想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

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あなたが『世界』と呼ぶもの,それは人間社会を含み,地球の生態系を含み,そして宇宙を含む.あるいは,宇宙そのものが世界かもしれない.あなたはその存在論の一員であるように振る舞い,まさにその履行によって生命を維持する.その『世界』では,常に増大するエントロピーに抗って,あなたは代謝によって同一性を維持しなければならない.代謝を已めたとき,あなたは死滅する.『世界』はそのまま存続し,あなたはそこから排斥される.これは[コモンセンス|人類のnaïveな感覚]だ.


 しかし実際には,この『世界』があなたに先立つことはない.それはつまり,あなたの認知がなければそこには何もない,ということ.まずあなたがあり,あなたの人格が成長し,その発達の結果として『世界』なる観念が与えられる.自然という{従わないという選択肢を与えないほど強力な法制を敷く}強大な権勢を仮定し,その系によって生成される1つのインスタンスがあなただと,仮定することはもちろん可能だ.しかし,それはあくまで仮説に過ぎない.というのは,前提である自然が仮定されたものだから.


 上記を理解できない者は,おそらく客観性と絶対性を混同している.


 {あなたと同じように人格をもつものと思われる}複数の人間が集まって{自然/『世界』なるものによってわたしは生み出されたのだとする}同様の主張をしたところで,そこに複数の個人間による合意としての客観性が生まれたとしても,それがveritasとは限らない.『複数の個人』の個体数が{70億,100億と}膨れたところでveritasとの立ち位置は変わらない.『客観性』は如何にも相対的な語だ.というのは『客体』をどのように想像するかによって,強度にグラデーションが生じるためであり,重要なのは,この強度をいくら高めたところで,絶対性に匹敵することはない,ということだ.


 絶対性とは何か? 絶対性とは,完全な客観性と言い換えることができる.とはいえ,これが客観性の極限/果てにあるものと考えると失敗する.speculationの幻想だ.絶対性はつまり,観察や経験によって事実性を担保されているものについて,その観察や経験を抜きにして事実性を担保することに等しい.客観性を得ようとするとき,認知に伴う不純物{そのときの体調だとか,妄想の類いだとか}を可能な限り排除することにつとめる.このsanitizeを極限まで推し進めると,認知主体そのものの排除をおこなうことになる.少なくとも人間にとっては,そのような作業をこなすことは不可能である.『誰の目にも明らか』な状態に措くことがせいぜい上限であり,それを暗黙に絶対性と同一視することになる.人間中心主義が外部の妨害を受けない間のみ有効な操作だが,veritasの追求に際しては無効化しておかなければならない.


 そういうわけで,あなたの{あるいは人類の}認知がなければそこには何もない,というのは,認知によってすべては対象化されているので,認知がなければ対象化が起こらず,その結果そこには何もない,ということになる.つまり人間が『客観世界』と見做している唯物論的な宇宙は,『人間主観世界』の謂いである.


 こうした[客観性の限界|絶対性との断絶]は,認知機能の有限性によって設けられる.色を識別できないウシやウマよりもヒトの眺める風景の方が情報量が多く,従って客観性は後者の方が上回る,のだとすれば,放射線重力波を含む風景はなお客観性が高い.しかし,人間のもつ物理学的知識の範疇を逸脱した何らかの情報をそこに加えることはできない.仮に{人間の知覚する情報をすべて知覚し,そのうえで更なる情報を加えられるというために}人間より高度な認知機能を有する主観者があったとして,必然としてさらに高度な認知機能を想定せざるをえない.全体が可知である場合を除いてこの無限後退を避ける術はない.


 一様な認知構造をもつ個体の圜を『種族』と呼ぶと,こうした上限の客観性は,『種族主観性』と言い換えることができる.人間中心主義下で,すべての客体は同一の人間種族に属する主体だ.この認知共同体の中で,個人の認知の主観性を薄めることはできても,認知機能そのものの有限性を取り去ることは叶わない.