==世界/現実がそれぞれ生成/思考されるに過ぎないからだ。

 

しかし、あらゆる存在は果たして我々が感覚/知覚したり議論の俎上に載せることによってしか存在しないのだろうか。

密閉した暗箱のなかに閉じ込められたネコは、『閉じ込めた』という事実を知る者や微かに鳴き声を漏れ聞いた者たちの認識によってのみ存在するかもしれない。
けれども、誰かがこのネコを解放してやらなければ、あるいは自力での脱出が果たされなければ、きっと飢餓に陥り絶命するだろう。
そしていつの日か風化した残骸から誰かが干からびたミイラを発掘することになるだろう。
このとき、誰にも存在を認識されなくとも、このネコは飢餓に至るべく存在していたのではないだろうか?

 

もう一歩進めば、これは超越者の仮定へと繫がる。

我々/観察者と完全に絶縁されたものの存在の仮定。
それは、現実主義者たちに『そんなものは存在しない』と一蹴される類いのものである。

この齟齬/衝突は、しかし両者の使役する語「存在」の定義の食い違いによるものだ。

神秘主義者が『神は存在する』と言えば、それは『我々に観察/接触不可能な超越者の存在を仮定し、観察/接触不可能な証拠がなくとも、直観/確信によって私はそれを信じる』ということを意味する。ここで「存在」の条件に自身の観察を必ずしも要求しておらず、『観察/接触不可能なものが存在する可能性がある』と言うことができる。

一方で現実主義者が『神は存在しない』と言えば、それは『我々に観察/接触不可能な一切の証拠から神の存在は確認できない。よって神は存在しない』ということを意味する。ここで「存在」の必要条件に観察可能性を要求している。

前者は絶対的な存在を仮定している。
それはつまり、観察者の観察/接触によらない、それ自身あるいは超越的な作用によって存在するような存在の仮定である。

こうした、観察/接触から離れた、{観察者から見て}超越的な法規(ルール)による存在、避けられえぬ存在、絶対的な存在を「〈存在〉」と表記する。
一方で現実主義者が、それ以外を存在として認めない、主観者が排他可能な存在、観察/接触を要する存在を単に「存在」と表記する。

超越的な法規、すなわち観察という受動作用に何ら干渉することのない能動のもの、これを「真理」と言う。

真理は、少なくとも我々には開示されていない。
例えば世界の物理法則や諸物理定数が他でもなく現様である理由について我々は知らないし、これは今後の如何なる物理学の発達によっても得られない類いの知識である。
あるいはまた、我々が存在を観察する一切のものは〈存在〉しないかもしれない。(cf.マトリックス)

この「真理」という概念を組み込むか否かによって、世界の有様はずいぶんと異なったものになる。

「世界」として与えられる、観察される一切存在。
これの源流、我々/観察者の思考内容に像として現れる以前のそれについての思考/仮定へ神秘主義者が踏み込むことができるのに対して、現実主義者は経験が彼に許す領域を逸脱することがないよう『ただ目の前のものたちが存在する』と言うのに留まる。
どちらが優れ、どちらが劣る――というのではない。
これは単に世界の構成様式の差異である。

神秘主義者が観念的に接触を試みる、世界の源流、すなわち我々/観察者たちに主観的な像を与えるもの、これを「メタ世界」と呼び、「〈世界〉」と表記する。
人類では、これは伝統的に実在論や観念論として観想されてきた。

思考内容を共有不可能な2種類の観察者たち、これを「種族」と呼ぶとき、複数の種族が単一のメタ世界に所属/〈存在〉することは可能である。
メタ世界を与えるもの/源流については、観察者にとって二つメタであるため、「メタ^2世界」と呼び「《世界》」と表記する。

超越者の超越性はメタ^n世界での〈存在〉可能性に由来する。
我々がしばしば「神」として呼ぶ創造主/造物主は、少なくとも一つはメタである。(1≦n)

神はこれまで{精神異常者の他に}誰にも発見されることはなかったし、今後何世紀何十世紀と経とうとこの事実が揺らぐことはないだろう。