想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

記述の枯渇としてのニヒリズム:ニーチェ的虚無,実証主義的虚無

実在論について。
まずい嵌まり方をしている自覚がある。

 

人間に蓄えられる知識は有限であり、それは学知として体系されている。端的に、経験可能である情報について最適化された(ている) 理論が科学である。 経験から最も真理らしい外界の構造を見出している。 これは経験を唯一の証拠とし、これによって論理を定め、 定められた論理によって判断し、有効な知識を蓄えている。

 

この知識、 科学知が有効であるのはヒューム的破れに遭遇するまでである。 すなわち、これまで表面化していなかった、 人間に可測である因果的構造の外部構造による作用の現前に遭遇す るまでのことである。しかしこの暫定性に、 ベイズ理論的な方法で生起確率を主観のものとして破棄して 真っ向から向き合うと、現れるのは虚無である。

 

すべての科学的な実証は、破れへの遭遇から無意となる。 人間に不可測である外部構造が作用することが明らかになれば、 すべての論理が妥当性を喪うためである。無意であるとすれば、 あらゆる記述は、そこに何も記述されないことと同値となる。 これが虚無、ニヒルである。

 

ヒルと言って真っ先に浮上するのはニーチェだろう。 彼にとってのニヒルは、 形而上学的な対象への記述の無意化によって起こり、 そして彼は転化によってこれを乗り越えた。言い換えれば、 このニヒル性を乗り越えることなく回避し、 これを滅ぼしてしまった。

形而上学的なテーマへのニヒルを前世紀においてニーチェは感じ、 今世紀の我々は実証主義的なテーマへのニヒルを感じるのである。 私にはこれを乗り越えることも、回避して滅ぼすことも、 何もアイデアが湧かない。ゆえに嵌まっている。

 

虚無/ニヒルという態度は、すなわち記述の枯渇を指す。これは自身の気力の萎化によるものではなく、記述する対象=前提と、記述する方法=論理とが噛みあわなくなることで起こる停止のこと。これを乗り越えるには、前提または論理のいずれかに改変を加える必要がある。これを拒むとしたら回避するよりないが、果たしてその方法があるのかどうか。

かねてより、実証主義(positivism)のアンチテーゼらしき否証主義(negativism)の進路を模索している。すべての論理は経験の捨象であり、これが扱う対象もまた経験である。これから逸脱することは、人間種族の経験から外れることに他ならない。論理/経験の主観性について攻撃して両者の対等性を認めさせるか、あるいは主観性によるバイアスを取り払ってゼロから種族客観の論理を構築するか、だろう。

破砕か離背か、いずれにせよ種族の客観性というのも全体と比較すればささいなものだ。あらゆる前提を立てないで、作用についてのみ記述する方がネガティヴィズムにとっては妥当かもしれない。

 

 ......

今世紀の学術界隈で「新実在論」として扱われているのは、 形而上学的な対象を「独断論的なもの」として棄却したうえで、 経験の外部について記述する類いのものである。 題材はSFや現象論がもっぱらであるが、 既にこのテのニヒリズムを扱っているペーパーがあるかもしれない 。ディグろうと思う。

5. 思辨における倫理、学問であることの妥当性

 前章において想定したように、学問は、まさに人類に一般的な知識を扱うことによって客観性を保っているが、これは経験を知識の全体としたときの客観性である。我々の外部に実在があり、これについて全体を俯瞰しえないことを了承すると、学問の主観性が顕在化する。これは人間種族の主観性であり、これを克服して、つまり実在論空間全体の知識を得て、客観性を得ることは我々に不可能である。これにより、我々の種族主観から少しでも離れて、客観性に近づいてゆこうとする探究心を燃やす者には、自らの主観性が、どのようにして主観性を得ているかについて検討することは有益である。
 種族主観の想定より、例えば偶然性の実態は次のように説明される。
 「偶然的である」とは、ある主観者に観測可能な範囲において、主観者に既知である知識が、対象とする事象の生起確率(尤度)に偏りを与えない場合に、この試行が、主観者に既知の素朴な確率分布に従うことである。
 人間種族にとって、観測可能な範囲とは、我々に調査可能な時空間スケールのことであり、また、素朴な確率分布とは、一様分布なりポアソン分布なりボルツマン分布なりの、何らかの意図や作用が働いていないと考えられるランダム性をもつ分布のことである。物理学的メカニズムを知っている物理系において、同条件で生起するそれぞれの事象、つまり、素粒子スピンの反転確率やダイスロールの出目などについて、無条件にこの確率分布を適用できると考えることは、主観者の経験による。ヒューム的破れに遭遇するまで、この適用に不具合は起こらないことから、何らか未知なこと、また経験不可能なことについて思考するとき、この偶然性を汎化させてしまうが、この主観確率(尤度)の適用が妥当であると無条件に言うことはできず、また、この種族主観による偶然性の賦与、均等確率の賦与こそが確率論的な思考であると考えることは誤りである。我々に既知である確率分布のいずれかの類型に当て嵌めることに必然性はない。
 今やあらゆる学問者は、種族主観下の知識また経験が、未来や、世界のどこか別の場所で生起する、観測可能なあらゆる現象についての予測に役立つことを、それが何の必然性ももっていないことを知っていながら、意図的にこれを視野の外に追いやって、知識や観察について学問的な一般化作業をおこなうことが要請される。我々の時空間スケールにおいて未だかつてヒューム的破れに遭遇したことはなく、この経験の外部の想定をまったく度外視した実用学問体系によって現在の繁栄があり、この栄華は以降人類が存続するかぎり有効であると考えられるためである。
 しかしながら、もし奇特の人があって、経験不可能であるが思考可能であるものについての思辨体系を一箇の学問として編みたいと申したとき、我々は次のような示唆を彼に施してやるのが親切だろう。
 経験不可能であるが思考可能である、思辨による議論は収束しない。そのため、思辨に関する第一哲学は倫理学である。このとき、経験の捨象として種族主観に固有である「論理(logic)」と対照して言えば、これは伝統的な哲学における倫理学(Ethics)と区別して「倫理(ethic)」と呼べる。それぞれの論理(logic)は固有の倫理(ethic)をもつが、それは際限なく続きかねない論証において、どこまでが有効であるかを定める指標をもたないことには、学問としての客観性、すなわち万人に実用的に益しうる知見として成立しないだろうからである。規約としての論理ならびに収束可能性を賦与する良心としての倫理を把持して、そうして初めて、「思辨」の接頭辞を冠する学問、「思辨○○学」は学問の一派として認められるようになるだろう。
 経験の外部の想定から、規約や論理によって真となる言明と、ただ信念によって真となる言明とは、全く対等になる。これは、採択すべき言明を検討するさいに、信念自身が主観的におこなう重みづけ=尤度を除いて、実際的に有効な指標が何もないことを示す。この還元性は、つまり、規約によって論理的に真であることが、実際に真であることを保証しないという、近代化に伴う理性の否定と同様のものである。
 メイヤスーが主著(*16)において洞察したところによれば、旧くは特定の宗教によってなされていた、神学的な統制を受けた独断論が風化してみると、ここには本質的な信仰主義(fidéiste)が生じる。形而上学的な絶対者または外部について言及するあらゆる言明は、それが外部について何ら定めて言うことができないために、少なからず独断論的な性質を帯びている。独断論的な言明は、それを信用する理性を共有する者たちの間で信じられる。ここで、神学的な統制、つまりある理性を共有した人々のもつ、その理性の源泉が崩れてみると、理性の共有単位は、それまでの学派やセクトから、それより小さな集団、果ては個人へと細分される。ある特定の宗教によらない理性をもつ人々は、まさにそのために理性を宗教化(enreligement)されている。つまり、それまで宗教単位でおこなっていた独断論的作業を個人や小さな集団の理性自身によっておこなっているのであり、この点で「宗教」とは独断論的作業を合理化(rationalisation)する作用のことである。
 ここから踏み込んで言えば、合理化の主体としての理性は、恣意化された経験に他ならない。いずれの学問も経験の捨象であり、自身に経験される事柄について、普遍的であると思われる知識を信じる。しかし外部について何も確定して述べることはできないため、学問的知識のみを信用することも、一種の信仰に他ならない。ここで共有されている信念、前時代的な用語で言うところの理性は「経験されうる事柄のみを信用する」というものであり、そうでないものをただ「経験されない」という理由で棄却すること、両極のいずれも独断論的な性質を具えている。経験を信じ、その捨象によって得られた知識が自身の生活を豊かにするとして、それが経験を信仰しなければならないことにはならない。この独断論的な言説に服従することを選択している時点で、学問者も一人の信仰者であり、学問とは現代において支配的な神学である、と言うことも充分可能である。宗教が独断論的な知識の合理化作用であるとすれば、その合理化によって産みだされた箴言を編んだ体系こそが神学だからである。
 我々は独断論を乗り越える一つの道具をもっている。それは尤度といって、ある思考過程について、そのもっともらしさを知識や信念において評価し、それを確信することなく、単なる可能性として、矛盾しうるものであったとしても何ら不誠実なことなく、複数種保持することができる。このとき、「可能性」とは、単にそれが知識また論理上、主観者の経験上に生起することを妨げる如何なる根拠もないことを指し、必ずしも数値化されることはない。我々が実在論的に客観性をもたないために、あらゆる確率分布にも従う必然性がないためである。

 

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*16)カンタン・メイヤスー 『有限性の後で 偶然性の必然性についての試論』(2016 人文書院 千葉雅也、大橋完太郎、星野太=訳)

4. マルチバースの想定による、より強い客観性の獲得可能性

 ある、規則によって真となる論理において、論理的に妥当であるが経験不可能なものについての思考について「思辨」と言うことにする。実在論を含め、古来より哲学がこの領域を扱ってきたが、昨今では、物理学でもこれに関する問題を扱う。マルチバースの問題がそうである。
 1970年代初頭の物理学者たちは、科学定数や、宇宙の発生における初期状態に関して、見かけ上わずかな数値の変位を与えるだけで、我々の存在する宇宙、ユニバースには劇的な効果が及ぼされうることを計算した。これによれば、複雑性や安定性を必須とする生命は簡単に消滅しうるのである。生命の肉体を構成する最小要素と考えられている、アップクォークダウンクォークや電子の類いは、偶然に選ばれたにすれば余りに小さい幅に質量を抑えていなければ、更なる複合をおこなって核子や原子や分子、さらには化学一般の諸反応を起こしえず、同様に、真空エネルギーはプランクスケール(10-34オーダ)より遙かに小さく抑えていなければ、宇宙において何らの構築物も得られなかっただろう。この、偶然にしては出来過ぎている、我々を取り巻く環境には「Fine-Tuning(見事な調律)」という賛辞が与えられ、1974年のカーターの論文(*12)より、人間原理(anthropic principle)の問題と見做されてきた。何らかの観測者による被観測可能な宇宙は、そもそも高度に秩序化されていなければならず、そうでない、秩序の薄い宇宙はそもそも観測されえない、という逆算的な視点によって、我々の存在する、この途方もなく稀有な宇宙について有神論的な設計の想定を退けてきたのである。そしてこのファインチューニングに伴う人間原理の了承から、マルチバースは想定される。
 我々が存在するような、単一の(uni-)ユニバースに対して、これが複数(multi-)同時にあるもの、すなわちユニバースの集合はマルチバースと呼ばれる。現在の標準モデル(standard model)によれば、一様等方のFLRW型の一箇のユニバースは単一のインフレーションによって生起する。このとき、真空エネルギーを含む初期状態のパラメータについてはランダムに決定されると考えられているため、様々な内部状態をもつユニバースが生成可能である。生成可能であるからには、それこそ水中で気泡がぼこぼこ発生するように、マルチバース上で実際に無数にインフレーションが起こり、ユニバースが各所で発生し、生残して膨張をつづけていても何ら不思議ではない。この、複数のユニバースの存在を想定する宇宙論のモデルこそがマルチバースである。しかし、これを実証することはほとんど不可能である。自らの棲まう宇宙の外端ですら観測不可能である我々にとっては、我々のユニバースが他のユニバースと衝突を起こしていた場合にのみCMB(宇宙マイクロ波背景放射)観測によって、当該ユニバースの存在を確証可能であるばかりである(*13)。この反証不可能性の問題により、マルチバース理論を科学理論として扱うことに疑問を呈す意見もある(*14)。あらゆる理論は反証によって棄却される緊張に絶えず曝されているべきであり、ただ信念によってしか棄却されえないものを理論と認めるようでは、穿って言えば、古代ギリシアの四元素論と並べられても致し方ないのである。
 しかしながら、主観者自身の生活の役に立つこと、したがって実用的であることだけが学問に要請されるのではないとすれば、この思辨的な、マルチバースによる一連の視座の転換は、より優れた客観性を獲得しうるという点で注目に価する。たいていの学問は、個人の信念によらない普遍の理論をもつことでドクサと区別されるし、独我論を退けて我々が外部の想定をしようとするときは、なるべく後天的な先入観を払いのけたいのが常である。マルチバースの想定とは、要は学問における二段階目の客観化である。学問者として我々は、第一に個人の主観から離れて人間に普遍的な見地を得たいと願い、そして第二があるとすれば、我々が人間であるからこそ蒙る主観性から離れてさらに普遍的な見地を得たいと願うのである。しかし、我々自身が主体から離れられない以上、そうした人間的な主観性から離れたことを経験することは不可能であり、もっぱら思考可能性を頼りに思辨的に議論を進めるよりない。この前提を了承して、以降に物理学的マルチバース実在論マルチバースを区別して、実在論について更なる客観性を獲得する検証をおこなってみよう。
 実在論におけるユニバースとは、単一の主観者が経験として保有する、存在論空間を間接的に構成した根源とされる、実在論空間の部分集合のことである。主観者がもつ、実在との接触面は、不完全性のために情報量を幾ばくか欠落して相互情報量を得るが、このとき、通信路における欠落分を補ったものと、実在論空間全体とが一致するかは不明である。ここで、それぞれの主観者のもつ接触面および通信路の固有性のために、実在全体と区別される一つの集合として、実在論的ユニバースは見出される。この偏りは主観者の数だけ見受けられるが、ある種類の主観者の集合、例えば人間一般のもつ接触面および通信路に関する実在論的ユニバースを、人間一般の総和として定義すると、実在空間においてそれらが占める領域の境界がより明瞭になることが予想される。これは何も人間一般について集合を形成しなくてはならない理由は何もなく、タンパク質を主として組成される生命一般でも、同一物理学的ユニバース上の存在者としてもよい。このとき、任意に選んだ主観者の集合について「種族(Tribus)」と名辞すれば、あらゆる種族は、固有の接触面と通信路によって、総和としての実在論的ユニバース一つに紐づけられ、特定の存在論空間に棲まう。この実在論的ユニバースの集合は実在論マルチバースとして見出されるが、これはつまり、何らかの種族と紐づいているすべての実在の総和のことである。これが実在全体と一致するかは不明であり、それはつまり、如何なる種族によっても間接的な接触を受けない種類の実在が、実在論空間において実在しうることを示す。
 物理学的マルチバースが置かれている空間、つまり、インフレーション理論において、インフレーションの外部にあって実質的な「無」とされる空間はメタ空間(metaspace)と呼ばれるが、実在論においてこれに対応するのは実在論空間である。ユニバース群の集合と、空間的な包含について区別したければ、この全体空間を特に「オムニバース(omniverse)」と呼んでもよい。文脈によってこの語は無限集合として扱われるが、本論においては思考可能性から、単なる集合として扱う(*15)。オムニバースとは、経験の外部にあるもののうち、主観者自身にとって思考可能な全体集合のことである。
 以上において、単に主観者の外部を実在とする実在論より客観性に優れた実在論が見出される。主観によって存在が確証されることで存在性を獲得するのではなく、ただ実在することで実在性を獲得する、という点で実在とは客観的なものである。それについて更なる細分化を施せば、何らかの主観者に間接的に紐づくこともなく、誰にも知られることなく、真に客観的に実在する実在が想定される。これは如何なる主観者においても経験不可能であるが、思考可能であるという点から、この想定は思辨的である。
 批判的に言って、物理学におけるマルチバース理論とは、我々の存在する宇宙、物理学的ユニバースに関する稀有性についての古典確率論的な解決である。インフレーションの初期状態を決定する要因が見当たらないならば、生起しうるすべての事象について均等に確率を割り振るのが妥当であろう、という提案は、根拠のない不充足理由律(principle of insufficient reason)によっている。ファインチューニングは、この、古典確率論による、列挙可能なすべての事象、存在可能なユニバースの取りうるすべての初期値への均等な確率(尤度)割り振りによって、無用に主観化されているのである。このような均等分配の古典確率論的な議論のすべてが、ただ信念によって値を決定する主観確率を扱っているために、普遍性を失効しうる。マルチバース理論が有効であるのは、「我々の存在するユニバースの他にユニバースが存在しない理由がないとすれば、それらが存在していても何ら不思議ではない」ということを信じているときだけであり、反証によって失効することはないが、しかし「我々の、人間種族のスケール上において、経験的に観測される、物理学的な根拠の見つからない事象については均等に確率(尤度)を割り振ってよい」という信念を抛棄すれば、これを失効させることができる。ポアソン分布や一様分布や正規分布といった、我々に馴染みのある、したがって経験的な確率分布は、我々人間種族の時空間スケールにおいて頻繁に観察されるが、他の種族の指標スケールにおいてもそうであるかは不明であり、また実在論全体についても不明である。これを担保しうる如何なる必然性も見出されえないことから、これを信じることも、信じないことも、どちらも単なる信念に還元されるために対等である。
 経験のみを信じるならば、我々に固有の論理を用いていずれか一つの信念を採択して正当化することは可能である。しかし、この外部を想定するとき、あらゆる言明はすべて主観者自身の信念また信仰によってしか確証されえない。今一度確認しておけば、ヒューム的破れに遭遇するまでは、経験のみを信じていて何も不都合なことはないが、これに遭遇した以降は、その限りではない。真に客観性を獲得することは、学問の目指すべき到達地であるかもしれないが、それによって学問のもちうる君主的な特権を抛棄しなければならなくなることは、如何にもな皮肉である。
 本章について一つ付言しておくとすれば、次のようなことだろう。もしヒューム的破れによって科学定数や自然法則そのものが変化する可能性があるとすれば、なぜ各契機(instant)ごとにそれが変化しないのか、これは明らかに確率論的な外れ値であり、そうであるならば、物理的な外界において、諸科学定数や諸自然法則が不変であることが頷ける、と、申し立てる者があれば、彼が客観的なものとして想定している確率論について、これのもつ主観性、つまり主観確率(尤度)以外の何らの証拠を提示できていないことによって、この者の主張は引き下げられるのである。つまり、我々は如何なる客観的な確証を得ることはできず、それというのは、客観性とはつまり我々に思考可能な実在論空間において全知であることだからである。

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*12)Brandon Carter [1974]: 'Large Number Coincidences and the Anthropic Principle in Cosmology' ()
*13)George F.R. Ellis, Jean-Philippe Uzan Causal Structure in cosmology (2014 arxiv)
*14)Luke A. Barnes The Fine-Tuning of the Universe for Intelligent Life(5. The Multiverse)(2012 arxiv)
*15)如何なる種族も自身の存在論的空間を逸脱することはできないため、概念的な拡張は自身の空間内で必ず収束する。したがって何も無限なものはない。

2. 経験の外部についての思考としての実在論

 前章において、論理学/数学/物理学は、どれも経験の捨象であるために互いに対等であることを記述した。しかしながら、捨象の対象については「実際の世界」と言うのみで多分に不明瞭であった。本章はこれについて検討する。
 実在論によれば、あるいは我々の素朴な感覚からすれば、論理学/数学/物理学それぞれの論理空間を構築する主体者またその意識から独立に諸物(objects)は存在し、この諸物の集合、またこの集合がもつ空間的な拡がりは外界と呼ばれる。実在論的な外界、あるいはそれと同一視されがちな実際の世界、現実について、人間は経験の捨象からここに普遍の規則が作用していることを期待するものの、その実態について確定して知ることはできない。天文学の標準モデル(standard model)によれば、我々の棲まう宇宙は、余剰次元を除いて、空間の3次元と時間の1次元の4次元時空間とされるが、「次元」という観念は人間が作りだしたものであり、論理学/数学/物理学それぞれにおいて定義するこの観念にしたがって外界が構造されていたとしても、確証されることはない。論理空間や物理シミュレーション系において恒久に規則が機能することを確証できるのは、他でもなく我々自身が規則を有効にしているためであり、外界においてこれをおこなうことはできず、ただ普遍の規則を予想するのみに留まるのである。
 また、この確証不能性は構造についてだけではなく、実在じたいについてもそうである。実在とは、仮に諸物が存在するとして、何らかの主体に認識されることで存在するのではなく、それ自身で存在すること、その存在様式を指す。実在とは絶対的に諸物が存在することであり、相対的に存在する場合は単に「存在が認識される」「存在論的に存在する」と言う。認識されることで諸物は相対的に存在し、認識されることなく実在は絶対的に存在するのである。独我論を退けて言えば、諸物はそれ自身で、つまり絶対的に存在し、人間は経験を通して相対的にそれらの存在を知るだけであり、絶対的に諸物が実在することを確証することはできない。加えて言えば、諸物に対して境界を設けて名辞を与え、個別に独立したものとして扱うこともまた我々の感覚上のことである。
 ここで経験(experience)とは、人間にとっては、感覚知覚された情報のコモンセンスとしての堆積、またこれを抽象的に解釈した諸学問知のことである。まさに現在感じられる感覚刺戟と、意識的/無意識的な経験とを足し合わせて人間は外界の状態を想像し、この想像や思考をフィードバックとして自身に入れつつ、外界と同期して自らを操縦する。ここで、感覚刺激から思考へ信号が集積化する過程や、理性や悟性といった機能の分割を全く考えずに、信号の複雑化をおこなう機構について単に「情報処理系」と言おう。通信理論において、情報処理系とは信号の受信端と送信端をもち、システムにおいて信号に何らかの加工を施すものである。ここでは感覚器や脳は一体のシステムであり、感覚も思考も有限な信号単位でやりとりされている。断っておくことは、ここで言う受信端としての感覚器とは、生理学的な視聴嗅味触の五感のみならず、対象とする何らかの物理量を電流値として我々に与える諸センサを含み(*6)、実在論的な外部を想定したときに、それについて接触ないし間接的なアクセスをもって情報を抽きとる、接触面のことを指す。
 このとき、情報の(再)統合/(再)構築(*7)が情報処理系においておこなわれ、それによって我々は自身の外部を想定する。(再)統合/(再)構築により想像される「外界」は、これから述べる事由によって、実在論的な外界と一致しない。そのため、主観としての我々自身の内部において擬似の外界が見出されるという意味で、これを「内界」あるいは「存在論的な外界」と呼ぶ。我々は大抵この内界を現実、実際の世界として認識しており、とくに注意しなければ実在論的な外界と同一視してもいる。一般的な信念によれば、内界と外界は一致している、あるいは部分的に一致していると考えられているのであり、この内界が外界の部分集合であることの了解は、受信端よりもたらされる情報=経験また感覚器に対しての懐疑をもたないことを意味する。しかし、外界の実在の実在様式について何ら確証できないことから、これは信念の域を出ない。
 外界における諸物の実在について確証をもちうるのは、我々に想像される造物主のみである。ここで翻ってみれば、内界における諸物の存在について我々は確証しうる。感覚する情報が自身において(再)統合/(再)構築された総和が内界であり、このなかで連続性をもって存在する諸物は、ただ感覚されることによって存在論的(ontically)に存在する。断っておくことには、ここで、諸物の集合から諸要素を取りだすことはしない。諸物について、それがどこから単体として数え上げられるのか、名辞か、原子レベルの構成要素か、というのは個人の主観により全く異なる。この点から、人間にとって一般的な内界とは、まさに知覚された情報の総和であり、何となれば全人類、全時代にわたってとられた総和のことであると言ってもよい。単位について分けて見ることはせず、ただ諸物の集合と述べるに留まり、まさにそうすることによってここでは内界の一般性を保つ。
 さて、内界、つまり感覚情報を(再)統合/(再)構築して想像される外界においては、自然法則や因果律が、見かけ上、明らかに成立している。これらに対する反証が見当たらないからである。個人のうちにではなく全人類のコモンセンスにわたって共有されるこの整合性は、演繹的に立証されることはない。ヒューム流に言えば、身の回りに見られるそうした規律性は、決して推理されず、ただ見られるだけである。とはいえ、論理学や物理学といった経験の捨象であるところの論理を用いた推理が有効であるかぎり、我々はこれを行使し、恩恵を受けつづける。論理学規則や物理法則は、べつに真理と一致していなくても構わないのであり、一致するか否かを確かめる術を我々はもちえない。
 論理学的な示唆を一つ見出すとすれば、この整合性は主観的な時間スケール/観測領域においてそう見えるものである。「経験されなかった事例は、いつでも、経験された事例に類似する」という帰納法が見かけの上で真であるのは、観測者である我々が時空間方向にこの命題を適用したときに限られ、この枠を逸脱して適用を図ることは、少なくとも論理学においては許されない(*8)。
 主観とはつまり先の情報処理系やひとまとまりの信念のことであり、自己と外部を隔てる境界より外部、実在に対して間接的な知識しかもたず、そのために実在について確証をもちえない者またはその知識のありかたを指す。主観者としての人間はただ、現象の規則性や類似性について察知して定式化し、生活に役立てるのみである。論理学/数学/物理学は、我々が得る情報の(再)統合/(再)構築の方式の例であり、我々に対して存在論的な外界がどのように在るかを教える。この外界は主観的に切り出されたものであり、それというのは、これが実在論的な外界よりも必ず小さくなることによる。
 実在論的な外界のもつ自己情報量は、それの復元として主観者がもつ相互情報量と比較して、いつも大きい。内界=存在論的な外界は、主観者においていつも不完全に(再)統合/(再)構築されているのである。これについて論証しよう。
 主観者のもつ相互情報量、すなわち我々が経験としてもつ知識量を、完全な外界の自己情報量から差をとると、我々がとりこぼしている情報量が出てくるが、段階を踏んで言えばこれは二つの種類を見出せる。一つは解像度に関する欠落であり、これはメイヤスーがベルクソンの純粋知覚について見出した「減算的」(*9)な性質に近い。主観者における情報処理系が扱う信号は有限の単位であることから、我々が外界について切れ間なく知覚しているように思えても、その実態は離散的/デジタルである。すなわち、二つの続いた信号の間の時間隙において外界の状態を察知しえないために、情報量のいくばくかを欠損しているのである。もう一つは、感覚器に測定可能対象が有限個数であることによる欠落である。感覚器とは視聴嗅味触の五感および、対象とする何らかの物理量を電流値として我々に与える諸センサである。我々の情報処理系が扱う信号の総和、つまり物理学的に観測可能な情報量の総和は、感覚器によってもたらされる信号の総和に等しい。しかし、この情報量の総和は、実在論的な外界の自己情報量の総和より必ず小さい。これは確証不可能なことだが、仮に、主観者にとって観測不可能な物理量が一つもない場合には両者が等しくなることは、有限性に関して言えばありうるが、しかし、やはり先の減算的な欠落によって必ず小さくなるのである。これら二つの事由により、主観者が外界と信じている現実世界は、実在論的な外界に対して不完全な(再)統合/(再)構築となっている。
 以上を整理すると、下図が見出せる。主観における知識を出力とすると、情報処理系は通信路として表せるのである。

 本章を整理して言おう。実在論的な外界とはそれ自身で実在する諸物の集合のことである。対して、我々が「実際の世界」なり「現実」なり素朴に言うところの、存在論的な外界とは、主体によって感覚される情報が処理系において(再)統合/(再)構築された総和のことである。実在論空間上の「実在」が絶対的に存在するものだとすれば、存在論空間上の「存在」は、主体がなければ総和が空集合となることから相対的に存在する。
 また、ここまでを総じて言おう。経験とは、実在に対して間接的で不完全な情報のことである。これの捨象として誤りなく構成された諸論理は、規則によって真となり、外界から間接的に得られる情報をここに容れて真となる論証を構成できるが、これは存在論的な外界において合致するか否かを確かめるに留まる。
 本章において想定した実在論的な外界は、経験の外部についての想定である。この想定によれば、経験を唯一の根拠として論理空間を保っている、論理学/数学/物理学といった諸学問知は、実用性を除けばただの信念と遜色しなくなってしまう。しかし、これが顕在化するのは、ただヒューム的な破れに人間が遭遇した場合のみである。次章において、これについて検討する。

 

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*6)生得的に感覚質(クオリア)として与えられる感覚を特別視する謂われは何もない。あえて名辞するならば諸センサは「拡張知覚」とでも呼べよう。我々は拡張知覚によって放射線量を感覚し、磁場を感覚し、重力波を感覚し、また間接的にクォークの運動を感覚する。
*7) '再'に括弧がつくのは、諸物が実在して、それ由来の情報を人間が知覚しているのであればそれは「再統合/再構築」に違いないが、それが確証されない以上は、単に情報だけがあり、それを自身で「統合/構築」しているに過ぎないからである。
*8)「論理学において許されない」行為をすれば、その操作を受けた命題なり論証の真偽は当該論理空間において決定されなくなる。この命題なり論証は、論理学の規約によってではなく、信念によって真偽が決定される。しかし、帰納法じたいが論理学的に欠陥がある以上、反証が提示されないかぎり対象の命題は偽ではなく、排中律を適用すれば真であると言うよりない。
*9)カンタン・メイヤスー 減算と縮約 ドゥルーズ、内在、『物質と記憶』(2007)(2013 現代思想 岡嶋隆佑訳)

1. 論理学/数学/物理学という経験の捨象である3つの論理体系、それぞれの対等性

 物理学は史上いつの、宇宙空間上どの地点においても自然法則が適用されることを知っているが、論理学的な視点からすれば、これは帰納法を唯一の根拠とする。帰納法とは、ある限られた範囲で真となることが確かめられた命題が、抽象化によってより広い範囲で真となることを示唆する法であるが、これが正当化される状況は限られている。正しい抽象化をおこなわなければ反証がいずれ発見され、当該命題が棄却されてしまうからである。とはいえ裏を返せば、帰納法により得られた命題を棄却するには反証を見つけ出さなければならず、反証が得られないかぎり対象の命題は真として扱われるか、あるいは偽とする手立てがないばかりに、論理学の原則の一つである排中律(Law of excluded middle)に従って真とされる。
 帰納法による自然法則の正当化の流れは次のようなものである。何らかの自然法則があり、これは発見当時に確かめられ、現在もなお対象とするあらゆる物理系について有効な近似を与える。人類が観測を始めて以来、一度として自然法則が変更されたことはなく、それはつまりこの宇宙は不変の規則による秩序をもっているためである。これにより、自然法則は当該宇宙において時空間に亘って有効に機能することが期待される。
 ここに、帰納法による正当化の材料として自然の斉一性原理(principle of the uniformity of nature)が用いられている。簡単に言って、この原理はつまり「未来は過去に類似する」あるいは「未来は現在に、過去も現在に類似する」というものである(*1)。物理学において原理と呼ばれるものは、その示唆の演繹不可能性によるが、それというのは過去に経験した世界と異なる世界をかつて人類が生きたことがなく、また人為的にそうした世界を経験することが人類に不可能なことによる。しかし、少し注意すればこの斉一性原理も帰納法により正当化されていることがわかり、また、帰納法の構造自体も斉一性原理に由来していることが見て取れ、ここに有名な循環論法が見出される。すなわち、自然法則は斉一性原理を用いて帰納法により正当化されるが、この斉一性原理は帰納法的に正当化されたものであり、帰納法もまた斉一性原理によって正当化されているのである。循環論法とは、論理学的には無為のもの、すなわち何事についても語っていない空虛な論証と見做される。ここに、自然法則は論理学的に何物にも担保されず、これを基礎として展開する物理学的論証の一切が空疎のものとなってしまうという問題が浮かび上がる。これは歴史上「ヒュームの問題」として扱われ、永劫解決されないだろう問題として認知されている。これについて、グッドマンはそもそも帰納法が非合理であるとして存在論的な問題を撤退させ(*2)、ポパーは良く検証/テストされたものが「妥当」であるに過ぎないとして真偽についての議論を控えた(*3)。真偽の判別のつかないものは慎重に扱うべきである、という態度が好ましいとされてきた節が主流にはある。
 以上は、論理学における自然法則の正当化についての失敗である。では、物理学自身は自然法則についてどういった正当化をおこなっているのか、物理学において何か人類に新しい自然法則がもたらされる場合について見てみよう。
 ある実験系において生起した現象について、実験者はそれまで知られている定式化によってその現象が現様に生起することを説明できないために、ここに未知の自然法則が働いていることを察知する。彼は測定データについて吟味し、当該実験系にて変動する諸物理量のうち、対象とする現象の生起に関わっている要素を抽出し、その対象物理量についての測定点を増やして実験をおこない、その動向についてより詳細なデータを得る。そして現象というのもまた諸物理量の変動であるから、起因となる物理量の変動量がどのていど結果となる物理量の変動量に寄与するかについて数式を用いて定式化し、目下のところ反証が見つからないとすればこれを自然法則の一員に加える。この新規な自然法則は、実際の物理系に対して適用が利くのか、同一の対象物理量を扱う実験者たちによって、完了することのないテスト/験証を永劫に亘って受けつづけ、当該自然法則の示す近似の例外となる現象が観測されるまで有効とされ、あるいは、例外となる現象が観測された以降は実験系の複雑性に応じて部分的に有効とされる。
 ここについて言えることは、物理学の活動領野において論理学的な正当化をおこなう必要は全くないということである。物理学上有効である論証はテストに耐えうるために有効であり、この「有効である」「妥当である」と言うのは、論理学において「真である」と言うのと物理学にとって全く同等である。よってここに、論理学ならびに物理学両者の体系を、真偽決定の観点から区別することの必要性を提示する。物理学において真とされる理論(命題)は、論理学的に真であることを必要条件にもたないのである。これは逆についても成立する。
 ヒュームの問題について見直せば、これは問題設定の不良のために問題を解決できない。つまりこれの解答不能性は、「物理学的な論証は論理学的にも妥当でなければならない」という誤認から問題が提起されたことに由来するのである。本章では以降の論述により、論理学の従う論理と、物理学の従う論理が別様であることを詳らかにする。ここで論理(logic)は、哲学の一分野としての論理学(Logic)と区別する。
 論理学は、物理学と同様に経験を捨象して構造された体系である。物理学上の自然法則が神によって授けられた普遍の法則でないように、論理学上の各種規律(law)、排中律矛盾律同一律といった規約もまた人間が発見したものであり、実際の世界が秩序ある構造をもち、この構造は論理学上の規律を骨格としている、と普遍に言うことはできない。ある人が同一の人格を保てるのも、万物が因果律に従っていることも、ただ経験からしてそうだというだけであり、森羅万象がある特定の論理学規則に貫かれているように思われたところで、実際にその規則が機能している如何なる証拠を発見することも人間にはできない。
 経験を捨象して見出した傾向を論理規則として明文化したもの、論理が誤りなく機能するのは、我々の想像上、つまり規則に従うことを了承した記述や思考においてのみのことである。この領域を仮に「論理空間」と呼べば、人間はただ、「自ら定めた規則上で、規則に従うことを取り決めた対象が、論理空間においてどのように運動するか」を記号ないし論証をもって記述するだけである。論理学の論理空間において真である言明の大半が実際の世界においてもその通りに観察されることは、論理学が経験の捨象として上手く機能していることを示し、それ以上の確証を何も与えない。(*4)
 論理学や物理学の論理空間上で真となる大抵の命題および論証が実際の様式と合致するのは、論理空間上の命題や論証のように規則によってそうなるのではない。不断の合致の発見を通して、ここに規則が予想されるだけであり、ヒューム流に言えば、すべての合致また見かけ上の恒常的随伴(constant conjunction)は全くの偶然である。論理空間の枠外で適用可能な証拠を人間に発見することは不可能であり、この偶然的な合致は何物にも担保されない。
 論理学の規則は人間が定めたものであるから、人間が「これを機能させる」と言えば、まさにその宣言によって一切の真偽性は担保され、論理空間は規律通りに運営されるという意味で清潔に保たれ、同様に物理学理論のとおりに現象を計算(compute)されたシミュレーション系もまたそうされる。しかし実際の世界を運営するのは人間ではなく、また運営者の有無も不明であり、これを人間に確かめることはできない。仮に「検証が済んだ」として、更なる外部の非在を証明することはできず、無限後退に陥るためである。
 以上を総括して、論理学は経験の捨象であり、不断の捨象作用により実際の世界における一貫した規律が機能していることを予想できたとして、それが実際に機能していることを論理学的に確証することは人間に不可能である、ということが言える。これは、視点を変えればつまり「自然法則が論理学的に空疎である」という批判の不当性の本質に当たる。この批判によれば、物理学における自然法則の検証の不徹底性、また実際の世界との埋めようのない距たりが浮彫りになるが、論理学自身に目を移してみれば、論理学的に真である論証といえど実際の世界について何も定めて言うことはできない。
 繰り返して言えば、物理学自身は論理学的に妥当な論証を必要としていない。自然の斉一性原理も、自然法則も、論理学上の各種規律も、根本的には経験の捨象である。これらのことから、規律(law)/原理(principle)という出発点が異なるために論証形態は別様であるが、論理学と物理学はどちらも経験の捨象であり、互いに互いが、自身の規則に従っていないばかりに他方を一方的に却下することができないことが頷ける。この棄却不能性から両者が対等であることがわかるが、この対等性こそ、論理学の従う論理と、物理学の従う論理が別様であることの証左である。
 実際のところ、論理とは論理学の専有物ではなく、それぞれの論理体系が固有にもつものである。本章一連の論述を踏まえて言えば、論理とは、論理原則として定めた規則が機能することを宣言し、それが維持される空間(記述ないし思考)において論証を組み立てる過程、また空間を維持する構造のことを指す。論理学における論理や、物理学における論理は、これの一例にすぎないのである。(*5)
 論述は省くが、これは数学についても同様である。数理もまた経験の捨象であることから、実際の世界について、ヒュームの偶然性から逃れて、定まったことを言えず、数学に固有の論理原則の適用を宣言した論理空間において論証が真に機能するのみである。そしてまた数学的な論証が一方的に論理学また物理学の論証を却下できないことから、三者はそれぞれ対等にある。
 三者の対等性、またそれに伴う独立性は、当然ながら歴史的な成立過程を全く度外視してのことである。ここでは、固有の論理をもつ体系は、「固有の論理原則を定めれば、自律的に自生しうる」こと、「規則によって真となる定理の発見によって拡充されうる」ことを了承する。つまり、歴史を顧みて、数学において新規に発見された定理がそのまま物理学へ流用された例など枚挙に暇がないが、これは物理学の論理原則上に矛盾しないためにそうできたのであるから、物理学の論理空間において独自に発見し、それを自身に適用することは全く可能なのであり、可能であるとすればそうなされたものと見做してもよいということである。これは、仮に他力によりその定理を発見したとして、それが物理学の論理空間上で正しく適用できるのは、それは数学の権威によるのではなく、物理学の論理原則上何も問題が発生しないことによる、ということを示す。まさにこれによって独立性が担保されるのである。
 本章を要約しよう。

・論理(logic)とは、論理原則として定めた規則が機能することを宣言し、それが維持される空間(記述ないし思考)において論証を組み立てる過程、また空間を維持する構造のことを指す。
・論理学(Logic)や数学や物理学といった論理体系は、固有の論理原則から自律的に自生可能であり、これによって固有の論理をもつ。
・経験を捨象して構造されたそれぞれの論理体系は、実際の世界を貫く法則を想定するのみであり、それを確証することはできないために対等で、何れも他方より優位に立つことはない。
・ヒュームの問題は、対等性を犯した前提──論理学が物理学に対して優性のものであるという誤った前提から提起されているために設定不良である。

 


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*1)デイヴィッド・ヒューム 人間本性論 知性について(2011 法政大学出版局曾良能訳)
*2)ネルソン・グッドマン 事実・虚構・予言(1987 勁草書房 雨宮民雄訳), クァンタン・メイヤスー 潜勢力と潜在性(2014 現代思想 黒木萬代訳)
*3)カール・ポパー 客観的知識(1974 木鐸社 森博訳)
*4)穿って言えば、まさに観察されることによって、実際の世界ではその対象/その現象様式が真とされることも論理規則による。実際の世界において現象しないものは、論理学的に見て真ではなく、真でないからには偽とされるが、ふつうは偽であると判断するには材料が足りないために真偽決定は留保される。実際の世界から概念を引用してきて、それを論理学の論理空間上で扱うさいには、扱い者自身の知識によって真偽が判断されるものの、一度判断してそれを覆さなければ、論理空間上では規則によって真となる。命題の連なりとしての論証もまた、規則に従った手続きを踏めば、規則によって真となる。
*5)付言すれば、「law」という一語の使われ方を見ればわかるとおり、語用に関する意味論的にも両者の断裂は明らかである。物理学では目的として、論理学では出発地として、それぞれ使用されている。

3. ベイズ理論の導入によるヒューム的破れの検討

人間の言う「世界」は、感覚する情報を自身のうちで(再)統合/(再)構築した総和のことであり、経験として接触可能な実在の総和より実在空間全体が大きいとすれば、観察可能なパラメータの外部のパラメータの変動によって、まったく予期しえぬ事態に直面することが当然に想定される。それは、観測不能、つまり理論として定式化できないために、あたかも全くの偶然に(ヒューム引用)生じる、と言うよりない。我々がメカニズムを決して知りえないこの作用は、歴史上「ヒューム的破れ」と呼ばれてきた。これの意味するところは、「物理法則は時空間に普遍的に適用される」また「現在の事象は過去の事象に必ず類似する」という基本的な原則が例外的に破綻する状況への遭遇である。(*5)観測を初めて以来、我々はこれを犯した現象に一度として直面したことはなく、そのために物理学は現実世界へ近似として適用するに実用的/妥当とされている。
 人間に不可知/不可観測であるところのパラメータの想定から、経験の捨象である、ある特有の論理によってなされる現実世界への近似の合致は、確率的になることが了承される。ある論理において真である予測が、実際に現実世界の物理系において同等に現象する確率poは、事象の全確率1から、ヒューム的破れの状態確率phを引いた値となるのである。これは、裏返せば「ヒューム的破れは生じない」とする物理学の立場から、phの値を0と見做しているためにpoが1となり、物理学的な予測結果が現実世界において生起することが必然視されているということである。本章では、このph = 0の近似を主観的なもの、主観確率(subjective probability)と見做してベイズ理論の導入を図る。
 輓近、確率論へのベイズ的なアプローチは、理論ならびに実践におけるデータ分析について、古典的な確率論や論理学の単なる拡張として扱われている。ベイズ確率における条件付き確率(conditional probability)、p(B|A)は、Aが観察されたという条件下でBが観察される確率、あるいは、2つの命題AとBに対するB→Aで示される論理包含を意味する。この値は尤度(likelihood又はplausibility)と呼ばれ、実際に観察されうる尤もらしさ、命題の真らしさの指標として用いられる。ここで、尤度は以下の要求項目Dに従うことにする。

D1: 尤度は実数値で表現される。これにより、尤度が単一スケールで比較されることを保証する。
D2: 尤度はコモンセンスの様態に従って変性する。ある命題を尤もらしいと思うのは、例えば、信じられる因果律において有効である根拠が挙げられており、それを反証するような根拠がないときである。
D3: 1つの結論が複数の方式によって推論されうるとき、可能なあらゆる方式は同一の結果を導かなければならない。
D4: 情報は恣意に選別してはならず、与えられたすべての証拠が考慮されねばならない。
D5: 対象についての知識状態が同一のときは、尤度は必ず同一値となるべきである。

 コックスの定理が示すとおり、尤度は一般的な確率の規則に従う。これはブール演算上の論理積(AB)、論理和(A + B)、否定(A)の表記に基づいて以下のように表される。

p(AB|C) ≡ p(A|BC)p(B|C) ≡ p(B|AC)p(A|C) (1)
p(A+B|C) ≡ p(A|C) + p(B|C) - p(AB|C) (2)
p(A|C) ≡ 1 - p(A|C) (3)

 (1)式より、ベイズの定理を得る。(ここで、p(B|C) ≠ 0とする)

p(A|BC) = p(B|AC)p(A|C) ÷ p(B|C) (4)

 このとき、p(A|C)を事前確率(prior probability)、p(A|BC)を事後確率と呼ぶ。等式で結ばれていることからわかるように、ベイズ理論では因果律上の結果──観察データから、因果律上の原因──諸法則について計算することが可能であり、この点で因果律に則った一方向の計算しかおこなえない、古典的な確率論を拡張している。
 拡張はもう一つなされる。古典的な確率論では、踏み込んで言えば、古典的な確率論を持ち出すときには、確率piは根元事象の数nに比例配分される。ダイスを振った出目にはそれぞれ1/6という値が均等に与えられるが、これは特に傾向を決める要素が試行に含まれないという前提下でそうされ、試行回数を大きくすれば本来の値に限りなく近づくことが大数の法則(law of large numbers)として知られている。これは特定の状況や試行者によらずに同等の結果を得られると期待されることから客観確率(objective probability)と呼ばれ、古典的な確率論ではこちらしか扱わない。対する主観確率(subjective probability)は、重心位置を変えて目印をつけたダイスを任意に選んで振ったり、衝撃に対して脆いダイスを用いるなどした場合の、特定の状態や試行者によって値にバラつきが生じる確率であり、普遍的に同等の結果を得られることが期待されない。ここで、ベイズ理論による第二の拡張によれば、両者は尤度として一律の定理下で計算可能となる。何らかの事象について、ある人が信念のために想定した生起確率(尤度)と、数理的に普遍的な予測から算出される生起確率(尤度)とを全く対等に扱うことを認めるのが、第二の拡張である。
 言ってしまえば、ダイスロール試行による出目に配分される確率が均等になるのは、あるいはそう予測して試算できるのは、試算者の物理学的な知識において偏りを予想するだけの情報が整わないためである。整わない以上は、不充足理由律(principle of insufficient reason)に則って事象の生起確率を均等に配分するのが尤もらしいと判断され、加えて、これを撤回しなければならないほど予測と経験とが乖離しないことによる。つまりは、主観確率を承認するというよりは「何も真に客観らしいものはない」という前提から客観確率の絶対性を批判し、失墜させることで両者の対等性を実現しているわけである。
 以上の古典確率論への2つの拡張により、ヒューム的破れを加味した、現象の観測における特定の論理による近似の適用可能性を、バーンズの議論(*6)を参考しつつ、定式化をおこなう。
 経験の捨象としての、ある論理における理論また仮説Tは、観測によって得た証拠Eおよび背景知識Bから、ベイズの定理((4)式)よりp(T|B)を事前確率として事後確率p(T|EB)を得る。
p(T|EB) = p(E|TB)p(T|B) / p(E|B) (5)
このとき証拠Eは経験可能なすべての情報についての部分集合であり、背景知識Bは信念によって知るものではなく、当該論理空間において真に機能する定理である。また、p(E|TB)は尤度であり、p(E|B)は周辺確率である。ここで得られた理論Tから、実際に現実世界において観測されうる現象Oについて見ると、ベイズの定理より事前確率p(O|B)から事後確率p(O|TB)が計算される。
p(O|TB) = p(T|OB)p(O|B) / p(O|B) (6)
この尤度p(O|TB)とは、論理原則として定めた規則が機能することを認容し、それが維持される論理空間において真である定理が、現実世界においても適用されうる、すなわち理論Tによって得られる近似現象と、実際に現実世界において観測される現象Oとが合致する度合いを示す。冒頭に述べたとおり、人類史において充分に検証が済んだ理論に関して、我々の経験を信用すればこの値は1である。しかし、ここで経験の外部すなわち実在の想定、つまり人間に不可知/不可観測であるところのパラメータを想定することで、確証不能性から、この値は信念によって不定となる。
 式(6)が示すのは、我々に固有の論理を外部に対して適用する際、主観による重み付けを必須とすることの了解さである。科学法則や数計算が現実世界において有効/妥当であるのは専ら主観が検証する範囲でのことであって、真に規定されている保証はないとすれば、すなわち我々に経験される一切に普遍性を認めなければ、ここで扱われた確率(尤度)のどれも主観確率である。したがって、我々はそれらが有効であることを、尤度の値に期待するのみであって、さらに言うと、この尤度はただ主観によって任意に与えられるよりない。任意に設定可能であるとすれば、経験されることが実在のすべてだと信じる物理学者はp(O|TB)が1となるように諸尤度を設定するだろうし、そうでない懐疑論者はこれがより小さい値をとるように設定するだろう。どれだけ長く観測をおこない、尤度p(O|TB)の値を1に近づけようと、それは「この程度の観測で確信には充分である」とする信念の作用によるのである。また、NOT p(O|TB)が示す値はヒューム的破れの生起確率(尤度)である。もしこの想定が莫迦げていると考える者があれば、それもまた主観によるドクサのためである。

 

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*5)これは新規物理法則の発見可能性とは区別されるべきである。例えば、もし時間変数や空間変数の導入によって、時空間への非等方性が理論によって定式化され、説明可能であるとすれば、これはヒュームの破れではなかったものとされる。なぜなら、人間に既知のパラメータによって定式化されているからである。
*6)Barnes, L. A. [2017]: "Fine-Tuning in the Context of Bayesian Theory Testing" 2. Probabilities for Model Selection in Physics

Ethics/Estetics about spaculation ver.2 (思辨における倫理 本組み第4章)

4. 妥当性について -学問的であることの倫理性-
 前章において適用した客観化作用は、外部についての考察を無限後退に陥らない形でおこなうための論証様式であり、その形体は背理的な演繹法であった。経験の捨象である既知の学問知識から出発し、学問的に反証不可能な言明により演繹をおこなう法である。これは一般的な物理学のもつ自明性、すなわち理論云々は抜きにして現象が突きつけられたとき、その現象は必ず物理学的に定式化できるのだ、という無根拠な期待を抱くことが、まさに前提となるべき現象が手元にあらわれないため、これに欠いている。
 物理学に限らず学問における客観性とは、誰にとってもその知識を有意に扱えること、つまり人間種族において実用的であり、妥当であることにある。実用的であるとは、その知識を用いなければ不可能また困難であった事柄をあまり労せず為せるようになりうることであり、妥当であるとは、理性的である多くの人がその論証によって納得しうることである。
 この知識は、他種族において有効である必要はまるでなく、ただ人間に読解可能な言語で、ただ人間が生活するときに有用であればよい。このとき、一つの種族として閉じたコミュニティの外部、種族一般について有効な知識についての検討は、人間種族自身の内輪で議論して到達することは難しい。それぞれの種族が自前の学問的知識をもちより、その積集合をとることが最も簡易であるし、それが、互いに接触可能な種族における知識という偏ったカテゴリのものであったとしても、前者よりは信用がおけるものと考えられる。
 ある種族において正しい、つまり妥当とされる学問的知識は、優先選択によって採択された要素から成る。理性的な人々の間で自明でないとされる言明を基礎において演繹作業をおこなう独断論的な論証はなるべく斥けるべきであり、そうすると必然的に、万人が具えている感覚器官の情報、および意識に浮上しうる経験のすべてを信用し、これを基礎とする論証がもっとも受け容れやすく、また自明であると信じられる。
 メイヤスーが主著(*7)において洞察したところによれば、旧くは特定の宗教によってなされていた、神学的な統制を受けた独断論が風化してみると、ここには本質的な信仰主義(fidéiste)が生じる。形而上学的な絶対者または外部について言及するあらゆる言明は、それが外部について何ら定めて言うことができないために、少なからず独断論的な性質を帯びている。独断論的な言明は、それを信用する理性を共有する者たちの間で信じられる。ここで、神学的な統制、つまりある理性を共有した人々のもつ、その理性の源泉が崩れてみると、理性の共有単位は、それまでの学派やセクトから、それより小さな集団、果ては個人へと細分される。ある特定の宗教によらない理性をもつ人々は、まさにそのために理性を宗教化(enreligement)されている。つまり、それまで宗教単位でおこなっていた独断論的作業を個人や小さな集団の理性自身によっておこなっているのであり、この点で「宗教」とは独断論的作業を合理化(rationalisation)する作用のことである。
 ここから踏み込んで言えば、合理化の主体としての理性は、恣意化された経験に他ならない。論理学/数学/物理学いずれの学問も経験の捨象であり、自身に経験される事柄について、普遍的であると思われる知識を信じる。しかし外部について何も確定して述べることはできないため、学問的知識のみを信用することも、一種の信仰に他ならない。ここで共有されている理性は「経験されうる事柄のみを信用する」というものであり、そうでないものをただ「経験されない」という理由で棄却すること、両極のいずれも独断論的な性質を具えている。経験を信じ、その捨象によって得られた知識が自身の生活を豊かにするとして、それが経験を信仰しなければならないことにはならない。この独断論的な言説に服従することを選択している時点で、学問者も一人の信仰者であり、学問とは現代において支配的な神学である、と言うことも充分可能である。宗教が独断論的な知識の合理化作用であるとすれば、その合理化によって産みだされた箴言を編んだ体系こそが神学だからである。
 ある個人が属する種族とは、人間一般あるいはホモ・サピエンス一般を必ずしも指さない。共通した感覚器と情報処理系を有するものどうしが種族として集約されるが、理性、つまり特定類の言説への信仰心は、情報処理系の一部として機能しうる。これにより生物学的な分類からさらに分断されて種族は成立しうるかもしれない。また、これは逆も然りである。個々人の理性による差異など、種族の内輪で肥大のものと映るだけで、他の実在論的に断裂した種族を鑑みれば微々たるものであるとすれば、イルカや火星人など、同一の物理学的ユニバースに属する者は皆一つの種族として還元可能かもしれない。同一の物理組成をもてば、実在論的な接触面はほとんど同一だろうと考えられ、我々の種族が触れうる実在の集合が、実在の全体集合と較べてずっと小さかった場合、断裂はむしろ実在論的空間において起こっているものと見做せるためである。種族とは主観的に分類するものではなく、いくつかの種族を見出して、それを分類するものである。しかし実在論的な視座に個々の種族が立つことはできないため、正しく分類されることはないのである。
 ここで、本論ではいくつかの不可能性について扱ってきたが、思考不可能であることについて、それがただ思考不可能であるという理由で議論を閉じることは簡単である。しかし、もし、その議論が如何にして思考不可能であるのか、どのような視座にあればその思考不可能性は解消されうるのか、という議論に価値を与えうるのならば、それが論理的な構造をもちうるかどうかというのは、充分に学究の対象となりうるものと考える。外部について言及する一切の思考が、理性の作用なしに真とされえないとすれば、ここに、ある思考について、それがどのような根拠をもち、どのような動機をもって真とされうるのか、またそれの優先選択をおこなう辨別機構は理性においてどのように形成されうるのか、ということについて議論をおこなう倫理の想定がなされる。
 これはちょうど、第一章において論理学と論理とを区別したような仕方で見出されるのであり、人間が形成する倫理一般について議論をおこなう倫理学とは区別される。論理学/数学/物理学といった経験の捨象であるあらゆる論理は、あらかじめ定められた論理原則にのっとって論証をおこなうことを誓った理性らにより、自身に固有の論理空間をもつ。これらの論理はさらに、扱う対象についての取り決めについて同意することで、複数の人間において論理空間を共有されるようになる。しかし、何も外部について定めて言うことはできないため、何らか特定の動機を得ないことには、確定した言明をおこなうことはできない。ここで、論理原則に従っているすべての言明を合理化する傾向こそが倫理であり、各々の論理はそれぞれに固有の倫理を保有する。保有の形式は様々であり、どちらかが他方に従属する形も、監査機関として他方を設置する形も、一体として融合する形もありうる。第一章において、あらゆる論理体系は同一の論理原則をもつことで、再現性をもって自律的に自生しうると述べたが、倫理の共有がおこなわれなければ、それぞれは偏った体系として再現されうることを、ここに注意しておきたい。
 ある種族、またある理性が、自身の経験的な知識また存在論的な想像に基づいておこなう一連の記述、また記述様式について、単に思考を辨別するという意味で「思辨」と呼ぶことにする。思辨はそれ自身で真となったり正当化されることはなく、必ず何らかの主観者によってそうされる。倫理によって選別また抽出された経験についての捨象から仮説としての思辨がいくつも形成され、それを論理原則の下に成否を判断することにより、あらゆる学問的知識は醸成されている。ここで学問的知識とは、特定の論理による選別を受け採択された思辨の群に他ならない。主観者の感情によって表出し、倫理と論理による二段階の審査をパスした思辨が、ある種族、ある理性において知識として堆積するのである。
 ある思辨について真偽性また正当性を賦与するものが、それ自身では不確定である特定の理性によるものだとすれば、もはや制約は何もない。とすれば、経験されるもの以外を認めないとする学問側の態度も、自由に改変される余地がある。しかしながら、迂闊な改変は無用な体系の断裂を招きうるため、体系自身については触れずに、独自の体系を新たに産みだしてゆくことが要請される。本流の学問体系との区別のため、「思辨-」という接頭辞を諸学問名前につけることとすれば、分派した「思辨○○学」は、「基となる学問上の知識から出発し、思辨的な演繹過程を経て、当該学問の論理原則また定理によって棄却されない結論を導く」という性質を帯びる。思辨的な演繹過程とは、経験による証拠の提出を一切必要としない、ただ思辨の記述によるものである。前提と結論さえ、基となる学問において妥当である言明であれば、その倫理様式また論理様式は、基となる学問の名に接頭辞をつけて名乗ってよいとする。
 思辨-を冠する、分派によって誕生する一切の学問は、客観性への挑戦を動機とする。実用性、妥当性は、特定の種族また理性によって構成されるものであり、思辨による学問はこの外部を想定し、経験と不可能性の狭間で論理構築を試みるのである。前章にておこなったユニバース/マルチバースについての検討により、すでに思辨物理学は実践されている。マルチバースとは、物理学上のインフレーション理論を基礎とし、反証不可能である思辨的な考察を経て、マルチバースという物理学的な構造をもつ宇宙の一形式を提示しているからである。

 

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*7)カンタン・メイヤスー 有限性の後で 偶然性の必然性についての試論(2016 人文書院 千葉雅也、大橋完太郎、星野太=訳)