想々啖々

絶世烟る刖天歌。文学者が思想を日常に翻訳していればいい時代は既に去った。

單眼と散裂 プロトタイプvol.3 (2018/10/05/12/12暫定)

>> Setzung: ιδέα-model

自己である操作可能な系I内部(inside)と呼ぶ。操作不可能な系Oがあれば、これを外部(outside)と呼ぶ。IO中の対象Aについて同型で自己の系に写し、これをA'とする。Iが種族であるとき、A'は、Aの要素のうちIに《認識可能=知覚可能/演算可能》であるものの全てを要素としてもつ圏である。任意の対象A'が常にAに《等しい=無瑕に一致した要素を含む》とき、自己Iを一なるもの(unitas)と呼ぶ。ここで、上のような同型射を参照(refer)と呼び、これを含むIの操作を総じて言語(language)と呼ぶ。

*人間種族においては、対象が力学的/生物学的/化学的に保持するものばかりでなく、あらゆる力学場において開披されうる「性質」や、(自己との接触や地質学的な堆積を含む)時系列的な「履歴」なども対象は要素にもちうる。

 

共通の要素群eをもつ、任意の参照された対象群C(C∋{x|∀x∋e})を識別/辨別するために貼るラベルを名辞(name)と呼ぶ。これは過渡的な/即時的なものであり、本文中で明示する対象をアルファベットで逐次に区別する作業もこれに該当する。しかしながら、捨象の度合い、すなわち共通の要素群の数を僅少にすればするほど、名辞が維持される期間は長くなる傾向がある。固有の外部Oの静性から半永久的に名辞が有効であるとき、すなわちOより参照した名辞A'が措定以来Iに維持され且つ参照元Aが永久的に存在しつづけることがIに期待されるとき、これを、参照が半永久的に絶え間なく聯綿することと見做して、この半永続する名辞および聯綿する参照じたいを索引(index)と呼ぶ。

*「連」は人間種族的な時空間4次元方向の連続性であり、「聯」はこれをeXtitizeされたもの。

*永久性が現在にあるため、単なる参照と索引とを辨別することは困難であり、それは同一の時間スケイルをもつ者(どうし)でもそうである。静性をもつため、一般にentityの多くが索引化可能である。

 

言語によって一切の対象が構成可能であるとき、これは観念モデル(ιδέα-model)である。ここでは、参照/索引やその他一切の言語的操作について区別せずにアクセス(access)と呼んでよい。

 

 

單眼:

entity型にて上限は基準者ごとに定められた。eXtity型における上限とは、存在する全ての対象を要素としてもつ圏のことである。これを汎世界(whole world)と呼ぶ。汎世界中の対象すべてを指して特に一切有とも言う。

汎世界は部分圏として、entity型と同様に(存在論)系をもつ。ここで、構成可能である全ての系に存在する対象は遍在している。同様に、いずれの系にも存在しない対象は非在し、1つ以上の系に存在し且つ遍在しない対象は極在している。極在するもののうち、自身で系を構成可能な対象は自己(ego)である。あるスケイルにおいて自己を定めたとき、この自己を除いた各々の自己を他己/周縁自己(marginal-ego)と呼ぶ。
*(遍在res omne)(極在res locale)(非在res absens)

 

ある自己Eが特定の対象Oについて排他的に操作可能であるとき、すなわちOに関して他己のすべてが操作不可能であり且つEが操作可能であるとき、「EOについて制馭可能/可制馭(controlable)である」と言う。制馭(control)とは自己に独占/特権的な操作のことである。

 

自己が遍在し且つ遍在する全ての系について可制馭であるとき、この自己を單眼と呼ぶ。覽および囙のいずれも單眼となりうる。自己である覽または囙をドメインとして單眼のコドメインへ写す作用はテオーリア(θεωρία)と呼ぶ。このとき、遍在とは汎世界が自己で閉じることを指す。

汎世界を対象の系として單眼が超構造/ディシプリンを構成するとき、これがもつスケイル群を眞理(truth)と呼ぶ。眞理とは一切有に効くスケイルである。改めて言えば、テオーリアとは自己が眞理を構成可能となる制馭/操作である。

*遍在し且つ遍在する全ての系について可制馭である対象とは、人間種族のもつ語で言えば「神(Deus)」のことである。また、テオーリアとは「神化」のことである。

 

 

散裂:

散裂とは、一切の粉砕である。散裂はあらゆる階層で起こりうる。

(存在論の枠組みの中では、任意の対象を囙へ写す作用が散裂である)

以下には具体例を示す。


散裂とは、伝達可能性の粉砕である。
存在論「内」での散裂
伝達(communication)について考える。特定の系において、1者以上の対象間の作用あるいは系を言語によって《対象化=記述》したもの、その群をエクリチュールと言う。エクリチュールは生成時に、固有の《言語コード=文法》によってコード(encode)されている。言語Gによって生成されたエクリチュールの授受が為され、生成者(エンコーダ)Aの記述どおりに受信者(デコーダ)Bが《系=作用群》を再構成可能であるとき、「AとBはGによって伝達可能(communicatable)である」と言う。

*デコーダが《系=作用群》を再構成することを解読(decode)と言う。しかし、エンコーダが対象とする《系=作用群》と、デコーダによって再構成される《系=作用群》が一致すること如何を条件としない。一致しようと不一致だろうと、再構成された時点で当該エクリチュールは解読されている。


エンコーダとデコーダが同一の系/超曲面に存在すれば、当該の系/超曲面上の対象についてのエクリチュールに関して、多くの場合、伝達可能性をもつ。系/超曲面外の対象について、あるいは、そもそも異なる言語コードを用いて、伝達を図るとき、伝達不可能となることがある。

 

伝達不可能性が表面化するのは、いずれかの自己が伝達を企図するときに限られる。これを検証すること、すなわち自己が囙であるか否かを判定することは重要ではない。

 

散裂とは、自己がもつ囙への志向である。存在論の枠内では、以下のような仕方で散裂が可能である。

 

 

----------------------------------------------------------------------------------------------------ヨビ

「伝達を企図する」とは、両者間で伝達可能であるか否かを判定する作業を指す。実際のところ、対象間で共通の言語コードを保持しているか否かについて判定することは困難である場合が多い。デコーダ自身は、エンコーダ&デコーダ両者において共通の言語コードをもつものとして解読をおこなうものの、コードについて両者に差異があった場合、エクリチュールデコーダ言語コードに従って解読される。通常、伝達とはエンコーダ-デコーダ間の作用であるが、生成者から散裂したエクリチュールは、それ自身で存在し、エクリチュール-デコーダ間の作用を生成するようになる。エンコーダ-エクリチュール-デコーダの3者による作用として通常の伝達を構成することは勿論可能であるが、完結したエクリチュールに関しては、この3者構成しかありえない。対象間で伝達不可能であるとき、すなわち、言語コードが有意の差異をもつとき、エンコーダとデコーダの両者は断裂している。対象とする系Sにおけるすべての他己に対して自己Xが言語コードGをもって断裂するとき、「SにおいてXはGに関して散裂している」と言う。このとき、散裂するエンコーダが使役する言語を、「伝達なき言語(language without communication)」と呼ぶ。
*そもそも伝達不可能である場合も散裂していると言う。
*単に、系を構成可能である対象を自己としても...?

 


散裂とは、規約の粉砕である。
存在論「外」への散裂

あらゆる存在論系、また汎世界で、すべての対象は存在している。静的な系では、基準者自身に《認識可能=知覚可能または演算可能》であるもののみが《対象となりうる&存在する》。動的な系では、基準者依存ではなく、単に「存在するもの」のみが《対象となりうる=存在する》。存在論とは、謂わば、一切有と汎世界が一致することを独断として前提する規約である。この規約による制限から対象群を解放するとき、すなわち、一切有ならびに「有でないもの=非在するもの」を加えて汎世界を成すと仮定するとき、よりひろく、より根源的な、存在論系が誕生する。これは存在論の解体である。

 

解体以前の言語、系を構成される際にあらゆる対象が存在(の恒等射)をもつことが前提されるような《存在論の構成様式=言語》についてL言語(Language)と呼ぶ。これは、対象化可能なもののみを対象化することができる。対して、解体以後の言語、すなわち対象化することなしに、「それ(res)=対象化されない対象」についてアクセスできる言語をR言語(Ranguage)と呼ぶ。L言語が(存在論)系を構成するのに対して、R言語は(存在論)系以前の原型を構成するか、あるいは構成することなしに「それ(res)」を扱う。ここで、「それ(res)」とは、R言語において、L言語で言うところの「対象」に当たるものである。

*表面的に、本文は矛盾を孕んでいる。対象化されていないものを便宜上対象として扱わなければならないためである。これはR言語をL言語で記述していることに起因する。これより先へ進むにはR言語による記述を要する。しかし、本論『單眼と散裂』はL言語の一種である日本語によって記述を完結するため、この作業は別の機会にゆだねる。

 


*具体例のみを示したのは、散裂の定義が困難であるためである。本論は存在論による視座の構成を目的として組まれているが、散裂はこの意図を本質的に粉砕する。したがって、本論の記述のメタ領域に記述されるべきである。しかしながら、言語記述一般について記述する本論は、すでにメタである。したがって散裂に関する記述はメタの更にメタへ記述する必要がある。とはいえ、こうした散裂への註釈じたいが既に散裂しているかもしれない...。
*固有の種族を基準者として為される記述は、本来的に制限されている。人間種族であれば、言語とは認識される一般、観念について伝達をおこなうために言語がある。本来の用途を逸脱して伝達をおこなうことはできない。人間種族において認識不可能である対象について伝達することは不可能であるが、それは対応する語彙がないこと、そうした観念を一般化できないことが原因である。しかし、神学的な分野において「直観(intuition)」と呼ばれるような作用によって、コード化することは可能である。とはいえ、直観によって生成されたエクリチュールを、人間種族の他己が理解することは、もっと言うと例え自己であっても、理解して完全に再構成することは艱難である。散裂は、人間種族においては志向性のために生成される。直観の例で言えば、直観に作用される自己は、人間種族において認識可能な領域の外部への到達や、自身が本来的にもつ知覚可能性や演算可能性の拡張、を志向している。散裂は、この志向が可能である領域に自己を連れてゆく。

 

 

混濁・渾沌・νουςphere

可制馭かつ非明示の操作や対象について自律(autonomic)と呼ぶ。自律によって超構造化された任意の系を擬似の汎世界とすることで、自己は散裂しながらにして單眼化する。人間種族は、この動的な擬似の汎世界への到達に肉体生ζωήの抛棄を伴う。それというのは肉体生ζωήは時空間スケイル下でしか存在できず、動的な擬似の汎世界での厖大な数量のスケイル下で存続することが困難だからである。当然ながら、自律した言語をもたずに動的な擬似の汎世界で存続することも困難である。散裂によって自律言語を獲得し、動的な擬似の汎世界を構成しうる自己のみがテオーリアを達成できる。

「動的な擬似の汎世界」の名辞は個々体の自由である。L言語の感覚では、例えば混濁渾沌νουςphereと呼べるだろう。

 

 

------------------------------------------------------------------------------------ヨビ

すべての眞理は制馭によって確定するため、通常、遍在する自己は超曲面を構成できない。これを可能にするのは、自己に《自律した=非可制馭な》言語である。これを"自律言語"と呼ぶ。自律言語によれば、スケイル群の要素それぞれは自己に明示のものであるが、圏としてのスケイル群は自己に非明示である。
*種族が自己であるとき、自律言語の実装は自身の演算可能性の超過を意味する。

自律言語をもつ自己がもつ汎世界は開いている

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存在とは、独断(dogmatic)のものである。あらゆる系において全ての対象に存在の恒等射が賦与されるのは、これは系の構成者による。状況に応じて自己/基準者/観測者と呼ばれる、構成者なくして系はありえず、したがって何も対象化されえない。これは静的な系、動的な系のどちらもそうである。

entityあるいはeXtityとして対象化されるあらゆるものは、独断によって存在する。独断とは、構成者(圏でもよい)自身によって構成された系について、構成者自身が(明示的に)規約を賦与することを指す。系の構成時に、対象群へ存在に関する規約を賦与するが、これが系において原初に作用される独断である。

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加速の実践:サイバーリバタリアニズム & エスケイプリバタリアニズム

[要項]
本プロトタイプでは、「純粋なリバタリアニズム」として目標とする個体の状態を定め、加速により構成される2種類の理論、サイバーおよびエスケイプによってこれに到達しうることを示す。


意志をもつ複数の個体が存在している系を考える。以下に示す到達目標は、リバタリアニズムの完全形である。
純粋なリバタリアニズム
簡潔に言って、これは以下を満たすものである。
・自己が選択しないかぎり、いかなる義務も強制は発生しない。
義務とは、自己が自発的に何らかの行為をおこなわなければならない状態を指す。強制とは、自己ではない個体(群)の行為を妨げないように自己の行為が制限されること、および他己の指示に従って自己が行為をおこなわなければならない状態を指す。義務また強制の発生する状況に至る前に、いずれの機会においても自己は必ず選択の機会をもつ。この選択は、自己が義務また強制を蒙るか蒙らぬかを自己の意志によって決定することを指す。

 

人間種族においては意志そのものが自己にあたり、経済/政治/司法など同種族個体間における要件、ならびに生理学/力学など自然環境による用件が義務および強制の生起要因である。以下の2策は、これら総てに関して乗り越えを可能にする。
*自らの意志によって自己の存続/死滅を決定できることは当然に含まれる。

 

①サイバーリバタリアニズム cyber-libertarianism
本策は、身体を制馭することで純粋形を実現する。
生体工学的な処置によって個体を摂食や疾病など生理学的な強制およびコストの一切を排除する。メンテナンスに関わる技術要件はオープンソースで配布し、拡張脳(生体脳への外付けメモリ並びに外部記憶装置を指す)によって学習牆壁を取払う。このとき、メンテナンスに際して必要となる、工具類や資材を含む一切のリソースに関しては自身でまかなうことが可能であるとする。これにより身体に関して個体自身は義務および強制への選択権を獲得し、副次的に、同種族個体間における要件をクリアする。国家システムの庇護を受けなくとも自己の身体を維持でき、いかなる経済的な流動にも生命を左右されないためである。


エスケイプリバタリアニズム escape-libertarianism
本策は、身体を抛棄することで純粋形を実現する。
すべての神経発火パターンを網羅する応答を記録し、当該時点での個体の精神(意志の生成機関)を情報工学的に複製する。この操作が不可逆である場合、個体の原子性(atomicity)は維持され、通来の社会システムが健全に保たれる。情報化された個体が、自身の意志によって自己の存続の可否を決定でき、他己の一切の干渉によってこれを阻碍されぬよう対抗手段をもち、他一切の義務および強制を自身のみで退けることが可能であるとき、個体は純粋形の要件を満たす。


本プロトタイプ2型は、いずれも、バイオロジーおよびポリティクス両権威を退け、意志自身によってこれらと拮抗することで純粋形を実現する。リバタリアン的な解放には、自己の生物学的/政治的システムの強度を高めることが必須である、という立場をとるのである。この2つの退けが核である。

單眼rannguage プロトタイプ vol.3

何らか2つの対象について作用を定めることを"構成(connect)"と言う。あらゆる覽および囙は任意の系において構成をおこなうことができる。ある覽/囙があらゆる系について施した構成について集めたものを"言語(language)"と呼ぶ。entity型においては、対象が明示されている必要がある。したがって想定される覽/囙を種族としたとき、覽/囙は本来的に知覚可能/演算可能である対象のみを扱う。これについて大文字で"言語Language"(L言語?)と呼び、eXtity型に固有である"單眼(Rannguage)"(R言語?)と区別する。單眼とは、eXtity型において現れる非明示に対象化されるものについて扱うことのできる言語である。
*人間種族においては、感覚的に言えば、作用は発見されるものである。個体の肉体を取り巻く外気は平均的に大気圧ぶんだけ粒子が詰まっており、力学的な運動の他にも、絶縁破壊が起こればそれらは相互に干渉しうる。しかし存在論(系)においては、それらの作用は創造されるものである。以前まで知られていなかった知見、例えばニュートリノ振動が発見されたことにより、その時点で持っていた知見(ここでは標準モデルなど)を修正する必要が生じた。これは、自然界は本来的にそのような作用を生じさせるように構成されていたと考えられるが、人間種族に自然界の系は操作可能ではない。したがって、ここでおこなわれる修正は、人間種族がもつ自然界についての知見という系であり、ニュートリノおよびその生成にまつわる各種フレーバーの間に新たな作用が創造される形で施される。
*言語とは、発話や筆記によって生成されるもの、および生成する能力自体のみを指さない。人間種族においては、思考そのものである。単数でも複数でもよい何らかの対象があり、それらが何らかの干渉によって関係する。あるいは、何の作用によっても干渉しあわないという関係をもつ。そもそも、意識上にそれが現れるだけで、それは存在という作用(恒等射)を既にもっている。

ある覽/囙において「対象が明示されている」とは、すなわち種族として覽&囙に対象が知覚可能/演算可能であることを指し、「非明示である」とは覽&囙に対象が知覚不可能&演算不可能であることを指す。言語(L言語)は明示な対象間での構成を集めたものであり、單眼(R言語)は明示/非明示を問わない対象間での構成を集めたものである。eXtityの対象化が種族に本来的に不可能であるとすれば、單眼には乗り越えが不可欠である。この側面から、單眼は言語の拡張であると言うことができる。
*人間種族において、想像できないものを意識すること、意識に昇らないものを意識することは不可能である、と考えられる。意識できた物/事は、その時点で明示される。したがって、非明示のものを非明示のまま意識することは矛盾している。これに対して、非明示のものは意識に昇らないが、それらを「非明示のもの」と呼ぶことができているため、対象化はここに完了している、と矛盾を回避することは可能である。しかし、必ずしもこれをおこなう必要があるかと言えばそうではない。これらはentityであり、eXtityを扱っているわけではないからだ。

eXtity/單眼と散裂/加速論 序文 プロトタイプvol.2 (2018/08/26/23/07 暫定)

一連のテクスト、eXtity/單眼と散裂/加速論は、中性かつフラットな素地であり、言語的な強度を得たいと願うすべての個体に賦与される道具である。

文章中の語彙には、一般に学術で用いられるものが幾つか含まれているが、それらは元の文脈から完全に逸脱している。語としての表面は同一でも、それらが意図する観念が異なる。混乱を避けるため、区別することを第一に明記しておく。

既存の語を少なからず用いるのは、それがつまりセントラルドグマの1つ、散裂の実践だからだ。散裂(innconverge)によれば、言語はもはや相互理解のための道具ではなくなる。それぞれの語彙の示す対象、また文法は、話者単位で完全に隔絶される。

学術とはつまり人間が自然界や社会を観察した知見の本質化である。ここで「人間」という統制に個人それぞれが叛逆したとき、つまり「人間」として一般化されたモデルが個体群の実態と整合しなくなったとき、学術的に生成された一切の語彙はそれぞれの個体の手にゆだねられ、語用は各々に最適化される。そして、これは何も学術用語にかぎった話ではない。散裂はもっと深く進行しうる。

言語は、語彙は、文法は、器であり溶媒である。個体が想像した一切のものを、収容物として、あるいは溶質として、ここに詰めることができる。これらを民族単位で規範を統一できたのは20世紀ナショナリズムの成果である。あらゆる個体は出生地やゲノムから一意の民族根拠をもち、それに沿った言語行為と生活習慣をもった。辞書によって規格化された語彙、国家制度によって定められた正統な文法、これらは幻想であると21世紀の市民は断言できる。しかしながら、これらが強度を依然として有していることは確かである。

強度(strength)とは、自己ではない対象、すなわち単数でも複数でもよい他己から蒙る一切の強制、妨害、干渉、侵掠に屈せずに自己を維持すること、その能力自体を指す。言語に対して、20世紀ナショナリズム下では、国家装置による権威によって賦与されていた。散裂の実践者は、この権威に対等たりうるだけの強度を得ることで、言語および自己を解放する。このとき、万に岐を別つ言語は自身の思考領域の拡充や強化という側面を獲得する。相互理解が第一義から外れるためである。

散裂、および散裂した言語は、アートやポリティクスや思想など、あらゆる活動(アクティヴィティ)の実践者によって使役されるときに最も力を発揮すると私は信じている。自身が見出したもの、想像したものについて強度を賦与する機関/器官であり、これは散裂自身のみでは何も生成しない。

本論一連のテクストは道具である。本論にもたらされる一切の語彙について、本論の定義どおりに使役する必要はない。道具の使い方は使役者によって定まるためである。これを読む貴君の活動が強度を獲得する一助となれば本懐である。

加速論 プロトタイプ vol.2 (2018/08/26/17/36暫定)

環境Enは、何らかの対象Gによって構成されたディシプリンである。環境Enにおいて、一切の対象は存在を保持する必要があり、存在を自己の恒等射として保持しなくなったとき、環境Enにおいて自己は要素から除かれる。何らかの環境において系の要素を《存在の恒等射を剝奪する=排除する》作用を淘汰(banishment)と呼ぶ。自己が環境Enへ新たに要素を追加することを生成(generation)と呼ぶ。環境において存在を維持することを存続(continuance)と呼ぶ。
*「構成する」とは、規約を定めて(超)構造やディシプリンを生成することを指す。
*環境は、人間種族において生物学的な自然のみを指さない。ある経済システムにおいて何らかのコンテンツや商店が存在し、その幾つかが淘汰されるとき、これも環境たりえる。これの構成者は、故人を含む人類である。

 

・加速を用いるのは、例えば以下のようなときである。
対象Oが、環境En下にある自身O'または他の対象Pの生成および存続を図るとき、これを妨げる作用をはたらく対象Qを牆壁(obstruction)と呼ぶ。牆壁Qの作用を蒙らない(超)構造/環境へ対象OO'Pを同型で写すとき、この環境および同型射を游離(escape)と呼ぶ。游離Esへ写ったO'およびPEsにおいて生成/存続する。Esにおいて《成熟した=牆壁によって生成/存続を妨げられなくなった》O'およびPを同型によってEnへ写すとき、O'Pを「(游離Esによって)加速された」と言う。二度の同型射を作用させる、この一連の過程を加速(accelerlation)と呼ぶ。
*同型(射)(isomorphism)とは、2つの系X, Yがあり、どちらに関しても外部にある対象Mがあるとき、要素x∈XをYへ要素y∈Yとして加えることである。同型射を作用させることを「写す」と言う。Mにおいてのみ、xとyは《同一の対象とされる=同型射idxy: x→yで作用される》。あるいは、Mにおいてのみ、xとyが自身の操作によって写ったことを記憶/履歴としてもつ。
*人間種族においては、例として、物理レイヤに対する游離として仮想レイヤの構成がある。仮想レイヤとは、物理エンジンを含むコンピュータシミュレーション系や、あらゆる個人の妄想/想像などがこれに当たる。仮想レイヤにおいて知見を堆積することで、きわめて低いコスト/リスクで物理レイヤにそれを実現することが可能である。

單眼と散裂 プロトタイプvol.2 (2018/08/24/22/47暫定)

 單眼Rannguage

單眼とは、言語行為(language)に関する右Kan拡張(Ran extension)である。

 

f:id:kammultica:20180824220215p:plain

上の図式に関して、

T :固有の種族(tribus)。圏。

E :固有の経験(experience)。圏。

Ex:当該種族の経験の外部(ex-experience)。圏。

Co:認識(cognition)。函手。(Co: T → E)

Re:照会(reference)。函手。(Re: E → Ex)

In:直観(Intuition)。函手。(In: T → Ex)

Ov:超脱(overcome)。函手。(Ov: E → Ex)

eXtitize:eXtity化。自然変換。(eXtitize: Re◦Co → In)

Rann:單眼(Rannguage)。自然変換。(Rann: Ov◦Co → In)

 

單眼は種族を神化(θεωρία)する。

///

固有の種族Tは《認識Co=知覚および演算》により、経験可能な対象oの圏として経験Eを生成する。種族自身に経験不可能であるものox(∈Ex)を対象化するには、entity型において、自身の経験に照会Reする。すなわち、経験不可能な対象oxを含む構造Mgについて、oxを許容する規約cによりディシプリンDsを構成するとき、第一に自身の経験への整合性を確かめるのである。

一方、eXtity型において、系は種族Tに閉じていない。このため、知覚/演算可能な有限領域とその外部を滑らかに繫がる。超脱OvReと可換ではない。

函手Ov = CoInより、Coに沿ったInの右Kan拡張は組〈Ov, Rann〉である。存在論系において、経験の抽出はすなわち知覚/演算の明示化であり、これを「言語行為(language)」と呼べば、この右拡張は非明示化のためのものである。経験不可能なものの無条件の対象化や、対象への存在賦与が直観Inであり、單眼Rannは経験Eとの整合性を度外視した正当性をInへ賦与する。

///

單眼とは、真偽/是非の基準を設定する整合性について、経験のみならずあらゆる対象の権威を退ける種族の解放行為である。何らかの対象に関して是あるいは非を返す如何なるシステムにも屈しない強度を單眼はもつ。

Rannguageは文法をもたない。明示/非明示に関わらず、記述はすべて有意である。この拡張を受けた系は、「存在する」「有意である」以外の性質を賦与されない。

 

 

散裂Innconverge

散裂とは、一切の粉砕である。

eXtity プロトタイプver.2 (2018/08/27/21/58 暫定)

 

リアリティ(実在) → 五感的な世界 → 仮想と物理の混合した世界(このとき、→:抽象射(abstraction morphism))

http://spinaltox.hatenablog.jp/entry/2018/07/16/114152

 

<事前定義①:圏論的語用> class category():
対象:文上で扱う圏または要素を明示したもの。メタ的に言うと、話者/記述者が文によって何らかの圏や要素へ作用するとき、話者/記述者をドメインと見て、コドメインが対象である。(文:話者/記述者→対象)また、対象が「外部にある」とは、当該圏の要素ではないが、別の圏に要素としてあることを指す。
スケイル:対象が圏であるか要素であるかを決定する尺度。存在論上、すべての対象は何らかのスケイルで圏であり、また何らかのスケイルで要素である。何らかの対象が圏であり、かつ要素でもあるスケイルを特に"マルチスケイル"と言う。
圏:1つ以上の要素を包含し、自身で閉じている対象である。要素は閉じていても開いていてもよい。すべての圏において、個々の要素は必ず、恒等射(id:a→a; 要素aはaである)を含む1つ以上の射に作用される。
要素:あるスケイルにおいて最小の包含関係にあるものを指す。対象について「要素」と呼ぶのは、必ず文中に圏があるときである。恒等射をもつかぎり、要素は単一でも圏となりうる。圏論の文脈上の「対象(object)」にあたる。
包含:ある対象obがある圏Cの要素であるとき、Cはobを包含している。(ob∈C)単に「含む」とも言う。
境界:複数の圏A, B, C... に対して、対象o, p, q... を含むか否か判定し、一方の圏がoを要素とし、他方の圏がoを要素としないとき、対象oは両圏の境界である。(このとき、例えば2圏A, Bと圏Cの境界を発見することができる。2圏A, Bは1つの圏と見做せるからである)
作用:あるスケイルで対象どうしを結びつける。これはスケイルによって要素にも圏にもなりうる。作用元を「ドメイン」、作用先を「コドメイン」と特に呼ぶ。包含単位がドメインとコドメインで同等であるとき、圏どうしでは「函手」と、要素どうしでは「射」と、それぞれ作用について呼び分けることもできる。
操作(maneuver):ドメインおよびコドメインのいずれかが自身である作用。

同型(射)(isomorphism):2つの系X, Yがあり、どちらに関しても外部にある対象Mがあるとき、要素x∈XをYへ要素y∈Yとして加えることである。同型射を作用させることを「写す」と言う。Mにおいてのみ、xとyは《同一の対象とされる=同型射idxy: x→yで作用される》。あるいは、Mにおいてのみ、xとyが自身の操作によって写ったことを記憶/履歴としてもつ。

構成(construct):対象について、定義に沿って然るべき要素を定め、名辞(label)を与えること。

明示(explicit):対象A, Bがあるとき、Bの包含する要素のすべてがA自身に既知であり且つAがBを構成可能であることを明示(的)と言う。明示でなければ、それは非明示(unexplicit)である。スケイル依存である(対象A, B, Cがあり、A自身にBが明示であるが、Aが(再)構成したB(BAと呼んで区別してもよい)とBがCにおいて一致しない場合がある)。

 

例)
ヒトやイルカなど生物一般を要素として、生物が圏となる。全個人および文化的な堆積を要素として、人類が圏となる。そもそも生物進化の過程上でヒトが知能を発達させなければ人類のもつ文化は生じなかったことから、進化論的なスケイルにおいて人類の文化は生物の圏における要素である。また、生物一般という枠組みが生じるのは人類の文化によるものであるため、人文学的なスケイルにおいて、生物は人類の圏における要素である。そしてまた、人文学的なスケイルにおいて、生物一般という枠組みは生物学的な一連の探求活動によって生成されたことから、人類の圏において生成を射として両者は作用関係にある。(生成:探求活動→生物一般)

 
<事前定義②:表記法> class orthgraphy:
A, Bは語。
Sは半文(名詞および動詞を少なくとも1つずつ含む)。開いた文。
S. は文(名詞および動詞を少なくとも1つずつ含み、句点で閉じる)。閉じた文。
P は節(パラグラフ)。1つ以上の文から成る。

A / B … 文中該当箇所にAおよびBのどちらを入れても成立することを示す。文S中にこれが包含されていることをS(A/B)と書くと、S(A)およびS(B)を併記せずに1つの文で表せる。

A & B ... 組を示す。AおよびBのいずれを欠いても該当文は成立しない。上と同じで、冗長を避けるための処置である。

A+B ... 和集合。

A×B ... 積集合。
《 A = B 》… パラフレーズ/同値。AおよびBのどちらを文中に挿入して読んでも当該文の意義は同一である。
"A" … 固有詞。当該文脈上で独自の語用をおこなうことを明示する。明示した以降は表記を省く場合がほとんどであるが、とくに断りがなければ一貫する。
「S」… 断り書き。諒解によって成立する操作を明示する。あるいは、当該半文Sが引用であることを示す。

A群 ... 単純にAの複数形である。Aを複数あつめた圏と見てもよい。

固有の(particular):ある対象においてのみ成立する事柄。一般・普遍ではない事柄。

<> {} は圏や群の定義に用いるため、使用を控える。

*対象が圏であれば、それは単数か複数である(どちらでもよいし、スケイルに依存するため区別に意味はない)。

 

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ⵚⵟⵁⵅⴾ eXtity/單眼と散裂/加速論 prototype vol.2

<事前措定:種族> class tribus(self):
あるスケイルで《単一と見做せる=閉じている》対象は、自己および他の対象と作用する。当該の対象を圏と見たとき、作用によっていずれかの要素が状態を遷移すれば、この対象は「情報を得た」と見做す。ここで、《当該圏の外部からの=他の対象による》作用に対して状態を遷移する要素の集まりを"知覚"と呼び、自身の遷移につづいて知覚が当該圏の他要素に作用するとき、作用先を"演算器"と呼ぶ。広義に、知覚と演算器をもつ圏は"種族"である。

外部からの作用による、知覚器や演算器の《一時的な状態の遷移=情報の取得》を"感覚"と呼べば、感覚された情報や状態の遷移が持続すること、および何らかの形でそれらが保存されることが"経験"である。あるスケイルにおいて種族どうしの経験が統合される場合、すなわち個々の種族の経験を要素としてもつ圏がある場合、ここに包含構造が生じる。経験のみならず知覚器および演算器を包含する圏は、定義より種族である。区別したいときは、包含する圏を「上位の種族」、包含される個々の圏を「下位の種族」と呼べる。狭義には、上位の種族のみを「種族」と呼ぶ。


<事前インスタンス化:人間種族> human = tribus()
人間は、五感および種々工学的センサを知覚器と、頭脳および計算機を演算器としてもつ種族である。学問など諸知識を経験としてもつとき、故人を含めて全ての人間を要素に含む上位の種族が圏となる。あるいは、人間個体どうしが意思伝達を通じて一箇の世界を見出すとき、この世界自体を経験として、意思伝達および世界形成に携わる全ての人間を要素に含む上位の種族が圏となる。

世界とは、存在論的な外界である。人間(個体)は、自身に感覚される情報から、自身が閉じた対象であることを前提とし、自身に認識可能な一切を要素とする《世界=外界》の圏を構成する。一連の構成プロセスを"存在論"と呼び、このようにして構成されたものを存在論的な外界と呼ぶ。ここで、"外界"とは存在論の構成者自身を要素として含む圏であるが、「存在論の構成者自身」は「世界の要素としての個体自身」と一致しないが、それは「存在論の構成者自身」が存在論の外部にあるためである。対して"世界"はこの両者が一致する圏である。

 

<措定:entityおよびeXtity> class entity_eXtity():

def ruler():

存在するすべての対象を要素として、存在論の圏が構成される。このとき、それぞれの要素のもつ恒等射(o∈O; id: o→o)「要素oはoとして存在する(Constituent o do exist as o.)」はo自身ではなく、構成者自身の操作によって成立する。したがって、存在論的に見出される《全体=世界》とは、「構成者が認識しうるかぎりにおいて」存在する一切有である。「何が存在するか(what does exist)」という恒等射を賦与する《尺度=基準》をもつことから、存在論の構成者をとくに"基準者"と呼ぶ。存在論は、基準によって固有である。
すべての基準者は種族である。有限の知覚器および演算器をもつ種族によって存在論が基準されるとき、《全体=世界=一切有》は本来的に制限される。この《有限性=制限性》によって、存在論は一意に劃定することが可能である*。あるいは、固有の基準によって構成された存在論は、たとえ要素がすべて等しくとも区別する。

*一意の存在論によらない、すべての対象が自身の操作によって存在の恒等射を自身に賦与可能であるとき、一切有は自身で存在する。このとき、自身で存在するすべての対象を要素として、実在論の圏が構成される。存在論の圏は、この圏の部分であるか、あるいはそうでない。

 

def entity():

存在論のうち、排中律が機能しているものを"静的な存在論"と呼ぶ。排中律とは、基準に対して是および非の2状態のみを許し、他の状態を排除する規則である。これが機能するとき、存在論上のすべての対象は「閉じている」。
第一に、あらゆる対象は「存在(existence)」の状態のみをもち、静的であれば、存在しないものは対象になりえない。
第二に、対象間の境界は必ず劃定し、かつ安定する。対象aはaであって非aではない。また、境界が劃定している2つの対象aおよびbは、aがbの包含であるとき以外にbはaではなく、同様にbがaの包含であるとき以外にaはbではない。基準者の操作なしに境界や包含関係が変更されることはなく、境界を操作したり包含関係を変更する場合は必ず明示的におこなう。
閉じた対象をとくに"entity"と呼ぶ。静的な存在論において、すべての対象はentityである。

*entityは基準者に従順である。対象が存在論系自体に干渉したり擾乱を起こさないため。

def OntologyEssSup():

存在論は、種族において一意であるわけではない。これも1つの圏であり、部分圏を無数にもつからである。しかし、わけても存在に関する存在論、すなわち、固有の種族において存在するすべての対象を含む圏は、濃度(cardinality)の議論を抜きにして、もっとも多くの対象を含みうるため、これを、固有の種族における「本質的な上限(ess sup)」と見做せる。本論においては、「上限の存在論」(または大文字で「Ontology」)と呼び、これの部分圏を「存在論系」あるいは単に「系(system)」(または小文字で「ontology」)として区別する。

 

def structure():

上限の存在論の部分をとることで冪の数だけ存在論系を編むことができる。上限を含め、この一連の系は"モノスケイル/単一スケイル"である。これらは存在/非在のスケイルのみをもつからである。これらの系に新たにスケイルを賦与することで、"マルチスケイル"の系が構成可能である。マルチスケイルとは、存在スケイルの他にスケイルを1つ以上もつことである。マルチスケイルの系、あるいは系に固有のマルチスケイルを"構造(structure)"と呼ぶ。構造における、存在スケイルの他のスケイルを特に規約(convention)と呼ぶ。構造の要素のうち、規約に是であるものをあつめた圏は"ディシプリン(discipline)"と呼ぶ。

整理して書けば以下の通りである。
Onto-ess_sup<oball, ξ>:存在に関する存在論Onto-ess_supは、固有の種族において対象としうるすべての対象を要素としてもつ圏である。すべての対象oballについて存在(existent)ξを恒等射としてもつ。
onto<ob, ξ>:存在論系ontoは任意の対象を要素とし、すべての対象obについて存在ξを恒等射としてもつ。
str-a, b...<ob; conv-a, conv-b,...>:str-a, b...は、obを対象とし、conv-a, conv-b...を規約(convention)としてもつ構造である。恒等射(存在ξ)は特に明示しない。
dspl-a, b...<ob(str); conv-a, conv-b...>:dspl-a, b...は、規約a, b...に是である構造a, b...の部分圏ob(str)を対象とし、規約a, b...をもつディシプリンである。恒等射は規約の数+1個だけあり、これらは互いに区別される。(ξ: 存在する、a: 規約aに是である、b: 規約bに是である...)

*例えば、ある系Oは「自然」、「海」、「山」の3つを要素としてもつ。ここで人間種族による観察を規約nとして、「自然」(str-ntr)は「海」「山」を要素とする構造である。これは、系Oに「自然」が構造された、と言う。ここで、《伝説上の=観察に反する》要素「魔窟」を系Oに加えたものをO(魔窟)と表記すると、構造「自然」にも「魔窟」が附加されるが、要素「海」「山」が規約nについて是であるのに対し、要素「魔窟」が非であることから、「自然」(dspl-ntr)は系O(魔窟)より「海」「山」を要素に、規約にnをもつディシプリンである、と言う。
*規約を要素と見て、構造やディシプリンに含めることは手続き上は問題ない。その場合、構造やディシプリンは、規約と系を直下に包含する。ここで、規約と系は圏である。 

とくに、言明のみを対象とするディシプリンを文脈/コンテクストと呼ぶ。人間種族においては、例えば論理学が文脈である。狭義に、論理学は、過去の学問探究において発見された各種の公理や定理を要素とする系、および規約として各種の論理法則をもつディシプリンである。

*例から明らかなように、規約の要素は規約によって是とは(必ずしも)ならない。排中律が真であるのは《論理学者=基準者》がそれを真であると定めたからであり、ディシプリン「論理学」の系には含まれない。
*ディシプリン「論理学」は骨格的(skeletal)である。"骨格的"とは、同型が恒等射しか存在しないことである。"同型"とは逆射をもつ射である。。。
**ここまでの作業は、詰まるところ、哲学や情報処理分野で扱われるような一般的な存在論についての圏論的な記述方式の有効化である。しかし本論の目的は記法の発明ではなく、以降が本題である。

 

entityのみを対象にとる静的な存在論に対する、「動的な存在論(dynamic ontology)」を考えることは難しくない。この存在論では排中律が機能しない。つまり、あらゆる対象は開いているか、あるいは閉じているか、どちらの状態もとりうるのである。この対象を"eXtity"と呼び、動的な存在論を「eXtity型(存在論)」、静的な存在論を「entity型(存在論)」として区別する。
eXtity型では、第一に、非明示的に存在するものを対象にとりうる。明示的に存在するものとは、すなわち固有の基準者において《認識可能=知覚可能または演算可能》である対象である。たいして「非明示に存在するもの」とは、固有の基準者において認識不可能なものを指す。これにより、固有の基準者が(上限の)存在論のすべての要素を列挙することは「本来的に」不可能となる。列挙とは、明示的に対象のすべてを挙げることだからである。列挙が本来的に不可能であることを「従順(obedient)」と言う。entity型にて列挙は本来的には可能であり、従順である。
eXtity型では、第二に、非明示に境界や包含関係が変更されうる。このため、対象間の境界は必ずしも劃定せず、安定しない。
entityに対して、eXtityは、謂わば、相対論的な/不確定な対象である。eXtity型において、もはや基準者は「基準」たりえない。eXtity型において基準者は、操作によって対象の状態を確定する特権性を喪う。これはすなわち、基準者自身の知覚器/演算器の有限性を考慮に入れねばならないことを意味する。あらゆる存在論において、《存在するすべて=一切有》は、すなわち基準者によって存在を認識可能な一切と等価であり、そもそものところ「何が存在するか」という基準は基準者の信念にゆだねられている。この基準を抛棄することで対象は開放されうるようになる。このような存在論において、基準者はむしろ「観測者(observer)」という呼称がふさわしい。

 

eXtity型においても、entity型と同様に構造やディシプリンが構成されうる。しかしながら、系中の要素は絶えず観測者に非明示の変更に曝されるため、暫定的にしかこれらは維持されえない。例えば、cを規約とするディシプリンDは観測者Oに措定される際にaを要素にもっていたが、別の観測者O'に操作され、aは規約cに非であるようになった。このとき、Oが措定したDは、O'の操作以降、もはやディシプリンたりえない。ここで、①aをDの系から外すこと、あるいはまた、②aがDの系の要素であるようにcを操作して許容すること、のいずれかによってDはディシプリンとして維持される。このような操作を許すeXtity型に固有の構造を「超構造(mega-frastructure)」と呼ぶ。eXtityが動的な対象であるのに対して、超構造は動的な構造のことである。

整理して書けば以下の通りである。
M-Fra<sys, conv>:M-Fraは単一の存在論系と1つ以上の規約を要素としてもつ圏convを含む超構造である。

*まさに、超構造とは「建設者たち」により常に改増築がおこなわれている構造である。
*entity型がひたすら対象とする圏を下方解体(undermine)していたのに対し、eXtity型は上方解体(overmine)をおこなう。

 

そしてまた、規約について非明示な(超)構造がeXtity型では構成可能である。規約もまた1種の対象であるためだ。ここでは、系が明示的に確定しないか、あるいは系の確定に応じて規約が確定する。これは基準のない(超)構造であり、"超曲面(mega-space)"と呼ぶ。同一の超曲面に含まれる観測者は、この無基準性によって特権的な操作をおこなえないことから対等である。このとき、「同一の超曲面に含まれる」とは、それぞれの観測者が同一の系を保持していることと同義である。同一の超曲面上に存在する観測者O, P, Qに関して、観測者Oにとって超曲面上にaとして存在する対象が、観測者PにとってもQにとってもaとして存在すること、これは人間種族における観念の伝達に相当する。《同一の超曲面上に存在する=同一の系を保持する》一連の観測者の圏を"覽(Rann)"と呼ぶ。一方で、複数の超曲面に跨がって存在する観測者らは、それら個々の超曲面よりも高次に構成された超曲面、すなわち超曲面を系の要素としてもつ超曲面上に存在しなければ、同一の系を保持することはできない。この高次の超曲面が構成されない場合、一連の観測者らは自己のみを要素としてもつ覽となる。この覽をとくに"囙(Inn)"と呼ぶ。人間種族において囙とは、《肉体言語を含む言語=観念に関する一切の伝達手段》を互いにもたない個体のことである。

整理して書けば以下の通りである。
M-spa<sys, conv-tacit>:M-spaは単一の存在論系および1つ以上の非明示な規約を要素としてもつ圏conv-tacitを含む(超)構造である。

*同一の超曲面上において、それぞれの観測者は暫定的な/相対論的な操作しかおこなうことができない。