想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

eXtity に関する加速論的プロトタイプ vol.0:メモランダム

keyword: 加速論(acceleration theory),圏論(category theory),存在論(ontology),文脈(context)

 

  • なぜ圏論を用いるのか? - 存在と作用の区別をやめる.これにより,旧来の存在論から脱却し,存在論において加速を図る.
  • どんな利点があるのか? - 既存の存在論形式で扱いえない対象,複雑な文脈や因果を記述可能にする.
  • 最終的にどこへ向かう? - 人間を超えた視座を得る.旧来の存在論は,生活/生存に最適化されている.これについて游離を図り,純粋で強力な存在論モデルを得る.

 

《装備: 圏論的所作》

目下のところ,圏論の記法は初等的なもので事足りる.

   対象      作用      対象

      A          →          B

(ドメイン)              (コドメイン)

このとき,作用: →対象Aから対象Bへの射(morphism)と呼ぶ.対象(object)とは,当該スケイルにおいて「単一」と見做せるものである.

複数の対象について,あるスケイルにおいてまとめて扱う場合はこれを圏(category)とし,作用について函手(functor)と呼んで区別することもある。

     圏        作用       圏

      A          →          B

(ドメイン)              (コドメイン)

  •  対象や圏とは,存在論上での存在(existence)のことである.存在は記述者によって必ず名辞されるが,これは記述者において認識可能なものに限られている.一般的な存在論においては,存在を主的に,これらの相互作用を副次的なものと見る.
  • 圏論においては,函手や射を集めたものは定義から圏となる.これにより,存在と作用とを区別することのない存在論を編むことができるようになる.このために圏論を導入する.
  • 本論はマルチスケイル性の獲得を1つの本懐としているため,対象と圏,射と函手を意識的に混同することがある.単性と複性はスケイル上の差異でしかない.eXtityは無数のスケイルに跨がって存在し,本存在論はこれを扱う.

 

 

《定義:eXtity》
<en- 可能な>実体としての "entity" (語源はラテン語 ens のため言語的な解釈としては不適)
<ex- 外部の>複数の文脈上の実体すべての統合体、交差としての "eXtity"

 

我々は無秩序を生き抜く最初の世代となる.
君達は無秩序を生き抜く最初の世代となる.

 秩序とは、あらゆる形成の規範である。

人格の形成に関する規範(倫理・道徳・信念)を権威的に確定させる諸因子(国家・宗教・地域的コミュニティ)の瓦解は、人々を無秩序へ抛りだす。現代に精神的成長期を経る我々は、この無秩序を生き抜く最初の世代となる。

 

 

20世紀: 複数の宗教の解体,およそ半世紀で科学への鞍替えが完了.
21世紀: 国家の解体の時代.統制は自治の前に解消される.

我々は今世紀中に以下を経験する。

  • 民族というアイデンティティはもはや誰にも重要視されない。(世界市民化)
  • 経済基盤を、国家に頼らずに個人において確立する。(税制の破綻)
  • 国境往来に関する牆壁の実効性が仮想レイヤによって衰える。(電波遮断を除く無境界)
  • 仮想レイヤにおいて"犯罪"は消滅し、すべてをリスク要因として処理される。(司法の自治)

 

 《時代区分》

"近代" "現代"という区分は依然として有効であり、その先を見据える "加速" が区分の一つとして追加される。

近代 ← 現代 → 加速
                             → 加速
                             → 加速
              (多分岐性)

時代感覚は相対論的になる。"現代"的ではないが、しかし現代の状態について実効的に深く関与しており、文脈上で隔絶しているとは言いがたい一群について"近代"的と呼ぶ。後パラダイム(post-paradigm)へ現代として移行するさいに前パラダイム(pre-paradigm)が近代となるため、流動は図式の向きになる。現代(status quo)とは、リアルタイム上の状態を形容する一群である。これに対し、パラダイム上で支配的ではないものの、現代の技術水準・文脈水準からして進歩的であるもの、次代的である一群について"加速(status accelerationi)"と呼ぶ。


人文学者は"確定した"現代に留まりたがるが、加速論者はその確定性が虛構と知っている。

 

已むことのないハードウェアの驚異的な進歩と、世の中の動勢が爆発的に多極化により、安易に"Accelerated-"の接頭辞をつけられるようになる。

 

 """ ---------------------------------------------------------------------------------------------------------------

加速実在論(Accelerated Realism):
仮装レイヤ(拡張現実ARや仮想現実VR)の時空間解像度が上がると、物理レイヤとの区別が感覚的に困難になる。これは本来的な外界=リアリティについて、感覚による経験の抽出から映し出される、人間が"心"や"意識"に投影していた、ナイーヴな世界観に関するイドラ的な編集・改竄と同様の変換射である、とする。

リアリティ(実在) → 五感的な世界 → 仮想と物理の混合した世界
(このとき,→:抽象射(abstractional morphism))

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------- """

 

加速:あらゆる分野において文明が今後直面するカタストロフについて、これを引き起こす機構としての資本主義=速度を操縦可能(navigational)とする実験的発見過程(experimental process of discovery)のこと。可能性によって支持される空間における作用であり、マルクスやランドを前駆とする。ランドによれば、資本主義の速度のみがシンギュラリティ(技術的特異点)へ至るグローバルな移行を生成しうる。

原型:

#ACCELERATE MANIFESTO for an Accelerationist Politics (A. Williams & N. Srnicek, 2013) #ACCELERATE MANIFESTO for an Accelerationist Politics

Teleoplexy: Notes on Acceleration (N. Land, 2014) https://track5.mixtape.moe/zphjim.pdf

 

《加速における2つの側面》

テロス的加速……目的論的アプローチにより、より進んだ想像可能性を生む。

[惰性]   A   →   ;;靄

[加速]    A    →   B

■加速とは、プロトタイピングの一種である。(不可避性)

「この先に必ず起こりうる」現代を描く。この描画・回覧の効果により、当該プロトタイプに見出される現代に到達することはなくなるかもしれない。が、それはつまり悲劇的な災厄を「回避」したことに等しい。

■加速とは、破滅の予見としての危機管理である。(反動性)

速度とは現在に与えられているものであり、加速とは数歩先の現在に所与である速度を変性させるものである。際限なき速度の増強は、飽和的破滅から解体的破滅へと性質を変化させる。両者の違いは再建性の有無である。このとき "再建性" とは、進化論的に優位の個体を、既存の残骸から構築することに他ならない。

 

ポテンシャル的加速……自己革新的アプローチにより、潜在能力の増強を図る。

[惰性]   A   →   B

[加速]   A       B

                    ↘ →    C

■加速とは、鳥瞰的な視座構築の一種である。(演繹性)

現在見えていないものが、加速によって発見されうるようになる。これは一般的な視座変換とは異なり、単に姿勢を変えたり、新たな指標を導入することによって得られない。全く新たに視座を構築するのである。刷新されるのは視座ばかりでなく、観察の対象領域にも起こりうる。

■加速とは、徹底した悲観主義である。(進歩性)

絶え間ない自己変革によってしか、理想とする自己像には到達しえない。また、自己変革を已めた途端に、その者は破滅を覚悟しなければならない。これを強迫とも悲観とも感じない者だけが、真に加速しうる。

 

☆結局のところ、《人間の知能に扱いうる限界を定めること=種族的惰性》によってこれまで放置していたパラメータのすべて、あるいはその幾つかを可捉とすることでしか、加速は成立しえない。この知覚的底上げに関する加速サイクルは、以下のものが典型である。

①知覚的底上げ → ②対象および周縁の解析 → ③同解釈 → ④新奇パラメータの発見 → ①...... 

惰性とは、しかし不確定性や深淵性や神秘性といった浮游の生成でもある。これを減速性、すなわち負方向の加速として組み込むことを、加速論は「操縦」という語に含ませている。(しかし、加速と減速を交互に繰り返すような迂闊な操縦は素人のすることである。)

 

eXtityの加速論的導入》

一般に、文脈(context)は、非拡張の人間に理解可能であるように簡単化/制限された流動である。これは静的な構造をもつ。一般形は以下のようなentityモデルである。

entityentityentity

                 |

       entity             :平面

(ここで,─:作用、関係、相関etc.)

 「単一の」文脈で事象/現象が完結して進行することはありえない。上のような文脈モデルでは、複数の文脈の交差点を設けることで、この複雑性を記述する。

しかしながら、実際の対象(object)は複層的であり、必ずしも時間軸に沿った関連をもたず、吸着/脱離などあらゆる境界が曖昧である。したがって、加速によりこれらのパラメータを可捉とすると、我々にはentityを抛棄することを求められる。もはやeXtityは超曲面上にあるため、以下のモデルは正確でない。

eXtityeXtityeXtity

                 ↑

    eXtity              :超曲面

(ここで,→:関係射(relational morphism)

 entity存在論的に単一の対象(明確な境界をもち、まさに境界をもつことによって存在論的に存在するもの)を示したのに対して、eXtityとは流動そのものである。これは、観測するスケイルによって、entityと等しいときもあれば、entityどうしの関係=(極小の)文脈そのものであったりする。こうしたeXtity系の相対論性/マルチスケイル性は、対象(object)と作用(action)を区別しないこと、対象=作用=圏(category)として包摂することで記述可能となる。

一般に、①知覚的底上げ②解析③解釈④新奇パラメータ発見の一連のサイクルを回し続ける加速函手(accelerational functor)により、圏: entityは圏: eXtityへと複雑化/高度化される。

entityeXtity

(ドメイン)         (コドメイン)

(ここで,→:加速函手(accelerational functor))

 ここで、圏:entity中の対象:一意性は、加速射(accelerational morphism)により次のように変性する。entityモデルは静的な構造をもつ。したがってentity: Aの自己同一性(A=A)や複数のentity: A, Bにおける関係(A─B)は、明示的な何らかの変形作用がないかぎり一意である。そして、投射されたeXtityモデルは動的な構造をもつ。eXtityとは流動であり、かつ、あらゆる対象は、確定的に定義されることがなく、複数の扱い者間で意味論的な断裂を内包する。このため、普遍な一意性はありえず、ある瞬間を微視的に切り出すときにのみ一意である。(ここで、加速によって、この一体のeXtityについて「連続的な一意性をもつ」と見做すことは充分に可能である)

entity存在論的に単一の対象(テクスト、語、概念etc.)を指したのに対して、eXtityはこれに加え、対象どうしの関係を対象にとりうるのであり、これはつまり、もはや一義的な=唯一の存在論を想定を已めることである。複数の存在論が交錯する領域において、対象(テクスト、語、概念etc.)の境界は確定しない。この非確定性のため、もはや我々は対象を圏として扱うよりない。それぞれの対象は、固有の存在論において固有のエネルギー値をとり、単一の存在論の適用(観測=疎通)によって状態は確定される。この簡単化、つまり複数の存在論から単一の存在論への収束こそ、(加速函手の)逆函手(inverse)である。これを減速函手(decelerational functor)と呼ぶこともできる。

(さらに、存在論どうしの境界の非確定性に言及すると.......)

 

存在論の超構造化(megastructurizing)》>> megastructure: derived from nivin's "BLAME!"

entityモデルでは、存在とはすなわち名辞されうるものである。あらゆる事象は存在どうしの相互干渉として記述される。生物/無生物の区分なく、存在は主体として振る舞い、これの運動にのみ注視していれば、すべての事象について理解できる。なぜなら、記述者に認識できるものしか、存在論上では扱えないためである。知覚可能または思考可能であるものについて、記述者は扱いうる。通常の存在論=entityモデルでは、記述者に「実体がある」もののみが扱われる。この点で、全体について有限であり、場合によって可知である(閉鎖系)。

しかしながらentityモデルは、

  • 例えば量子論的な記述において、光子(存在)の運動を主として、電磁気的相互作用(作用)を副次のものと見做すと、しばしば解釈に失敗する。
  • 例えば "無" について記述することが不可能である。まず主体を設定し、それに関して何らかの性質が欠如していることを記述するのみである。
  • 存在に賦与される性質は、記述者の知覚スケイルや思考スケイルに強く依存する。対象は、名辞によって標識されるだけに留まらず、記述者に認識可能な側面のみを本質としてもつことになる。この存在論的な本質が、実在論的な本質と一致することはない。

などを、本来的な制限として有する。entityからeXtityへ加速を図るとき、

①それぞれの文脈にて可捉である総てのパラメータを扱うこと

②思考スケイルを計算機の補助により引き上げること

を徹底することは勿論だが、その目的が、対象とする全体系の解釈に加えて、独自の文脈の構造=構築的創造をも射程に入れていることに留意する。より加速した受動性=客観性の獲得を目指す圏として前者をとくに "(ラン)" と呼び、より加速した能動性=主観性の獲得を目指す圏として後者をとくに "(イン)" と呼んで区別する。人間種族に関して、については肉体的な知覚(五感)に加えて拡張的な知覚(工学センサ)を知覚のデフォルトと見做して可捉領域の一般化をおこなって認識論を加速し、については知覚を抛棄することで出立して言語記述の多能性を加速する。

本論の目的の1つに、eXtityの導入による囙および覽の実装がある。しかし、先に確認しておく事項がある。記述者の制限性である。

 

《種族(tribus)》>> tribus: derived from Bacon's "NOVUM ORGANUM"

近代および現代科学では積極的な生気論の解体がおこなわれ、経験そのものが思考の枠組みから単離された。これは、知覚され、検証される情報は他の如何なる情報よりも正しくかつ確定的であり、反して知覚・検証されない情報を信じることは妥当ではない、というドグマによるものである。これはポパーに言われる「認識主体なき認識」の志向であり、科学者・経験主義者は観測者自身の存在しない、究極的な客観性を賦与された、ありのままの世界を描くことを目指してきたように思われる。ここで科学とは、現代にて支配的な宗教である。生気論的な言説に対する経験の優位性は、ただ科学のもつ教義によって確保されるためである。

記述者の制限性は、もっぱら知覚および思考の有限性による。過渡的なパラダイムに左右されないように言えば、これは種族性として以下のように定義される。

種族:固有の知覚をもち、固有の存在論を編む対象または圏

知覚(perception)とは、外界より記述者へ情報を流入する接触面および伝達形態を指す。わざわざ断っておくことでもないが、種族とは人間のみを指す語でも、特定の人間を指す語でもない。ある種族Aの営為(人間で言えば思考や行為など)について、当該種族が他でもないAであるために本来的に被る制限性は知覚に由来する。このとき伝達形態とは、営為の生成系のすべてを指し、人間で言えばこれは脳および運動器官を含む。運動器官は能動的に動作するが、外界から得られた何らかの情報の真偽について検証するさいの試行も存在論を構造するときに関与するためである。存在論(ontology)とは、種族=記述者が存在する系についての宣言的/非宣言的知識であり、知覚より流入した情報や営為の抽象によって得られる存在=構成素(entity,eXtity)の圏を指す。種族はまた、対象(単体)であることも圏(複体)であることも可能であるが、これはスケイルに依存するためである。対象Oと対象P間に差異が見られるとき、この差異を切り捨てて圏Cに両者を含むことも可能であり、圏Dへ排他的に片方を含めてもよい。卑近な例で言えば、ヒトをO、イルカをPとしたとき、動物の圏Cに両者を内包することができる。

このとき、知覚を「経験」と、存在論を「認識」と、それぞれ組み合わせを自由に置き換えても大意は変わらないが、パラダイムに応じて後の二語が限定的な意味をもつために、ここでは避けた。経験(experience)とは、現代においては、感覚知覚された情報の総和、またこれの捨象であるコモンセンスや諸学問知のことである。ここで、記述者は単体=対象であることが許されない。単体であれば、妄想体験と「正常な」知覚体験とが区別されないためである。「正常な」知覚体験とは、記述者の圏において支配的に報告されるそれである。認識(Erkenntnistheorie)とは、この平滑化された経験についての処遇を定める行為を指す。記述者=種族にとっては、素朴(naïve)な解釈も、認識論を持ち出す(多段に)メタ的な解釈も、どちらも自然*である。

*ここで「自然(natural)」とは、圏論の文脈に沿う。当該の性質について本来的に具えていることを指す。

 もし記述者が自身の保有する情報について不確定性に制限されているとすれば、それはすべて種族性に由来する。この状態を不自由に感じれば、これを粉砕するか、あるいは影響を限りなく小さく抑えればよい。そこで、加速である。進歩的な加速論者は、種族性の解体へ2つの手段をもつ。それが囙および覽である。

 

《單眼と散裂》

 

Idola tribus sunt fundata in ipsa natura humana, atque in ipsa tribu seu gente hominum. Falso enim asseritur, sensum humanum esse mensuram rerum; quin contra, omnes perceptiones, tam sensus quam mentis, sunt ex analogia hominus, non ex analogia universi. Estque intellectus humanus instar speculi inaequalis ad radios rerum, qui suam naturam naturae rerum immiscet, eamque distorquet et inficit.  --NOVUM ORGANUM 1.41

 

外部≠全体:Distinguere Externum et Omne.

例えば帰納法を正当化justificateできると考えるときは主観性についての思考が欠け落ちている。似たような語に妥当化validateがあるが、これは全く別の概念である。個別の主観者は経験として所与であるデータに応じて、自己のスケールで妥当化を為し、また正当化を為すが、これをおこなう場について差異がある。

 

場というのは、可扱性に関して、主に2種類ある。「外部」と「全体」であり、前者の場を「ローカル」、後者の場を「グローバル」と区別する。

ここで妥当化とは固有の経験スケールにおいての正当化である。固有の経験スケールをもつ主観者を「(固有の)種族」とすれば、経験の捨象であるところの何らかの論理について種族はローカルに正当化することが可能であるが、グローバルに正当化することはできない。

 

ここで、以下のように区別する。

  • グローバル正当化=確証determinate
  • ローカル正当化=妥当化=実証positive

すると、固有の観測スケールにおいて仮説を現象と一致されるという点で、論理(定理・自然法則etc.)とは固有の種族におけるローカル解であることがわかる。種族とはまた経験の固有性のことである。

 

 

主観性を考慮に入れるとは、経験が観察者自身or種族に固有であることを認めることである。この点で、全体が可捉である超越者を想定することでこれを「真の」客観性とし、観察者自身の有限性=全体についての非可捉性から主観性を見出すこととは異なる。これはつまり、主観性→全体、全体→主観性の二通りの演繹方法があるということである。主観性の前提をもって思考する全体と、前提なしで思考する全体は合致しない。

 

主観性を前提して=種族自身の経験の固有性を想定して思考する全体は、大きく離散と連続のそれで2種類ある。離散的な全体とは、すなわち種族にとって存在論的に捉えられるものである。個々の存在物は明確な境界をもち、それが無数に列挙されて構成する、全集合がこれに当たる。一方、連続的な全体は種族自身の内破を想定する。すなわち、観測者としての自己の有限性を許容するのである。

主観性を考慮に入れない全体については、ドクサの跋扈を許している哲学大系を見れば明らかである。論理学をグローバル正当化可能な道具として見做し、独断的・専横的に振舞う。本来的に論理学も経験に依拠するのは明らかであるが、これを飛躍させて普遍性を与えていることが誤りである。

 

ここでの齟齬は、伝統的に外部と全体とを同一視していることによる。種族における外部は全体の部分集合に過ぎず、これはラプラスの悪魔のような思考実験による理想化によっても拭えない有限性=経験における解像度また知覚の減算性を孕む。したがって外部において普遍に観察されること≠グローバル正当化・確証してよいことである。外部のローカル性によって経験がローカルになることは明らかである。したがって外部の観察はローカル正当化=実証に留まるよりない。

ここで次のように言うこともできる。

  • 外部とはローカル全体である。
  • 全体とはグローバル全体である。

記述の枯渇としてのニヒリズム:ニーチェ的虚無,実証主義的虚無

実在論について。
まずい嵌まり方をしている自覚がある。

 

人間に蓄えられる知識は有限であり、それは学知として体系されている。端的に、経験可能である情報について最適化された(ている) 理論が科学である。 経験から最も真理らしい外界の構造を見出している。 これは経験を唯一の証拠とし、これによって論理を定め、 定められた論理によって判断し、有効な知識を蓄えている。

 

この知識、 科学知が有効であるのはヒューム的破れに遭遇するまでである。 すなわち、これまで表面化していなかった、 人間に可測である因果的構造の外部構造による作用の現前に遭遇す るまでのことである。しかしこの暫定性に、 ベイズ理論的な方法で生起確率を主観のものとして破棄して 真っ向から向き合うと、現れるのは虚無である。

 

すべての科学的な実証は、破れへの遭遇から無意となる。 人間に不可測である外部構造が作用することが明らかになれば、 すべての論理が妥当性を喪うためである。無意であるとすれば、 あらゆる記述は、そこに何も記述されないことと同値となる。 これが虚無、ニヒルである。

 

ヒルと言って真っ先に浮上するのはニーチェだろう。 彼にとってのニヒルは、 形而上学的な対象への記述の無意化によって起こり、 そして彼は転化によってこれを乗り越えた。言い換えれば、 このニヒル性を乗り越えることなく回避し、 これを滅ぼしてしまった。

形而上学的なテーマへのニヒルを前世紀においてニーチェは感じ、 今世紀の我々は実証主義的なテーマへのニヒルを感じるのである。 私にはこれを乗り越えることも、回避して滅ぼすことも、 何もアイデアが湧かない。ゆえに嵌まっている。

 

虚無/ニヒルという態度は、すなわち記述の枯渇を指す。これは自身の気力の萎化によるものではなく、記述する対象=前提と、記述する方法=論理とが噛みあわなくなることで起こる停止のこと。これを乗り越えるには、前提または論理のいずれかに改変を加える必要がある。これを拒むとしたら回避するよりないが、果たしてその方法があるのかどうか。

かねてより、実証主義(positivism)のアンチテーゼらしき否証主義(negativism)の進路を模索している。すべての論理は経験の捨象であり、これが扱う対象もまた経験である。これから逸脱することは、人間種族の経験から外れることに他ならない。論理/経験の主観性について攻撃して両者の対等性を認めさせるか、あるいは主観性によるバイアスを取り払ってゼロから種族客観の論理を構築するか、だろう。

破砕か離背か、いずれにせよ種族の客観性というのも全体と比較すればささいなものだ。あらゆる前提を立てないで、作用についてのみ記述する方がネガティヴィズムにとっては妥当かもしれない。

 

 ......

今世紀の学術界隈で「新実在論」として扱われているのは、 形而上学的な対象を「独断論的なもの」として棄却したうえで、 経験の外部について記述する類いのものである。 題材はSFや現象論がもっぱらであるが、 既にこのテのニヒリズムを扱っているペーパーがあるかもしれない 。ディグろうと思う。

#EscapeAnarchism -素描- テクノロジー×超個人主義×プラグマティズム

#エスケイプアナキズム

テクノロジー×超個人主義×プラグマティズム

[出]

地球惑星外脱出を除いて、現実階層で個人が真に解放されることはありえない。

  • そのため、この最下層/基底レイヤから個人は上へ上へと逃避を始める。

解放とは、外部から強制/侵害を受けることなく、生存を自己自身で担保できることである。

  • 自己はただ自己のみに帰属する。
  • 市場は維持されるが、生存が貨幣によって担保されることはない。
  • 生存が生存するのは自己規定のためであり、他の何物にもよらない。

EAの黎明にあたり、解放は棄却によって生起する。

  • 個人は自らに纏わりつくあらゆる文脈を棄却し、'クィア'という唯一個体として孤立する。
  • 個人は対象について思惟するさい、イドラ/バイアスとして機能するあらゆるカテゴリやジャンルを棄却する。
  • 個人は自らの生存が、ただ生存によってのみ発露することを自覚し、国家政府やあらゆる共同体への恩誼を棄却する。

生存は純粋化され、個人は生存的プラグマティズムの視座を得る。

  • あらゆる因果的な恩誼を感じる必要はなく、個人はただそこに生存しているだけである。
  • 基底物理レイヤにおける社会インフラは、自然界に雨が降り日が照るように、'ただそこにある'。
  • 個人は、彼が望むように暮らすことを許され、自ら選んだ道を歩んで奈落の底に落ちる権利を有つ。

基底レイヤでは、他の個人を強制/侵害しないかぎり、不法行為をおこなってもよい。

  • 個人は孤立しているがゆえに無道徳であり、そのかぎりにおいて不義/不道徳なことは何もない。
  • 個人は他の個人に対して強制/侵害を先に行使すべきではない。
  • 他の個人を強制/侵害した場合、この個人は他の個人から受けるあらゆる強制/侵害を許容する。
  • 犯罪者として個人が刑に服するのは社会秩序を維持するためであり、個人が更生し被害者に慰藉を乞うためではない。
  • 国家は人々から強制的に財産を奪い、その対価としてインフラや福祉政策をおこなうが、この機関はただ経済的に機能するだけである。

'アナキズム'は支配体制の非在を意味し、それより固有化した観念を含まない。

  • 個人は自己以外の何者にも強制されず、自己は自己によって不断に所有される。
  • 'エスケイプ'は、あらゆる強制/侵害/権力/不当、そして民主制/資本制による惰性からの逃避を指す。

[達]

EAの原則はオープンウェブにおいて完全に適用される。

  • 基底物理レイヤで見える障碍は、オープンウェブでは無効化できる。
  • 個人はオープンウェブにおいて身体差異から解放され、中性性(零度)を獲得する。
  • メモリ空間は基底レイヤと較べて無限の拡がりをもち、また複製の容易さから、所有権衝突が起こりえず、個人は'すべて'を所有しうる。
  • オープンウェブ上において、自己とは、明らかに'自己の所有するものすべて'である。
  • 'no pain, no gain' の原則が成立するのは基底物理レイヤのみであり、OSSによる投資ゼロの豊饒は技術の進歩を加速する。

EAにおいて、進化論はメタ的に作用する。

  • 所望の技術を発明しなければ生存を獲得できない状況へ個人が自らを誘導することで進化は起こる。
  • 個人の要求/要請によるのは生産/発生に関してであり、淘汰圧を撥ねつける残存性はこれによらない。

すべての障碍はアドホックに解決すべきである。

  • 固有のメモリ領域を有ち自己を主権的に所有すること、また固有の経済体系を保持することから、個人は国家と同等/対等に扱われる。
  • 高度に差異化/政治化した個人らを調停するとき、その多様性から判例は適用しえない。

時代区分はなく、現在は完全に現在である。

  • 相対論的な干渉を受けるのは、基底物理レイヤにおいて惑星外脱出を履行した場合のみである。

上方仮想レイヤにおいて完全にEA原則を適用したのちに、下方物理レイヤへの瀰漫を試みるべきである。

  • 基底レイヤにおけるインフラの個人所有/開発を阻むものは、権勢の国家と悪しき道徳のみである。
  • 国家に強制される懲罰や徴税を正当化するものは何もない。
  • 強制/侵害の先行という唯一の正当性なしに個人が何らかの支配/権力体制に強制/侵害を受け、根本的な解決が見込まれない場合、EAの原則にのっとり、速やかに技術的牆壁を打ち摧き、惑星外脱出を試みるとよい。

 

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

#EscapeAnarchism

Technology×Hyper-Individualism×Pragmatism

[出]

Without an escape out of the Globe, person could not be truly liberated.

  • Thus person attempts to escape from this Bottom layer to rather the Upper layer on and on.

Liberty is a condition to have an absence of external enforcements/persecutions besides a guarantee of existence by own self.

  • Self only reverts/belongs to itself.
  • The market is maintained, but existence is NOT guaranteed by currency/money.
  • Why does existence exist is nothing but self-definition/self-regulation.

In the beginning, abandonments generate the liberation.

  • Person abandons contexts all around itself, then it is isolated as a unique existence, Queer.
  • In thinking about objects, person abandons all of categories/genres which function as idola/bias.
  • Person realizes that self-existence is only brought by its existence, subsequently it abandons indebtedness for states or communities.

Existence is essentialized by abandonment; person jumps to a perspective of Existential-Pragmatism.

  • Person needs not feel indebted to all causalities, it 'just exists'.
  • In the bottom physical layer infrastructures 'just exist', the same as that it is rain or sunny in nature.
  • Person is permitted to run its own lives as it wish, and has a right to go to hell.

In the bottom real layer, unless another person is enforced/persecuted, person might commit crimes.

  • Person is Amoral because of the isolation, insofar as nothing is Immoral.
  • Person should not exercise its enforcement/persecution Antecedently.
  • If person has enforced/persecuted another, it would allow anyone to enforce/persecute it.
  • It is only for maintenance of the social-order to punish criminals, not for its rehabilitation or forgiveness by victims.
  • States or governments dispossess person of its properties as taxes and service infrastructures or welfare policies in compensation for it, these systems only function economically.

'Anarchism' means absences of ruling systems, not otherwise.

  • Person is enforced by nothing but itself, self is possessed by oneself perennially.
  • 'Escape' indicates to leave from all the enforcement/persecution/power/unfairness, and Idleness of democracy or capitalism.

[達]

EA principles completely function in the Open Web.

  • Almost every obstacle that is in the bottom layer is invalidated in the Open Web.
  • Person is liberated from differences of incarnation in the Open Web, afterward it has Neutrality or (Barthes's)Degree Zero.
  • Collisions between ownerships could not happen because of the rather vastness of memory areas and the ease of cloning source code: person can possess 'all of the world' or 'all things in the layer'.
  • In the Open Web, Self is unquestionably 'everything it possesses'.
  • The principle of 'no pain, no gain' functions only in the physical layer, technological progresses are accelerated by painless/gratuitous investments, Open Source Software in the Open Web: Zero gains everything contrariwise.

In the space of EA, the theory of Evolution metaphysically functions.

  • Evolutions is happened by situations of that person guides itself to situations of that it can not exist without innovation/invention desired at the time.
  • Productions/births are by person's demands/requests, subsistency that spurns pressure of natural selection are not by.

Every obstacle should be solved ad hoc.

  • Person is treated on equal/equivalent terms with states/governments because of the possession of particular memory terrain, self sovereignly and an economic foundation.
  • At arbitration between persons highly differentiated/politicized, precedents might not function because of their diversity.

Eras, the divisions of history are invalid; atomicity of the present functions.

  • Only if person escapes out of the planet, it would be interfered relativistically.

Application of EA priciples to the bottom layer should be postponed until accomplishment to the upper layer.

  • One's possession of infrastructure is prevented in the physical layer only by powerful states and worthless morals.
  • Nothing justifies punishment and tax collection that are enforced by states/judiciaries.
  • If dominant systems, states, governments, sovereigns, rulers etc. enforces/persecutes person(s) and there is no method, subsequently, it/they might break the technological barrier, and try to escape the planet in accordance with this EA principles.

固有の閉じた論理空間をもつ3つの学問: 論理学/数学/物理学

論理学/数学/物理学は、それぞれ固有の論理原則をもつ。ここで「論理」というのは論理学上で展開される一連の様式のことではなく、学問上で有効な言明を生成するさいのプロセスを指す。3つの学問はそれぞれ異なる前提と、到達、すなわち論証を打ち止める区切りを固有にもつ。これはそれぞれ固有のオントロジー体系をもつ(つまりは扱う対象がそれぞれに異なるということだが)ためにそうなるが、しかし対象が異なるだけでなく、出立地となる原則もそれぞれ異なっているのである。

論理学上の発見が数学に適用されたり、数学上の発見が物理学へ適用することが屡々あるため、3者がそれぞれ異なる原則を有しているというのは訝しく聞こえるかもしれないし、また歴史的に見て、この切り離しを不自然に感じるかもしれない。しかしながら、私は各々の学問が具えている自己定義能力を見て、非文脈的に述べているのである。仮に一切の成立過程を漂白して一からこれらの学問上の定理を組み立てる必要に遭遇したとき、それぞれの学問を専任する学者は、他の二学問を窃視することなしに自身の学問定理を組み立てることができる。学問定理は権威によって有効性を獲得するのではなく、規則によってそうするためである。各々の学問者は、それぞれ自ら組み立てる論法がその学問体系上で、如何にして肯定され、また如何にして否定されるかを知っており、また、その肯否の規則が覆えらないことを知っているが、それは他でもなく学問者が規則を立てて承認しているためである。こうして、例えば論理学上に新規の定理が発見されたとき、数学/物理学上でもそれと同等なものを使役できる可能性があるが、これは借用によって使役するのではなく、それぞれの論理空間で新規に発見されるためにそうできるのであり、注意して言えば、自己の論理空間上で発見したものでなければ有効に使役することは不可能である。

3つの学問は独立した論理空間をもち、独立に機能している。これが文脈のことではなく、歴史のことでもないというのは、本質を見ればわかることである。3つの学問が共通して有している特徴を挙げてみよう。

  • 学問体系は原則から出発し、これを不変に保持しているかぎり機能する。
  • 何らかの対象があり、それについて、原則に違反しない論理を構成して接近し、言明を生成する。
  • 原則に違反しない論理によって生成された言明は有効であり、学問者は有効な言明を信用する。
  • 有効な言明によって論理空間が確保され、これは原則によって保持される。
  • 原則さえ保持していれば、すべての有効な言明を演繹/構築/再構築することができる。

このとき、それぞれの学問体系が機能するのは論理空間上であることに注意されたい。原則の合意によってこれらの論理空間は保持されるが、それはつまり、現実との整合性を度外視して、有効か有効でないかを学問者、また論理原則は決定しているということである。論理空間は稠密でなく、断裂した飛び飛びの領域であると想像されるが、その離散しがちな領域を総合したそれぞれを「系/システム」と呼ぶことにすれば、論理学/数学/物理学それぞれの有する系は閉じている。この閉鎖性は、他2種の学問からアクセス不能であることもそうだが、現実を開放系と想定したときに対照されてそうなる。それぞれの閉鎖系は学問者すなわち人間によって有効化/正当化されるが、開放系は何者にも有効化/正当化されえない。それぞれの学問は明らかに、開放系/現実から得られる経験を捨象したものであり、この流路が反転することはない。

善トハ生存デアル 〈一般道徳からの解放〉

 淘汰論からして善とは一切の生存であり、生存にまつわる一切の行為を是とするものが道徳である。過去数千年単位の人類史的堆積としての道徳はそのように固められてきたし、善なり道徳なりに生命を想定してみたとき、これが生残するのは生存者にこの観念が敷衍してこそである。
 しかしながら、死は悪でなく、また悪は死でない。個人の死は悪でなく、全体の死、すなわち殺戮こそが悪だからである。悪となるのは生存の阻碍であり、道徳の生残は多数の生者によってなされる。道徳とは本質からし全体主義である。個者生存を是とする個人主義道徳は、他者へ布教せずにいるうちは道徳ではなく、矜恃にすぎない。
 時代にも民族にもよらない普遍的な道徳を想定するのは、謬りではないが無為である。それはたしかにあるが、淘汰論的な形態をしている。全体の生存、また道徳観念の生残を望み、その礎とならんことを欲するものだけが服膺すればよい。

 上記の淘汰論的な"道徳"を一般道徳あるいは公衆道徳として隔離し、その外側で我々は展開しよう。
 善性とは自らに誠実であることだろうか? 我が身を省みて真に欲することを為し、外的および内的な負荷にさらされていない者が善人であろうか。
 善性とは他者を傷つけぬことだろうか? 他者を、自らをも傷つけぬことで自我を保っている者が善人であろうか。
 否、善性とはあらゆる強迫感をもたぬことである。善のために為しうることは何もなく、また悪のために為しうることも何もない。自ら抱える何らかの志向性について善性/悪性と名付けることは安易であるが、これは不変でも普遍でもない。

 淘汰論は学問的に発見されたが、それを規範化して自ら従う者は滑稽である。新たな時代の倫理道徳や、科学技術の発展にともなう生活環境/身体構造の変遷により、これは常に改訂される。否、これは改訂ではない。淘汰論の本質は不変であり、それから人々が想起する一切の錯覚/不純物が取り払われてゆくだけである。

#先端文学宣言 [暫定案/バックアップ]

0x00   先端の、したがって未知の文体/言語構造を有するテクストを創発することにより、戦後以来の遅滞を返上する。当該文学運動は加速主義理念に準じる。常にラディカルな形態を志向し、脱皮することで現行の資本主義体制及びあらゆる支配体制から超出するのである。

0x01   資本主義の産物ではない文学を創出する。学術や技芸に傾いた専門性、虐待や狂気を具えた非倫理性、晦渋や不明瞭を厭わない抽象性、これらは澱みとしてマス(需要巨塊/供給巨塊)から忌避され、この忌避によって生存を阻碍されてきた。しかしもはや資本に生存を保障されることを要請しない。

0x02   テクストを所有する権利は何者にも与えられない。著作物に関する一切の権利は、その市場価値を保持するためにのみ発生する。先端文学に纏わる言語行為のすべては言語への奉仕であり、刷新には剽窃/簒奪/陵虐等あらゆる冒瀆行為を許容する。

0x03   あらゆるテクスト、また個人は言語行為に関して完全に解放される。ここで措定する「真なる自由/解放」の描像はアナキズムに準じるが、闘争をおこなうことはない。体制の打倒でなく、その自壊を願うに留まる。

0x04   母語至上主義により言語基体は大いに拡充され、言語統一の趨勢を邀え撃つ。文法構造を同時代人が自己規定する、言語に関する主権を奪回するのである。これは翻訳不可能性の追求だが、対座されるのは異言語話者ではなく、計算機に自働化されたアルゴリズムである。むしろ多言語の交錯をもってこの掘鑿に当たる。

0x05   言語活動は史上最も解放されていたし、これからもそうあるべきである。仮にこれが妨げられるときは、他ならぬ非服従により対抗する。いまやマシンプロトコルすら文学要素に数え上げられ、先端文学者にはインターネット上の検閲体制を破砕するクラックツールの開発をも要請される。あらゆる文体を構造する能力の会得こそ、文学者が文学者たる所以である。

0x06   言語活動は史上最も解放されていたし、これからもそうあるべきである。飽くなき進歩の追求は集権体制の膝を挫く。戦後以来の稚拙な国語教育は個人のうちに覆えされ、彼らは資本者の喧伝によるバイアスやフィルタを退ける。僻見や批評によるあらゆるレッテルからテクストは解放される。

0x07   言語能力は純粋化され、個人は自律して母語を涵養する。被支配性について蒙い人間は賃労働者になるため学校教育を受けるが、真なる自由を冀う人間はこの循環生産体制に離背し孤立する。彼らは往々にして個性を欲し、自前にも公然にも自我を確立することに情熱を捧げる。彼らの思想をより豊饒のものにする材料ならびにフィロソフィカルな思考過程を供する。

0x08   あらゆるタブーを廃絶する。タブーとは、ある特定の文脈で悪徳とされる語彙を狩り、それを通念として個人に強いる一連の支配過程を指すが、真に自由は言語活動はこの不当な制約からテクストを解放する。あらゆる卑語や侮蔑語には、その歴史的使用に沿ったシニフィエを想起すべきでなく、当該テクストにおいて全く新規に遭遇する語として対面すべきである。この自浄作用は個人に於いて為されるが、実質的にはテクスト自身のうちで済む。

0x09   無文脈主義を掲げるのは、あらゆる文脈は権威により統成されるからである。文脈は1つの構造を有つが、これは単に個人が不服従の意志を示すだけで瓦解するほどに脆い。絶対的に鞏固な構造を有つのはテクスト及び個人であることを自覚すべきである。

0x10   およそ言語活動において咎められるべきことは何もなく、その点で無道徳である。無道徳(アモラル)とは、一般に流布する善徳に背き悖る悪徳とは決定的に異なる。これは個人があらゆる通念を保持しないことの宣言である。自律した信念に基づいて意志決定をおこない、如何なる言語活動における一切の責を自己が負うリバタリアニズムに準ずる。

0x11   超個人主義はすべて個人をクィア化する。先端文学者が独自に文学派を標榜することもそうであるし、個人もまた独自解釈や誤読の幅を無際限に拡げることを怠ってはならない。同一言語種族は幻想となって消失し、もはや文法規則は類推(アナロジー)としての機能しか果たさなくなる。

0x12   世間に流布するあらゆる政治主張や思想主義の一切は、先端文学の活動領野内において玩具化する。無文脈主義の作用により、玩具の内包するあらゆる語彙は新規に出現したものとして都度にシニフィエの刷新が起こる。イデオロギーや抽象概念といえど、この自浄作用から免れることはない。当該文学運動もまた脱構築的に自浄せねばならない。

0x13   いわゆる純文学は同時代人の生活様式の影像という不文の型枠から外れ、人間意志を神話化して過去のものにする。ワールドワイドウェブという仮想レイヤーの出現以前、肉体の存在するレイヤーが唯一の現実だった。もはや無数に多層化している現代以降の世には、剥きだしの思弁/思想が実体となる。

0x14   テクストの生産者としての主体は黙殺され、もはやテクストだけが純粋に存在する。20世紀の文学読解により作者は亡き者と見做されるようになったが、むしろすすんで自殺すべきである。テクストこそが唯一の実存であり、その繁栄のために自己の埋没を厭わない。

0x15   ジャンル分類は不能である。「先端文学」の呼称は、正確な名称の賦与を諦めた批評者たちによる他称となるべきである。自身にも世人にも未知の文学形態を創出するが、未知であるか既知であるかが尺度となるのは相対主義の文脈によることを第一に戒めておくべきである。

0x16   有意味/有価値であることは誰の手によっても裁定されてはならず、それは生産者と自負する者に於いてもそうである。本質主義と絶対主義が我々のテクストに実存を与えるが、これらも所詮は玩具である。知らぬ間に自身が玩具とならぬよう喝破する。無批判の陶酔は禁物である。

0x17   人間中心主義(ヒューマニズム)からの脱退はテクストの散裂と読解の佶屈を招くが、これを克服する鍛錬を積んだ者は強靱な言語行使能力を体得する。テクストは、いまや鞏固な信念の現し身として本質化されるのである。信念について純粋化したテクストは思弁と同値である。

0x18   テクスト双びに個人は、それぞれ固有の論理構造を有つ場(フィールド)を保持する。思弁の三要素である、論理学/数学/物理学は各々の大系上に閉じた論理空間を有つ。テクストや思弁は勿論それより上の階層に属するため、規則を自己定義して自身の場を支配する。この閉鎖系の外には開放系が在るが、これを統御する規則を改変できるのは真理者のみである。

0x19   思弁こそ真理へ至る唯一の法である。オープンウェブは開放系の擬似である。